短編小説

 泥の中に住んでいる。

 生まれたときから泥の中にいた。幼稚園も学校も泥の中から通った。
 私が泥から離れると身体から泥が消え、胸の中に収まる。胸の中に入った泥は私の心を重い安寧に導いていく。
 泥の導きに従っていれば安心だった。
 泥は世の中の泥のことをよく知っている。泥は世の中の泥を避けるよう私を導くので、泥に従ってさえいれば他の泥を被らず生きていけるのだ。
 しかし、万事がそううまくいくわけではない。私はできない奴だったので、泥の導き通りの行動ができないことがあった。うまく行動できず他の泥を被って自分の泥に帰ってくるのだ。そんなとき、泥は私の心を激しく締め付けた。
 はじめのうち私の心はしくしく痛んだが、締め付けられ続けるうちに慣れたのか、少し暗い気分になる程度に落ちてくれた。
 少々失敗しながらも、私は泥の導きのままに生きてきた。
 ときどき泥は泥でないものまで泥であるかのように導いているのではと疑うこともあったが、疑いを口に出すと泥は私を締め付けるので私は次第に言わなくなった。
 泥の導きのまま高校に通って大学に通って就職して、そのとき初めて泥から出て暮らすことになった。
 だが、できない奴である私が泥から出て物事をうまくこなせるはずもなかった。胸の中に残った泥は私をうるさく導いたが指示は外部と全く噛み合わず、私は疲弊していった。
 泥がないからいけないのかもしれない。
 そう思った私は泥を求めた。だが泥は遠くにあり、求め続けるうちに胸の中の泥さえも沈黙していった。
 無の到来である。そうなると残った私の心がうるさくなった。
 何もないとつらいとか苦しいとか逃げたいだとか言い立てる私の心を私一人では制御できるはずもない。
 いい加減楽になりたいと思って真の無を目指そうとしたのだが邪魔が入ってなしになる。それをきっかけに私は泥に帰れることになった。
 泥が戻ってきた。
 泥の中の暮らしはなつかしく、脳を侵し身体を緩ませた。私は泥にすっかりまた馴染んだ。
 そう思っていた。
 泥の責め苦がまた始まった。一度泥から離れた身体は締め付けに慣れる前の状態に戻ってしまっており、心がしくしく痛み始めた。
 胸の中からなくなっていた泥がまた胸を侵し始める感覚に、吐きそうになった。泥に胸を侵されることがこれほどまでに違和感のあるものだったとは。
 もしかすると、私は泥の中では生きていけないのかもしれないとも思う。このままここで暮らし続けたら、泥に溶けきって無くなってしまうのではないか。そんなことも頭をよぎるが、よぎるだけで、泥の中の暮らしには楽な面もあったからどろどろと留まり続ける。
 気力が失せる。安寧に沈む。私はまた泥に順応しようとしている。
 もしいつか天から光が射して泥溜まりを蒸発させたとしても、胸の中の泥までは届かない。残った泥にまみれて私は苦しむだろう。
 どうすればいいのかわからない。どうすればいいのかわからないまま、また今日も一歩泥に順応していく。
 私は、泥の中に住んでいる。


(おわり)
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