短編小説(2庫目)

 一生手に入らないのならいっそ泥に塗れて死んでしまえばいいのに。
 そう思う。



 あの日死んだそいつ。先生はやけにそいつに世話を焼いていて、そいつも先生のことを悪くは思っていない様子だった。
 先生は自分のこともよくできないのにそいつの世話を焼きたがるから、家のことは俺が全てやっていた。
 なぜ先生がそいつに構うのかは知らない。先の戦争で片腕を失ったそいつのことを先生は……慕っていたのかもしれない。
 いつか、先生とそいつの関係性を問うたとき、先生はそいつを古くからの知り合いだと言った。
 それ以上のことは教えてくれなかった。
 言いたくなかったのか、言う気がなかったのか、俺にはわからない。
 古くからの知り合いであるというだけでそんなに構うものなのだろうか。
 きっと先生は何かを隠していた。俺に言えないことがあった。
 先生とあいつの間には俺には見えない何かがあった。
 だから――



 あの日、あいつは自宅で■を■して■■だらしい。
「某くん」
 ふらふらと自宅に戻って俺に縋りついてきた先生の顔は蒼白だった。
「大丈夫ですよ」
 俺は言った。
「これからは俺が先生を支えますから」
「……」



 あいつに身寄りはなかったので、葬儀は先生が行った。
 何もかも終わった後、静かに涙を零す先生に俺はまた言った。
「大丈夫ですよ、先生」
「……」
「何も心配はいりません。先生は――さんを失った悲しみが癒えるまで何もしなくていいんです。存分に泣いてください。大丈夫、俺がずっとお傍にいます」
「……ありがとう、某くん」
 涙の中、それでも先生は笑った。
 その笑みが本当の笑みだったのか、俺は知らない。



「先生、まだ寝てるんですか」
「むう……」
「あまり寝ていると体力が落ちてしまいますよ」
「某くんは厳しいねえ」
「俺は先生のためを思って言っているんです」
「……もう少し寝かせてくれ」
「少しだけですよ」
「ありがとう、某くん」
 先生は毎日夕方に起きる。
 夕方に起きて、夜中に眠る。
 あいつが死んでから、先生の睡眠時間は狂ってしまった。
 けれども俺はそれでいいと思っている。
 先生は眠っていればいい。
 眠って、俺に支えられていればいい。
 何もできなくていい。
 駄目なままでいい。
 俺はずっと先生を支えるつもりだった。



 先生は時々夢の話をするようになった。
 まるであいつと本当に会ったかのような口ぶりで、あいつの話をする。
 想定しておくべきだった。
 依存対象を失った先生が幻を見ることぐらいは。
 俺は先生を早く起こすようになった。
「私は寝ていたいんだよ、某くん」
「どうしてですか、先生」
「眠っていれば、あの人と会えるから」
「……」
 朝に起こして、俺が家事をしている間、先生は眠る。
 そして夕方、あいつの話をする。
 先生。
 先生。
 どうしてですか?
 一生手に入らないのなら、泥に塗れて死んでしまえばいいのに。



「………」
 先生は幸せそうな顔をしていた。
 起きているどんなときよりも、■んでしまった今が、一番幸せそうな顔をしていた。
 俺は思う。
 結局手に入れることなどできはしなかったのだ。
 あいつは■んだ。先生も■んだ。
 同じところに行ってしまった。
 後悔? どうだろう。
 喪失? どうだろう。
 何を思えばいいのかもうわからなかった。
 だから俺は先生を探すことにした。
 先生は死んだんじゃない、きっと俺から隠れているだけだ。
 どこかに隠れて、見つけられるのを待っている。
「どこですか、先生」
 どこにいるんですか?

 庭を掘ってもわからなかった。
 山を掘ってもわからなかった。
 墓を掘ってもわからなかった。
 それじゃあどこにいるのだろうか?
 手元にあるのは、あの日の刃物。
 俺はそれを――
 ■した。


(終)
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