短編小説

 秋の風が吹いている。
 台風一過の青空の下で、この街の人たちが日常を営んでいる。僕はそれを横目に見ながらあてどなく歩く。
 最近までずっと心を擦りむいたような感覚が続いていて、君を思い出す度にずきりと沁みていた。
 置き手紙一つ残さずにいなくなった君。
 前触れは充分にあった。積み上げて積み上げてそうして張って回った伏線を回収するかのように、いなくなったのだ。
 人と人はいつか別れる。それが早いか遅いかの違いでしかない。今回のこともそうだ。頭でわかってはいる。
 だが、君がいないという事実に心が追いつかない日は比較的長く続いた。
 他の日常が何一つ変わらず君だけいなくなったことが、君の不在を余計に強調していた。
 今はもう、遠い記憶となりつつあるが。
 商店街を抜けると、コロッケの匂いがした。
 僕は君の好物を知らない。君は自分の話をあまりしなかったから。
 最後まで、僕はただのよそ者という位置から脱せなかったように思う。何も言わずにいなくなってしまったのも、そのせいかもしれない。わからないけれど。
 僕は君を知らない。新たに知ることもできない。少しだけ残った記憶も、時の中で風化しつつある。その方がいいのだと思う。痛む傷を抱えて暮らし続けるよりは、君のことを忘れて平穏に暮らす方がきっと幸せなのだ。
 街外れの空き地はエノコログサの盛りだった。
 君はエノコログサが好きだっただろうか。わからない。好きだったかもしれない。
 僕はエノコログサを数本摘んで、束にした。
 穂を撫でると、毛が指にくすぐったかった。
 僕はエノコログサが好きだ。触り心地がいいし、特徴的な外見は遠くからでもすぐ見つけることができる。
 草束を握り締めて、来た道を逆に戻る。
 商店街は相変わらずコロッケの匂いがした。
 一人暮らしの部屋のドアを開け、玄関で靴を脱ぐ。
 僕は洗い籠に伏せてあったペットボトルに水を入れ、そこにエノコログサの草束を突っ込んだ。
 洗面台にペットボトルを置く。ふと視線を下げると、使っていない棚の中に折りたたまれた紙のようなものが置かれていた。
 何だろう。
 開いてみる。
 僕は目を少し大きく開けた。
 君の字だ。
 書かれている日付は、君がいなくなる前日。
 手紙、だろうか。目を走らせる。
 世話になった、ということと、いなくなることを謝る内容。未知の情報は何もない。けれど、僕に向けた感情は読み取れた。
 どうして今まで気付かなかったんだろう。自分の馬鹿さ加減に呆れるばかりだ。
 僕は手紙を畳んで物置の奥にしまった。
 その晩は久しぶりに君の夢を見た。雨の日に君と二人で空を見上げる夢だ。まだ降りそうだね、なんて言い合って、洗濯物が乾かないなと呟いた。

 それからしばらく経ってエノコログサの草束を処分した頃、ふと思い立って君の手紙を探したけれど、どこかに紛れ込んでしまったのか、手紙は見つからなかった。


(おわり)
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