短編小説
村を焼かれた。らしい。
らしい、というのは全く実感がないからだ。
僕はノーマン。焼かれた村に住んでいた。
焼かれた村には名前がない。名前がないと村の運営に支障が出ないかと思うのだが、しかし、名前がなかった。
家族。隣人。幼なじみ。みんないなくなったはずなのに、記憶がおぼろげだ。どんな顔で笑っていたのか、一緒にどこに遊びに行ったか、思い出そうとしても空白が広がるばかり。
村の間取りも記憶にない。ぼんやりと村、という概念があるだけで、何がどこにあったかぽっかりと抜けている。家、井戸、畑があっただろうか。あったかもしれない。空白だ。
村の特産品はワイルドラディッシュ。大味だがゆでるとうまい。村を焼かれた実感はないが、他の村から仕入れた海産物と一緒に作るワイルドラディッシュ鍋のうまさだけははっきりと覚えている。
それを覚えているのなら、一緒に鍋を囲んだはずの家族やことによっては幼なじみのことだって思い出せるかと思ったのだが、何もない。空いている。黒々とした闇だ。
村が焼かれてしまったので僕は王都に避難してきた。王都で僕のいた村は「焼かれた村」と呼ばれていた。
焼かれた村は他にも多くあったが、きっと住民には焼かれたという事実のみが重要で、その他のことはどうでもいいのだろう。
仮住まいの椅子に座って村のことを思い出そうと唸ってみたり、避難所を回って他の人たちに訊いてみたりしていたのだが、記憶は応えてくれないし、他の人たちは
「村が焼かれてしまった。本当に悲しい。聞いたか、騎士団が団員を募集しているんだってよ。腕に覚えがあるなら試験を受けてみたらどうだ。え、村のこと? 今は避難生活でいっぱいいっぱいだ。悪いが他を当たってくれ」
とか、
「村を焼かれてしまったのです。え、村がどんな風だったかって? 知りませんよ、私はあなたと違う村ですし。村の名前? さあ……名前なんて気にしたこともありませんでした。とにかく焼かれた村ですよ」
とか、
「妹が魔物に……勇者様さえいればこんなことにはならなかったかもしれないのに。勇者様はまだ現れないのか。え、妹の名前? 妹は妹だろ。俺に妹は一人しかいないんだ」
などと言うばかり。
情報は一向に集まらなかった。
徒労に終わる会話にも疲れてきて、僕はふらふらとバーに向かった。
「いらっしゃい」
「何がありますか?」
「ここに来る客はいつもビアーしか頼まんよ」
「メニューが見たいんですが」
「お前さん、余所者だな。避難民か?」
「そうですけど……」
「大変だったな。メニューは壁だ」
マスターが顎をしゃくって見せた先に、メニューがあった。
「あ、りがとうございます」
ビアー、シダー、ミルにラディッシュジュース。ラディッシュジュースとは。ひょっとして、僕の村の特産品から作られていたりするのだろうか。
「じゃあ、ラディッシュジュースをください」
「ほう。わかった」
マスターはグラスを取り、そこに樽から液体を注いだ。液体は最初は金色だったが、グラスに注がれると白に変わる。
「マジックですか?」
「はは。魔法だよ」
「魔法。マスターは魔法が使えるんですか」
「しいっ、静かに喋ってくれ。俺が魔法を使えるってことは機密事項だ」
「へえ……?」
「ま、頑張れよ」
「え?」
ぎい、という音がして、バーに新たな客が入ってきた。
「いらっしゃい」
「仲間を探してるんだけど」
その言葉に、店にいた客たちがにわかにざわめき出すのがわかった。
「あの格好、あの服装」
「仲間を探してるって……」
「まさか、勇者……」
マスターはグラスを拭きながら、
「まあ一杯」
と言った。
暫定・勇者はつかつかと歩いてきて、僕の隣に座る。
「君、何飲んでるの? ビアーじゃないみたいだけど」
「え、これは、ラディッシュジュースです」
「ラディッシュジュース? 大根みたいな?」
「大根?」
「ああごめん。俺の地方に似たような作物があるんだよ。たぶん似てるんだと思う。でもこっちのラディッシュジュースはどんな味なんだろうね。マスター、俺にもラディッシュジュース」
「はいよ」
マスターが樽からジュースを注ぐ。金色から白へ。僕はジュースの色の変化を見ていたが、暫定・勇者は僕の方を見ていた。
「君はどんな人?」
「どんな?」
「出身は?」
『俺の村はつい先日、焼かれたんだ』
あれ? こんなことを言うつもりじゃなかったのに。
「そうか……」
勇者は沈鬱な表情をした。
『俺は村を焼いた魔王軍が憎い。勇者よ、俺を旅に連れて行ってはくれないか』
「あ、そういう? いいよ。君の特技は?」
『俺は剣士だ。村では幼なじみと一緒に魔物相手に剣を振るったが、その幼なじみも今はもういなくなってしまった。いや、すまない。こちらの話だ』
幼なじみと一緒に剣を振るったことなんかあったっけ? そう思った側から、僕の記憶に一つ確かな光が発生した。村の横にあった森で、幼なじみと一緒に剣を振るった記憶。毎日我流で剣を振るった。修行の途中に襲ってくる魔物がいい練習台になってくれて、倒した魔物の肉を村に持ち帰ったりもしていた。それをワイルドラディッシュ鍋に入れて食べたものだ。甲殻系の魔物の肉。海産物のような味がした。
本当に、そうだっただろうか。
「剣士か。前衛だね。助かるよ。君が一人目の仲間だ。勇者も前衛職だから、一緒に前衛で戦ってくれる仲間ってのは心強い。これからよろしくね」
『よろしく頼む。ノーマンだ』
「うん、よろしく」
トン、とグラスがカウンターに置かれる。
ラディッシュジュースを勇者の目の前に置いたマスターが、こちらを見ていた。
頭の中でかち、という音がする。押し込められたかのようになっていた思考がふわりと元に戻る。
「僕はノーマンですが、勇者さん、あなたの名前は?」
「ええと」
勇者は困ったような顔をした。
「名前はあるんだけど、ええと」
「言いにくいですか?」
「言いにくい。俺の名前じゃないような感じがしちゃってね。だから、勇者……じゃ味気ないなあ。そうだ。ブレイブ、って呼んでくれればいいから」
「わかりました、ブレイブさん」
「よろしくね、ノーマン」
そうして、僕とブレイブさんは握手して、仲間になった。
◆
それから仲間を探す旅は続いたが、一向に仲間は見つからない。
必然的に、襲ってくる魔物には僕と勇者、ブレイブさんの二人きりで対処することになる。
魔物なんかと戦うのは怖いと思っていた。戦えるのかどうかすら不安だった。しかし、身体は勝手に動いてくれた。まるで本当に剣を振るっていたかのよう。
いや。本当に剣を振るっていたじゃないか。幼なじみもいた。何という名前だったかは忘れたけれど、毎日一緒に……
「ノーマン!」
眼前に迫っていた魔物が切り裂かれる。
「最後の一体だ。何とか切り抜けられたね」
ざ、と剣から血をはらうブレイブさん。
「どうしたんだい、調子が悪いのかな?」
「いえ……」
「ちょっと休憩しようか」
「……」
「そうしよう。なんせ、もう日が暮れる。ここで頑張りすぎて倒れちゃったら元も子もないからね」
そう言って、ブレイブさんはてきぱきと魔物よけの結界を張り始めた。
旅をし始めてわかったことなのだが、ブレイブさんは割と何でもできる。今みたいに結界も張れるし、剣も魔法も回復もできるし、料理だってできる。正直、一人でも冒険できるんじゃないかと思うときがよくある。
「ほいテント、ほいシュラフ」
何もないところから物を出すのにももう慣れた。僕には見えない、いんべんとり? とやらに入れているらしい。勇者の祝福か何かだろう。勇者の祝福が何か具体的にはわからないが、とにかくそういう言葉が僕の記憶の中にはあった。村の長から聞いたのか、家族から聞いたのか、細かいところは思い出せないが。
「今日のご飯は甲殻種のラディッシュ鍋だよ」
「おお」
「好物だったよね?」
「あれ、どうして知ってるんですか?」
「秘密。勇者パワーとでも思ってて」
勇者パワー……勇者の祝福のことだろうか。何でもできるんだな。祝福ってすごいと僕は思った。
ブレイブさんがいんべんとりから薪を出す。てきぱきと組んで、魔法で火を点ける。
「もうすぐ冬で暗くなってくるのも早いから、今のうちに火をつけとかなきゃね」
「冬って暗くなるのが早いんですか?」
ブレイブさんはきょとんとした顔をした。
何か変なことを訊いてしまっただろうか。
「すみません、僕……」
「いいや、確かにそうだね。このせか……いや、神が季節を司るこの地方の冬も暗くなるのが早いのかな。考えたことがなかった」
「あ、でも、毎日日が落ちるのは早くなってきてますし、やっぱり暗くなるのは早いんだと思います」
「ふむ」
甲殻種をぶつ切りにしていたブレイブさんの傍らに、分厚い本が現れる。
「ノーマン、太陽神のページを開いてくれるかい?」
「えっと」
「目次に項目があると思うから」
「でも僕、字なんて読んだことないですよ」
「読んだことないのと読めないのとは違うだろう? とりあえず2ページくらい開いてみなよ」
本当に読んだことがないのに。僕はしぶしぶページを2枚めくった。
「あれ……」
紙の上に細かく並んでいる黒い焦げ跡のようなものが何かを表していることがわかる。何を表しているかがわかる。
「読めます……」
「だろう?」
僕はなんとなく字を追う。世界の始まり。主神たち。
「太陽神という文字を探して、その下に書いてある数字を見て、ページの隅にある数字と一致するページを開けてくれ。ページの数字は前から後ろに進むに従って大きくなるから」
「ええと、わかりました」
多少苦労したが、僕が開いたページにブレイブさんは頷いてそれだねと言ったので、正しいページを開けたことがわかった。
甲殻種のぶつ切りとラディッシュのぶつ切りを鍋に放り込みながら、ブレイブさんは本を見ている。
「ブレイブさん」
「何かな?」
「料理するか、本を読むか、どっちかにしたらどうでしょう?」
「ああ、でも……」
「夜は長いですよ」
「……そうだね。じゃあ料理の方を先にしてしまうよ」
ブレイブさんはいんべんとりから瓶をいくつか取り出し、中のものを鍋に入れた。
「あとはこれを火にかけて待つだけだから」
そう言ってブレイブさんは手を拭き、本を膝の上に載せた。
静かになった。
たき火の爆ぜるぱちぱちという音と、ブレイブさんが本をめくるぱらぱらという音、そして木々の揺れる音だけがしている。音がしていたら静かとは言わないのかもとも思うのだが、鳴っている音たちは心地よく、不思議と心が落ち着くのだ。こういうことをうまく表す言葉を僕は知らないけれど、戦っているときの朦朧とした状態とは全然違うし、悪くはないと思うのだった。
そうして、鍋がぐつぐつ言い始める。
「ブレイブさん」
「……」
「ブレイブさあん」
「わかった」
ブレイブさんは顔を上げた。
「冬になると、太陽神を追いかける蛇の速度が上がるんだよ。身体を温めるためらしい。そうすると、太陽神も追いつかれないように急ぐから、日が落ちるのが早くなるということだった」
「そうなんですか、それは……ブレイブさん」
「何かな」
「鍋が煮えてます」
「あ、いけない」
ブレイブさんは急いで本を脇に置くといんべんとりからおたまとお椀を取り出し、鍋をかき混ぜ始めた。
「なんだか僕、神々を身近に感じました」
「ほう。どうしてかな?」
鍋を混ぜながらブレイブさんが問い返す。
「だって、追いかけたり急いだりって人間らしいです。人間に近いというのは僕たちに近いということで、なんか、生きてるんだなあと思って」
「ふふ」
ブレイブさんが笑う。
「おかしいですか」
「いや。俺の話、聞いてくれてたんだね」
「ブレイブさんの話はいつも面白いですから」
「そうかな。そんなこと言われたの、始めてだよ」
「おかしいですね。そんなに面白いお話ができたらご友人もいっぱいいるかと思うんですが」
「うん……」
ブレイブさんはお玉を持ったまま遠い目をした。
「友人はね、いなかった。なんか、できないんだよね。地元にいた頃は、俺が変なことばかり言うからみんな俺を避けてた」
「え……」
僕は信じられない思いでブレイブさんを見た。
「みんなが気にしないようなことを気にする奴は、全体の和を乱すからね。いない方がよかったんだろう。まあ色々あって俺は地元を離れたわけだけど、俺がいなくなって地元の人たちはせいせいしてると思うよ」
「そんな……」
「きっとこんな俺だから、仲間も見つからないんだろう。もうさ、ここでの役目だってさっさと終えて、君のこともさっさと解放してさ。早くいなくなってしまった方が、この地方のためになるかなあとか、たまに思うんだよね」
「……」
「ノーマン?」
「そんなこと、言わないでください」
「え?」
「ブレイブさんがいなくなったら……ブレイブさんと別れるのは、僕は寂しいです」
ブレイブさんはお玉を見詰めながら少し黙り込んで、ややあって、そうか、と言った。
「君は。惜しんでくれるんだね」
空を見上げるブレイブさん。僕もつられて見上げる。
満天の星がぶちまけられている。
しばらく二人とも無言だった。
流れ星が一つ流れるころ、ブレイブさんはさて、と言い、
「けっこう煮えちゃったね……塩辛いかもしれない」
鍋の中身をお椀に注いで、僕に渡した。
「ありがとうございます」
「食べてみて」
「では遠慮なく。いただきます」
箸を持って、ラディッシュから口に運ぶ。歯を立てると、塩気の効いた甲殻種のだしが口いっぱいに広がった。
咀嚼して、飲み込む。
「おいしいです」
「塩辛くない?」
「全然」
「そう?」
ブレイブさんも自分の分を口に運ぶ。もぐもぐと口が動き、飲み込む。
「本当だ、おいしいね」
ええ、と僕は応える。
おいしいおいしいと言いながらブレイブさんは鍋を食べている。
他の仲間なんて別に見つからなくてもいいのにな、と少しだけ思った。
◆
果たして、仲間は見つかった。旅の僧侶と、魔法使い。後衛職が二人なんて運がいい、なんてブレイブさんは喜んだけれど。
僕の方は、戦闘のとき以外にも意識が朦朧とすることが増えた。
初めてブレイブさんと会って出身を聞かれたあの時のように、身体が口が僕の意志とは関係なく勝手に動いて事を成す。成した結果は戦闘の勝利だったり、設営の準備だったり、障害物の破壊だったり、悪いことは一つもなかったのだが、僕としてはこの心にもやがかかったような状態は少し怖い。
ブレイブさんに相談しようと思ったのだが、できなかった。そのことについて口に出そうとすると、胸が圧迫されたようになって印象が薄れてしまうのだ。
最近ではそのことについて考えることも難しくなってきていて、怖いという感情すら消えてしまいそうになっていた。
そんなある日。相変わらず朦朧とする意識の底から、僕は自分が甲殻種と戦っているところを見ていた。
ブレイブさんと二人きりの旅だった頃と比べて戦闘はぐんとスムーズになっており、魔法使いが焼き払った残党を前衛職が潰すだけというものだった。
『よっと。潰すだけなんだから楽だよな。張り合いがない』
俺は寄ってくる甲殻種を切り払いながら前に進む。
『ちょっとノーマン、僕たち後衛が頑張った成果なんだからもっと感謝してよね』
魔法使いが苦情を飛ばしてくるが、聞こえないふりをする。
『こんな雑魚ばかり相手にしてちゃ腕が鈍りそうだよな。勇者、お前も……勇者?』
勇者は棒立ちになっており、背後から甲殻種が鋏を振り上げていた。
『勇者!』
僧侶が叫ぶ。
間一髪のところで、俺は鋏を切り落とした。もう一方の鋏を振り上げて俺に向かおうとする甲殻種の、頭を破壊する。
甲殻種は沈黙した。
『ふう。今ので最後だな。どうした勇者、戦場で意識を飛ばすなど』
「ごめん。ちょっとね」
『疲れてるのかなあ。休んだ方がいいよお。もう日暮れだし、早く寝て疲れなんて吹っ飛ばしちゃお』
間延びした調子で僧侶が提案すると、そうだねと勇者は応えた。
僧侶が魔物よけの結界を張り、魔法使いが火を起こし、勇者はインベントリから薪を取り出した。
パーティの調理担当は当番制で、本日は俺の担当だ。今日は立ち寄った村で分けてもらったワイルドラディッシュと先ほど倒した甲殻種を一緒に煮込んで鍋にする予定だ。故郷の村にいたときによく作っていた得意料理である。
俺はワイルドラディッシュと甲殻種をぶつ切りにして鍋に放り込んだ。
『おいしそうだねえ』
結界を張り終わった僧侶が肩からのぞき込んでくる。
『ノーマンは料理うまいもんねえ』
『お前もな』
『そりゃ、教会で散々修行したからねえ』
『そうか』
そんなやり取りをしながら、近くの小川でくんできた水を鍋に入れて火にかける。
魔法使いの魔法の火はあっという間に鍋を煮立たせた。
蓋を閉じてしばらく煮込み、しばらくして鍋ができあがる。
『できたぞ、勇者』
僧侶と魔法使いはもう集まっている。
俺は結界の端で座っていた勇者を呼び寄せた。
鍋を椀についで、それぞれに配る。
『おいしいねえ』
『おいしいね』
『勇者、お前はどう思う?』
「おいしいと思うよ」
『光栄だ。勇者の役に立つことが俺達の存在意義だからな』
「ええと、ありがとう」
それから勇者はずっと言葉少なだった。まあ、勇者が言葉少ななのは今に始まったことじゃない。
『ごちそうさまあ』
俺達が鍋を食べ終えても、勇者はまだ皿をつついていた。
「俺が片付けとくから、みんなは先に寝ててよ」
『はあい』
『わかった』
僧侶と魔法使いは立ち上がるとテントに入っていった。
『勇者も早く寝ろよ。冬の夜は長いとはいえ、冷え込むからな』
「ノーマン」
『何だ』
「ノーマンは、冬は日が落ちるのが早いと思う?」
『と、』
当然だ、と答えようとして、ザ、と思考にノイズが走った。ノイズは次第に長くなり、ザザザと意識の霧を払い、
俺。
おれ。
僕は。
「ブレイブさん」
「何」
「僕、片付け手伝いますよ。食事当番ですし。一人でやるのもしんどいでしょう」
「ノーマン」
ブレイブさんは驚いたような顔でこちらを見ている。
「どうしました?」
「ううん……何でも」
「鍋、冷えるとおいしくないでしょう。ちょっと温めますよ」
魔法使いの起こした火は対象物以外を熱することなく夜通し燃え続ける、と、知識にある。
僕はブレイブさんの皿に残った汁とラディッシュを空っぽの鍋に戻し、火にかけた。
ぱちぱちと火の爆ぜる音。
鍋はすぐに温まった。
「どうぞ」
鍋の中身をブレイブさんの皿にあけて、渡す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ブレイブさんは箸でラディッシュを持ち上げ、口に入れる。
「温めたので塩辛くなってるかもしれませんが、どうですか」
もぐもぐとブレイブさんの口が動き、ごくんと飲み込む音がする。
「おいしいよ」
「そうですか、よかった」
それからブレイブさんはあっという間に皿の中身を平らげてしまった。
「ごちそうさま」
「お粗末様でした。さて、片付けをしましょう」
それから二人で黙々と片付けをし、月が天頂に上る頃にはたき火が燃えているだけとなった。
火が爆ぜる。
空気がしんと冷えている。
伸びをした僕の目に、満天の星空が映る。
「わあ……」
僕は嘆息した。
「星がとても綺麗です」
ブレイブさんもつられて空を見上げる。
「ほんとだ、綺麗だね」
「こんな星空、久々に見たかもしれません」
「俺も久々に見たよ」
沈黙が落ちる。ややあって、ブレイブさんが、
「ねえ、ノーマン」
と言った。
「前にさ……すごく前に思えるかもしれないけど、俺と別れるのは寂しいって言ってくれたよね。覚えてる?」
「覚えてますよ」
「あのさ」
そう言ってブレイブさんは少し黙る。
「この戦いが終わったら、俺はこの地方を離れると思う。そういう決まりになってるんだ。そのときにさ……一緒に着いてきてって言ったら、どうする?」
「……」
「ごめん……君もこの地方に愛着があるよね。離れたくないのも当然だ。変なことを言った。忘れ……」
「いいんですか?」
「え?」
「僕なんかが一緒に行っても、いいんですか? 僕は……戦うのが怖いし、知識もなんだか危ういし、それに、僕……僕のままでいられるかどうか」
わからない、と言おうとして、ぐっと胸が押し込められる感覚があった。
「そのことは気にしなくていいよ。一緒に来てくれるか来てくれないか、それだけ答えてくれたらいいから」
「……行きたいです。僕はもっとブレイブさんと一緒に――」
そこで、ザ、とノイズ。
僕の思考が靄に包まれていく。
僕は。
ぼく。
俺。
『いつまで起きているんだ、勇者。今日はもう遅い、早く寝た方がいいだろう』
「ああ……ノーマン。わかったよ」
『では』
「おやすみ」
◆
「あれ?」
「ノーマン。目が覚めたかい?」
「僕は……」
きょろきょろと辺りを見回す。見渡す限り、岩の大地が広がっている。
おかしいな。さっきまで、夜の草原にいたような気がしたんだけど。
「冒険は終わった。ここは世界の外なんだ」
「世界の外……」
「君が眠っている間に魔王は倒れた。色々と事情があってね。パーティは既に解散している」
「そうですか……お役に立てず、申し訳ない」
「いやいや。まあ、パーツさえあれば魔王は倒せるからね。いつもそうだ。こんなこと、いつまで続けるのかと思うけど……」
「ブレイブさん?」
「いや、こっちの話だよ」
風が吹く。岩盤の隙間に生えた花が揺れている。
太陽が昇りかけているのか、地平線には朝焼けの光。
静かだ。
「所属世界の外にさえ出てしまえばNPCの縛りは消える。君は俺と一緒に旅をしてくれる……そう言ったね?」
「言いました」
「世界を渡り歩く覚悟はあるかい?」
「ブレイブさんと一緒なら、どこにでも」
「いい返事だ。もし俺が……魔王になった、って言っても、答えは同じかい?」
「僕は正直、ブレイブさんが勇者でも魔王でもどっちでもいいんですよ。だから、ブレイブさんがどんな存在であろうと、僕はブレイブさんに着いていきます」
「わかった」
旅を始めよう、とブレイブさんは言って、僕に手を差し出す。
僕はブレイブさんの手を取った。
握手。
視界が光に包まれる。
そうして、僕とブレイブさんは仲間になった。
(おわり)
らしい、というのは全く実感がないからだ。
僕はノーマン。焼かれた村に住んでいた。
焼かれた村には名前がない。名前がないと村の運営に支障が出ないかと思うのだが、しかし、名前がなかった。
家族。隣人。幼なじみ。みんないなくなったはずなのに、記憶がおぼろげだ。どんな顔で笑っていたのか、一緒にどこに遊びに行ったか、思い出そうとしても空白が広がるばかり。
村の間取りも記憶にない。ぼんやりと村、という概念があるだけで、何がどこにあったかぽっかりと抜けている。家、井戸、畑があっただろうか。あったかもしれない。空白だ。
村の特産品はワイルドラディッシュ。大味だがゆでるとうまい。村を焼かれた実感はないが、他の村から仕入れた海産物と一緒に作るワイルドラディッシュ鍋のうまさだけははっきりと覚えている。
それを覚えているのなら、一緒に鍋を囲んだはずの家族やことによっては幼なじみのことだって思い出せるかと思ったのだが、何もない。空いている。黒々とした闇だ。
村が焼かれてしまったので僕は王都に避難してきた。王都で僕のいた村は「焼かれた村」と呼ばれていた。
焼かれた村は他にも多くあったが、きっと住民には焼かれたという事実のみが重要で、その他のことはどうでもいいのだろう。
仮住まいの椅子に座って村のことを思い出そうと唸ってみたり、避難所を回って他の人たちに訊いてみたりしていたのだが、記憶は応えてくれないし、他の人たちは
「村が焼かれてしまった。本当に悲しい。聞いたか、騎士団が団員を募集しているんだってよ。腕に覚えがあるなら試験を受けてみたらどうだ。え、村のこと? 今は避難生活でいっぱいいっぱいだ。悪いが他を当たってくれ」
とか、
「村を焼かれてしまったのです。え、村がどんな風だったかって? 知りませんよ、私はあなたと違う村ですし。村の名前? さあ……名前なんて気にしたこともありませんでした。とにかく焼かれた村ですよ」
とか、
「妹が魔物に……勇者様さえいればこんなことにはならなかったかもしれないのに。勇者様はまだ現れないのか。え、妹の名前? 妹は妹だろ。俺に妹は一人しかいないんだ」
などと言うばかり。
情報は一向に集まらなかった。
徒労に終わる会話にも疲れてきて、僕はふらふらとバーに向かった。
「いらっしゃい」
「何がありますか?」
「ここに来る客はいつもビアーしか頼まんよ」
「メニューが見たいんですが」
「お前さん、余所者だな。避難民か?」
「そうですけど……」
「大変だったな。メニューは壁だ」
マスターが顎をしゃくって見せた先に、メニューがあった。
「あ、りがとうございます」
ビアー、シダー、ミルにラディッシュジュース。ラディッシュジュースとは。ひょっとして、僕の村の特産品から作られていたりするのだろうか。
「じゃあ、ラディッシュジュースをください」
「ほう。わかった」
マスターはグラスを取り、そこに樽から液体を注いだ。液体は最初は金色だったが、グラスに注がれると白に変わる。
「マジックですか?」
「はは。魔法だよ」
「魔法。マスターは魔法が使えるんですか」
「しいっ、静かに喋ってくれ。俺が魔法を使えるってことは機密事項だ」
「へえ……?」
「ま、頑張れよ」
「え?」
ぎい、という音がして、バーに新たな客が入ってきた。
「いらっしゃい」
「仲間を探してるんだけど」
その言葉に、店にいた客たちがにわかにざわめき出すのがわかった。
「あの格好、あの服装」
「仲間を探してるって……」
「まさか、勇者……」
マスターはグラスを拭きながら、
「まあ一杯」
と言った。
暫定・勇者はつかつかと歩いてきて、僕の隣に座る。
「君、何飲んでるの? ビアーじゃないみたいだけど」
「え、これは、ラディッシュジュースです」
「ラディッシュジュース? 大根みたいな?」
「大根?」
「ああごめん。俺の地方に似たような作物があるんだよ。たぶん似てるんだと思う。でもこっちのラディッシュジュースはどんな味なんだろうね。マスター、俺にもラディッシュジュース」
「はいよ」
マスターが樽からジュースを注ぐ。金色から白へ。僕はジュースの色の変化を見ていたが、暫定・勇者は僕の方を見ていた。
「君はどんな人?」
「どんな?」
「出身は?」
『俺の村はつい先日、焼かれたんだ』
あれ? こんなことを言うつもりじゃなかったのに。
「そうか……」
勇者は沈鬱な表情をした。
『俺は村を焼いた魔王軍が憎い。勇者よ、俺を旅に連れて行ってはくれないか』
「あ、そういう? いいよ。君の特技は?」
『俺は剣士だ。村では幼なじみと一緒に魔物相手に剣を振るったが、その幼なじみも今はもういなくなってしまった。いや、すまない。こちらの話だ』
幼なじみと一緒に剣を振るったことなんかあったっけ? そう思った側から、僕の記憶に一つ確かな光が発生した。村の横にあった森で、幼なじみと一緒に剣を振るった記憶。毎日我流で剣を振るった。修行の途中に襲ってくる魔物がいい練習台になってくれて、倒した魔物の肉を村に持ち帰ったりもしていた。それをワイルドラディッシュ鍋に入れて食べたものだ。甲殻系の魔物の肉。海産物のような味がした。
本当に、そうだっただろうか。
「剣士か。前衛だね。助かるよ。君が一人目の仲間だ。勇者も前衛職だから、一緒に前衛で戦ってくれる仲間ってのは心強い。これからよろしくね」
『よろしく頼む。ノーマンだ』
「うん、よろしく」
トン、とグラスがカウンターに置かれる。
ラディッシュジュースを勇者の目の前に置いたマスターが、こちらを見ていた。
頭の中でかち、という音がする。押し込められたかのようになっていた思考がふわりと元に戻る。
「僕はノーマンですが、勇者さん、あなたの名前は?」
「ええと」
勇者は困ったような顔をした。
「名前はあるんだけど、ええと」
「言いにくいですか?」
「言いにくい。俺の名前じゃないような感じがしちゃってね。だから、勇者……じゃ味気ないなあ。そうだ。ブレイブ、って呼んでくれればいいから」
「わかりました、ブレイブさん」
「よろしくね、ノーマン」
そうして、僕とブレイブさんは握手して、仲間になった。
◆
それから仲間を探す旅は続いたが、一向に仲間は見つからない。
必然的に、襲ってくる魔物には僕と勇者、ブレイブさんの二人きりで対処することになる。
魔物なんかと戦うのは怖いと思っていた。戦えるのかどうかすら不安だった。しかし、身体は勝手に動いてくれた。まるで本当に剣を振るっていたかのよう。
いや。本当に剣を振るっていたじゃないか。幼なじみもいた。何という名前だったかは忘れたけれど、毎日一緒に……
「ノーマン!」
眼前に迫っていた魔物が切り裂かれる。
「最後の一体だ。何とか切り抜けられたね」
ざ、と剣から血をはらうブレイブさん。
「どうしたんだい、調子が悪いのかな?」
「いえ……」
「ちょっと休憩しようか」
「……」
「そうしよう。なんせ、もう日が暮れる。ここで頑張りすぎて倒れちゃったら元も子もないからね」
そう言って、ブレイブさんはてきぱきと魔物よけの結界を張り始めた。
旅をし始めてわかったことなのだが、ブレイブさんは割と何でもできる。今みたいに結界も張れるし、剣も魔法も回復もできるし、料理だってできる。正直、一人でも冒険できるんじゃないかと思うときがよくある。
「ほいテント、ほいシュラフ」
何もないところから物を出すのにももう慣れた。僕には見えない、いんべんとり? とやらに入れているらしい。勇者の祝福か何かだろう。勇者の祝福が何か具体的にはわからないが、とにかくそういう言葉が僕の記憶の中にはあった。村の長から聞いたのか、家族から聞いたのか、細かいところは思い出せないが。
「今日のご飯は甲殻種のラディッシュ鍋だよ」
「おお」
「好物だったよね?」
「あれ、どうして知ってるんですか?」
「秘密。勇者パワーとでも思ってて」
勇者パワー……勇者の祝福のことだろうか。何でもできるんだな。祝福ってすごいと僕は思った。
ブレイブさんがいんべんとりから薪を出す。てきぱきと組んで、魔法で火を点ける。
「もうすぐ冬で暗くなってくるのも早いから、今のうちに火をつけとかなきゃね」
「冬って暗くなるのが早いんですか?」
ブレイブさんはきょとんとした顔をした。
何か変なことを訊いてしまっただろうか。
「すみません、僕……」
「いいや、確かにそうだね。このせか……いや、神が季節を司るこの地方の冬も暗くなるのが早いのかな。考えたことがなかった」
「あ、でも、毎日日が落ちるのは早くなってきてますし、やっぱり暗くなるのは早いんだと思います」
「ふむ」
甲殻種をぶつ切りにしていたブレイブさんの傍らに、分厚い本が現れる。
「ノーマン、太陽神のページを開いてくれるかい?」
「えっと」
「目次に項目があると思うから」
「でも僕、字なんて読んだことないですよ」
「読んだことないのと読めないのとは違うだろう? とりあえず2ページくらい開いてみなよ」
本当に読んだことがないのに。僕はしぶしぶページを2枚めくった。
「あれ……」
紙の上に細かく並んでいる黒い焦げ跡のようなものが何かを表していることがわかる。何を表しているかがわかる。
「読めます……」
「だろう?」
僕はなんとなく字を追う。世界の始まり。主神たち。
「太陽神という文字を探して、その下に書いてある数字を見て、ページの隅にある数字と一致するページを開けてくれ。ページの数字は前から後ろに進むに従って大きくなるから」
「ええと、わかりました」
多少苦労したが、僕が開いたページにブレイブさんは頷いてそれだねと言ったので、正しいページを開けたことがわかった。
甲殻種のぶつ切りとラディッシュのぶつ切りを鍋に放り込みながら、ブレイブさんは本を見ている。
「ブレイブさん」
「何かな?」
「料理するか、本を読むか、どっちかにしたらどうでしょう?」
「ああ、でも……」
「夜は長いですよ」
「……そうだね。じゃあ料理の方を先にしてしまうよ」
ブレイブさんはいんべんとりから瓶をいくつか取り出し、中のものを鍋に入れた。
「あとはこれを火にかけて待つだけだから」
そう言ってブレイブさんは手を拭き、本を膝の上に載せた。
静かになった。
たき火の爆ぜるぱちぱちという音と、ブレイブさんが本をめくるぱらぱらという音、そして木々の揺れる音だけがしている。音がしていたら静かとは言わないのかもとも思うのだが、鳴っている音たちは心地よく、不思議と心が落ち着くのだ。こういうことをうまく表す言葉を僕は知らないけれど、戦っているときの朦朧とした状態とは全然違うし、悪くはないと思うのだった。
そうして、鍋がぐつぐつ言い始める。
「ブレイブさん」
「……」
「ブレイブさあん」
「わかった」
ブレイブさんは顔を上げた。
「冬になると、太陽神を追いかける蛇の速度が上がるんだよ。身体を温めるためらしい。そうすると、太陽神も追いつかれないように急ぐから、日が落ちるのが早くなるということだった」
「そうなんですか、それは……ブレイブさん」
「何かな」
「鍋が煮えてます」
「あ、いけない」
ブレイブさんは急いで本を脇に置くといんべんとりからおたまとお椀を取り出し、鍋をかき混ぜ始めた。
「なんだか僕、神々を身近に感じました」
「ほう。どうしてかな?」
鍋を混ぜながらブレイブさんが問い返す。
「だって、追いかけたり急いだりって人間らしいです。人間に近いというのは僕たちに近いということで、なんか、生きてるんだなあと思って」
「ふふ」
ブレイブさんが笑う。
「おかしいですか」
「いや。俺の話、聞いてくれてたんだね」
「ブレイブさんの話はいつも面白いですから」
「そうかな。そんなこと言われたの、始めてだよ」
「おかしいですね。そんなに面白いお話ができたらご友人もいっぱいいるかと思うんですが」
「うん……」
ブレイブさんはお玉を持ったまま遠い目をした。
「友人はね、いなかった。なんか、できないんだよね。地元にいた頃は、俺が変なことばかり言うからみんな俺を避けてた」
「え……」
僕は信じられない思いでブレイブさんを見た。
「みんなが気にしないようなことを気にする奴は、全体の和を乱すからね。いない方がよかったんだろう。まあ色々あって俺は地元を離れたわけだけど、俺がいなくなって地元の人たちはせいせいしてると思うよ」
「そんな……」
「きっとこんな俺だから、仲間も見つからないんだろう。もうさ、ここでの役目だってさっさと終えて、君のこともさっさと解放してさ。早くいなくなってしまった方が、この地方のためになるかなあとか、たまに思うんだよね」
「……」
「ノーマン?」
「そんなこと、言わないでください」
「え?」
「ブレイブさんがいなくなったら……ブレイブさんと別れるのは、僕は寂しいです」
ブレイブさんはお玉を見詰めながら少し黙り込んで、ややあって、そうか、と言った。
「君は。惜しんでくれるんだね」
空を見上げるブレイブさん。僕もつられて見上げる。
満天の星がぶちまけられている。
しばらく二人とも無言だった。
流れ星が一つ流れるころ、ブレイブさんはさて、と言い、
「けっこう煮えちゃったね……塩辛いかもしれない」
鍋の中身をお椀に注いで、僕に渡した。
「ありがとうございます」
「食べてみて」
「では遠慮なく。いただきます」
箸を持って、ラディッシュから口に運ぶ。歯を立てると、塩気の効いた甲殻種のだしが口いっぱいに広がった。
咀嚼して、飲み込む。
「おいしいです」
「塩辛くない?」
「全然」
「そう?」
ブレイブさんも自分の分を口に運ぶ。もぐもぐと口が動き、飲み込む。
「本当だ、おいしいね」
ええ、と僕は応える。
おいしいおいしいと言いながらブレイブさんは鍋を食べている。
他の仲間なんて別に見つからなくてもいいのにな、と少しだけ思った。
◆
果たして、仲間は見つかった。旅の僧侶と、魔法使い。後衛職が二人なんて運がいい、なんてブレイブさんは喜んだけれど。
僕の方は、戦闘のとき以外にも意識が朦朧とすることが増えた。
初めてブレイブさんと会って出身を聞かれたあの時のように、身体が口が僕の意志とは関係なく勝手に動いて事を成す。成した結果は戦闘の勝利だったり、設営の準備だったり、障害物の破壊だったり、悪いことは一つもなかったのだが、僕としてはこの心にもやがかかったような状態は少し怖い。
ブレイブさんに相談しようと思ったのだが、できなかった。そのことについて口に出そうとすると、胸が圧迫されたようになって印象が薄れてしまうのだ。
最近ではそのことについて考えることも難しくなってきていて、怖いという感情すら消えてしまいそうになっていた。
そんなある日。相変わらず朦朧とする意識の底から、僕は自分が甲殻種と戦っているところを見ていた。
ブレイブさんと二人きりの旅だった頃と比べて戦闘はぐんとスムーズになっており、魔法使いが焼き払った残党を前衛職が潰すだけというものだった。
『よっと。潰すだけなんだから楽だよな。張り合いがない』
俺は寄ってくる甲殻種を切り払いながら前に進む。
『ちょっとノーマン、僕たち後衛が頑張った成果なんだからもっと感謝してよね』
魔法使いが苦情を飛ばしてくるが、聞こえないふりをする。
『こんな雑魚ばかり相手にしてちゃ腕が鈍りそうだよな。勇者、お前も……勇者?』
勇者は棒立ちになっており、背後から甲殻種が鋏を振り上げていた。
『勇者!』
僧侶が叫ぶ。
間一髪のところで、俺は鋏を切り落とした。もう一方の鋏を振り上げて俺に向かおうとする甲殻種の、頭を破壊する。
甲殻種は沈黙した。
『ふう。今ので最後だな。どうした勇者、戦場で意識を飛ばすなど』
「ごめん。ちょっとね」
『疲れてるのかなあ。休んだ方がいいよお。もう日暮れだし、早く寝て疲れなんて吹っ飛ばしちゃお』
間延びした調子で僧侶が提案すると、そうだねと勇者は応えた。
僧侶が魔物よけの結界を張り、魔法使いが火を起こし、勇者はインベントリから薪を取り出した。
パーティの調理担当は当番制で、本日は俺の担当だ。今日は立ち寄った村で分けてもらったワイルドラディッシュと先ほど倒した甲殻種を一緒に煮込んで鍋にする予定だ。故郷の村にいたときによく作っていた得意料理である。
俺はワイルドラディッシュと甲殻種をぶつ切りにして鍋に放り込んだ。
『おいしそうだねえ』
結界を張り終わった僧侶が肩からのぞき込んでくる。
『ノーマンは料理うまいもんねえ』
『お前もな』
『そりゃ、教会で散々修行したからねえ』
『そうか』
そんなやり取りをしながら、近くの小川でくんできた水を鍋に入れて火にかける。
魔法使いの魔法の火はあっという間に鍋を煮立たせた。
蓋を閉じてしばらく煮込み、しばらくして鍋ができあがる。
『できたぞ、勇者』
僧侶と魔法使いはもう集まっている。
俺は結界の端で座っていた勇者を呼び寄せた。
鍋を椀についで、それぞれに配る。
『おいしいねえ』
『おいしいね』
『勇者、お前はどう思う?』
「おいしいと思うよ」
『光栄だ。勇者の役に立つことが俺達の存在意義だからな』
「ええと、ありがとう」
それから勇者はずっと言葉少なだった。まあ、勇者が言葉少ななのは今に始まったことじゃない。
『ごちそうさまあ』
俺達が鍋を食べ終えても、勇者はまだ皿をつついていた。
「俺が片付けとくから、みんなは先に寝ててよ」
『はあい』
『わかった』
僧侶と魔法使いは立ち上がるとテントに入っていった。
『勇者も早く寝ろよ。冬の夜は長いとはいえ、冷え込むからな』
「ノーマン」
『何だ』
「ノーマンは、冬は日が落ちるのが早いと思う?」
『と、』
当然だ、と答えようとして、ザ、と思考にノイズが走った。ノイズは次第に長くなり、ザザザと意識の霧を払い、
俺。
おれ。
僕は。
「ブレイブさん」
「何」
「僕、片付け手伝いますよ。食事当番ですし。一人でやるのもしんどいでしょう」
「ノーマン」
ブレイブさんは驚いたような顔でこちらを見ている。
「どうしました?」
「ううん……何でも」
「鍋、冷えるとおいしくないでしょう。ちょっと温めますよ」
魔法使いの起こした火は対象物以外を熱することなく夜通し燃え続ける、と、知識にある。
僕はブレイブさんの皿に残った汁とラディッシュを空っぽの鍋に戻し、火にかけた。
ぱちぱちと火の爆ぜる音。
鍋はすぐに温まった。
「どうぞ」
鍋の中身をブレイブさんの皿にあけて、渡す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ブレイブさんは箸でラディッシュを持ち上げ、口に入れる。
「温めたので塩辛くなってるかもしれませんが、どうですか」
もぐもぐとブレイブさんの口が動き、ごくんと飲み込む音がする。
「おいしいよ」
「そうですか、よかった」
それからブレイブさんはあっという間に皿の中身を平らげてしまった。
「ごちそうさま」
「お粗末様でした。さて、片付けをしましょう」
それから二人で黙々と片付けをし、月が天頂に上る頃にはたき火が燃えているだけとなった。
火が爆ぜる。
空気がしんと冷えている。
伸びをした僕の目に、満天の星空が映る。
「わあ……」
僕は嘆息した。
「星がとても綺麗です」
ブレイブさんもつられて空を見上げる。
「ほんとだ、綺麗だね」
「こんな星空、久々に見たかもしれません」
「俺も久々に見たよ」
沈黙が落ちる。ややあって、ブレイブさんが、
「ねえ、ノーマン」
と言った。
「前にさ……すごく前に思えるかもしれないけど、俺と別れるのは寂しいって言ってくれたよね。覚えてる?」
「覚えてますよ」
「あのさ」
そう言ってブレイブさんは少し黙る。
「この戦いが終わったら、俺はこの地方を離れると思う。そういう決まりになってるんだ。そのときにさ……一緒に着いてきてって言ったら、どうする?」
「……」
「ごめん……君もこの地方に愛着があるよね。離れたくないのも当然だ。変なことを言った。忘れ……」
「いいんですか?」
「え?」
「僕なんかが一緒に行っても、いいんですか? 僕は……戦うのが怖いし、知識もなんだか危ういし、それに、僕……僕のままでいられるかどうか」
わからない、と言おうとして、ぐっと胸が押し込められる感覚があった。
「そのことは気にしなくていいよ。一緒に来てくれるか来てくれないか、それだけ答えてくれたらいいから」
「……行きたいです。僕はもっとブレイブさんと一緒に――」
そこで、ザ、とノイズ。
僕の思考が靄に包まれていく。
僕は。
ぼく。
俺。
『いつまで起きているんだ、勇者。今日はもう遅い、早く寝た方がいいだろう』
「ああ……ノーマン。わかったよ」
『では』
「おやすみ」
◆
「あれ?」
「ノーマン。目が覚めたかい?」
「僕は……」
きょろきょろと辺りを見回す。見渡す限り、岩の大地が広がっている。
おかしいな。さっきまで、夜の草原にいたような気がしたんだけど。
「冒険は終わった。ここは世界の外なんだ」
「世界の外……」
「君が眠っている間に魔王は倒れた。色々と事情があってね。パーティは既に解散している」
「そうですか……お役に立てず、申し訳ない」
「いやいや。まあ、パーツさえあれば魔王は倒せるからね。いつもそうだ。こんなこと、いつまで続けるのかと思うけど……」
「ブレイブさん?」
「いや、こっちの話だよ」
風が吹く。岩盤の隙間に生えた花が揺れている。
太陽が昇りかけているのか、地平線には朝焼けの光。
静かだ。
「所属世界の外にさえ出てしまえばNPCの縛りは消える。君は俺と一緒に旅をしてくれる……そう言ったね?」
「言いました」
「世界を渡り歩く覚悟はあるかい?」
「ブレイブさんと一緒なら、どこにでも」
「いい返事だ。もし俺が……魔王になった、って言っても、答えは同じかい?」
「僕は正直、ブレイブさんが勇者でも魔王でもどっちでもいいんですよ。だから、ブレイブさんがどんな存在であろうと、僕はブレイブさんに着いていきます」
「わかった」
旅を始めよう、とブレイブさんは言って、僕に手を差し出す。
僕はブレイブさんの手を取った。
握手。
視界が光に包まれる。
そうして、僕とブレイブさんは仲間になった。
(おわり)
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