短編小説(2庫目)

 飼い慣らしたと思っていた羊が、大きくなって帰ってきた。

 一年ほど前、羊が俺を侵食してきたので俺は頑張って羊を飼い慣らした。
 それから俺と羊は平穏に暮らし、羊はいつの間にかいなくなって、少し寂しいと思いながらも俺は仕事をしたりゲームをしたりして暮らしていた。
 そんなある日。

『―――』
「羊?」

 同じ個体かどうかはわからない。しかし前よりは随分と大きくなった羊が、部屋にみっちり詰まっていた。

「あーあー、こんなに大きくなっちまって……そんなだと生活するのも大変だろうに」

 羊は答えない。
 もとよりコミュニケーションは望めぬ存在だった。ただそこにあって俺の存在を侵食してくる、そういう存在。
 飼い慣らしたというのはもののたとえで、単に俺がその存在に慣れただけである。

「大丈夫か?」

 本当に「大丈夫か?」なのは俺の方だとは知りつつも、羊に声をかける。

『………』

 羊は無言だ。
 そりゃそうか。

 しかしこんなに大きいと、侵食の度合いも大きいんじゃないか?
 明日から俺、正気でいられるかなあ。



 案の定、生活に支障が出た。
 強すぎる眠気に倦怠感、あるはずのないことをあったと思い、あったはずのことを忘れている。思い出そうとするとき、脳裏に広がるのはどこまでも続く平野。
 羊が俺を覗き込む。平たい目。

 侵食されている。

 羊が大きくなって帰ってきたのはどうしようもない。事実である。
 それで俺はどうするか?
 どうしようもない。慣れるしかない。
 慣れられるのか? これに?
 前回より強さの増した侵食に、俺が正気でいられるか?

 なんとか仕事のメールを書いて出して、ため息を吐く。
 本当にどうしたらいいんだ、これ。

 羊は鳴かない。



 ベッドで過ごすことが増えた。
 仕事のメールは積み上がっている。
 ふと目が覚めるとき、羊が俺を覗き込んでいるのが見える。
 侵食。意識が落ちる。

 決まって悪夢を見る。
 夢の中でも意識が落ちて、

『■■くん。君のせいだよ。君がそんなに怠けているから我々の■■は■■したんだ。反省しなさい。■■は寝るために来るところではない』
『■■くん。どうしてそんなにやる気がないの? 寝てしまうなら前の日にもっと早く寝るとか、努力をしたらどうなのかしら。いずれにせよ、あなたはきっと将来も駄目ね』
『■■くん』
『■■くん』
『失敗作』
「………」

 目が覚める。全身に汗をかいている。
 羊は窓の外を見ている、カーテンが引かれた窓の外を。

「………」

 俺はベッドサイドに置いたコップから水を飲んで、横になったままだから飲みにくい。
 なんとか飲んで、コップを戻す。

 いつからこんな風になってしまったのだろう?
 あの羊が来てからか?
 いや、もっと前から俺はこんな風ではなかったか?

 思い出せない。なかったことがあったことになり、あったことがなかったことになり、脳裏に広がるどこまでも続く平野……

 困った、いや困らない。俺より困っている人などいくらでもいる、だからこんなのは困ったうちに入らない。
 それより羊をなんとかしないと。
 しかし羊も生き物、傷つけたり機嫌を損ねたりするわけにもいかない。丁重に扱わなければ。
 横になって考える。
 これまでだっていい方法が見つからなかったものを、少し考えたくらいで解決策なんて思い付くわけがない。
 この世に魔法などない。
 だから俺は■■したのだっけ?
 いや、そんなことは本当にあったことなのだろうか。
 どうかな。
 案外今の方が幸せなのかもしれないぞ。
 羊もほら、あんなに■■しているじゃないか。
 一緒に眠ればいいんだ。そうすれば何もかもから解放される。
 わかっているんだ。本当は何が一番正しいのか。

 流されてはいけない、と叫ぶ自分と、また慣れればいい、と諭す自分がいて、どちらを信じればいいのかわからない。
 世間的には前者であり、楽になるなら後者であるのだが。

 こんな日常、いつまで続くのだろう。
 わからなかった。わからなかったから、また目を閉じた。

 俺は寿命を削っている。

 羊は鳴かない。
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