短編小説

 誰かを好きになるということが、わからない。
 これまで誰かを好きになったことはある。でも、本当に好きだったのかと言われるとわからなくなる。世の人々が誰かを好きになるような「好き」ではなく、ただ皆と同じになりたくて、同じじゃなくなるのが怖くて、そういう風に好きになるふりをしていただけなんじゃないかと思う。
 好意だけじゃない。世の人が「抱くべき」とされている感情に、賞賛されるべき感情に、私は自信が持てない。まるで自分一人だけが日陰にいるようだ。
 好意、反省、感謝、敬意。私が感じるそれらは全て薄っぺらで、形だけ仕方なく抱いているにすぎなくて、一皮むけばゼロになってしまうような建前なんじゃないかと思う。
 世の人、日向にいる人々はそれらの感情を自然に抱いているのだろうか。信じられない。心の内から湧いてくるものだよなんて言われても、その感覚がわからない。
 だから、
「君が好きなんだ」
 と言われたときも、
「本当に?」
 と返すよりほかはなかった。

 いつものように、部活後に皆で同期の家に行った。皆が飲んで騒いでいる中、私は小説を読んでいた。
 同期の家にあった小説のそのシリーズがあまりにも面白いので、他の人たちが一人また一人と帰って行く中一人小説を読み続けた結果、明け方になった。
 危ないから送っていく、と言い張る同期に流される形になって、朝焼けのキャンパスを歩いていた帰り道。
 会話が途切れて沈黙が落ち、それで先ほどのやりとりに戻る。
「君が好きなんだ」
「本当に?」
「本当に好きなんだ」
「へえ……」
「へえって」
「いや、そうなんだなと思って……」
 信じられない、なんてことはとても言えないから適当に誤魔化すしかなかった。
 眠気がひどい。
「反応薄いな。落ち込むよ」
「そう言われましても……」
「やっぱり俺のこと、嫌い?」
 嫌いとは言ってない。だが、これ以上しつこくされると嫌いになってしまいそうだ。しかし、これもそのまま言うわけにはいかない。
「嫌いじゃないよ」
 とだけ、言う。
「じゃあ……」
 相手の顔が明るくなる。と言っても、表情を見たわけではなく、声が明るかったから明るい顔をしてるんじゃないかと推測しただけだ。期待させてもいけないから、ここははっきり言っておかなければ。
「嫌いじゃないけど、好きでもない」
「そっか……」
 声のトーンが落ちる。相手はきっと気落ちした顔をしている。
 私は焦った。日頃から薄っぺらい私の、皆に合わせられない欠陥品の私などのために、まっとうな人間である同期を落ち込ませるわけにはいかない。何か元気づけるようなことを言わなければ。
「君はモテそうだし、すぐに新しい恋が見つかるよ」
「新しい恋って……」
「うん、見つかると思う」
 私を好きだというのが本当だとすれば、同期はとても変わり者だ。変わり者はユニークなので目立つ。目立てば好かれる率も上がる。少なくとも、目立たないよりはまし。道理だ。
「だから強く生きて」
「……君じゃなきゃだめなんだ」
「というと?」
「俺が好きになったのは君だから」
「はあ。なんで?」
「かわいいから」
「かわいくない」
「かわいいよ」
 私は自分のことをかわいいなどとは思っていない。だから、そんなことを言われても、自己認識と今言われていることの大きな乖離に胸がむかむかするだけだ。
「かわいくないよ。もっと他に理由はないの」
「誰かを好きになることに理由があると思う?」
「あると思う」
「ないんだ。一目惚れだから。一目見てかわいいと思った。それだけじゃ駄目?」
 駄目だ。理由になっていない。
 私は黙り込んだ。これ以上言っても、会話が前に進む気がしない。何かがずれているのだ。所詮日陰の人間と、同期のような日向にいる人間が相容れるはずがない。
 だいたい、なぜ日向の人間がこんな日陰人間に目を向けたのだろう。不思議でたまらない。それもあって好きな理由を訊いたのに、一目惚れだからなどと誤魔化されては何にもならない。
 眠気が増していく。目を閉じて、意識を落としてしまいたい。だがここは道の真ん中、そんなことをしては誰かの迷惑になってしまう。
「ごめん、やっぱり俺じゃだめかな」
「駄目ってことはないけど……」
「じゃあ、付き合ってくれる?」
「それは……」
 無理。と言いたかったが、すっぱり断る勇気がなかった。
「友達からなら……」
「やった、ありがとう!」
「ああうん……」
「じゃ、下の名前で呼んでいい?」
「嫌だ」
「なんで?」
 なんでとは。付き合いの短い人の下の名前をいきなり呼んでくる人間がいるだろうか。かなり譲歩して友達になることだけは許してあげたのに、それ以上を要求されるとは。しかし、考えていることをそのまま言ったら喧嘩になりかねない。
「ええと、恥ずかしいから」
 私は適当な理由を挙げた。
「恥ずかしがりやさんだなあ、君は」
「はは……」
 馴れ馴れしい。世の「誰かを好きになる」人間はみんなこうなのか?
 胸がまたむかむかする。眠気は眠気を通り越して頭痛へと変わっていた。徹夜なんてするものじゃない。
「あ、じゃあ私はここで」
「え?」
「家に着いたから」
 家というか、アパートだが、便宜上家と呼ぶ。
「君の家、ここなんだな」
「ああうん。じゃ」
 私は同期に背を向け、アパートの全体入り口のドアを開け、中に入った。
「名前呼びのこと、考えといてね」
 ドアが閉まる。
 頭が痛い。もう寝よう。幸い今日は土曜日だ。昼頃まで寝て、起きたら課題をやろう。
 自分の部屋のドアを開けながら、私はそう思った。
 そのときは。

 結局、課題をやることはできなかった。起きたら夕方だったからだ。
 寝過ぎた。暗い気持ちになった私はまたベッドに潜り込んで、寝た。

 次に起きると、日曜日の昼だった。時間を無駄にしたなと思いながらベッドサイドに目をやると、携帯端末がチカチカ光っていた。
 着信があったか、メッセージが届いているかのどちらかだ。
 確認するのが面倒だったが、親からかもしれないし、無視はできない。
 パスワードを打ち込んで、立ち上げる。メッセージが6件。きっと大学からのお知らせか何かだろう。そう思いながらメッセージアプリ宇を開くと、同じ名前が並んでいた。
「え」
 私に好きだと言ってきた、あの同期からだ。
 内容はどうでもいい挨拶から昨日あったことの報告、返事がないけど大丈夫かという心配、何で無視するの、俺のこと嫌いなの、嫌いならそう言ってくれ、までのセットだった。
 なんだこれは。
 心に重しを載せられたような気分になる。
 こういうの、どう反応すればいいのだろう。返事をしなかったのは単に寝ていたからで、無視したとか同期を嫌いになったとかそういう問題ではない。それを弁解すればいいのか?
『ごめん、寝てた。嫌いじゃないよ』
 そう書いて、送る。返事は秒で来た。
『あんまり寝過ぎるなよ。俺は君のこと好きだよ』
 どう返せばいいのかわからなかったので、私はそのメールを無視することにした。
 しかし、冷凍してあったご飯を解凍してお茶漬けにして食べている間も、課題のノートを引っ張り出して教科書と見比べている間も、同期のことが頭から離れない。
 無視なんかして、相手はどう思っただろう。嫌いになったと思われるかもしれない。怒っていると思われるかも。友達に対して怒ってはいけないのだ。そう悟られてもいけない。やっぱり返信を返さなければいけなかったのだ。でも、
 そんなことばかり考えて、課題が全く進まない。
 私は端末を手にとって、
『そうなんだ』
 とだけ打ち込んで送信した。
 端末を脇に置くが早いか、着信を告げる振動。
『冷たいね。俺のこと嫌いになった?』
 またそれか。
『嫌いじゃないよ』
『本当に? もしかして俺のこと好きになってくれた?』
『嫌いじゃないけど好きでもない』
 返信はなかった。よくないことを言ってしまったかもしれない。嫌われたかもしれないと思うと、また課題が手につかなかった。
 結局課題は諦めて、夕方まで家にあった本を読んで過ごした。
 夕食を食べて、本を読んで、夜になって、寝る準備をしてベッドに入る。
 が、眠れない。同期とのやりとりのことばかりが頭を巡り、失敗したかも、傷つけたかも、そんな後悔がぐるぐる回って眠れない。
 だが、嘘をつくわけにもいかなかったし、あれ以上の返信はできなかった。それが全てだ。そう思って寝ようとするが、目が冴えてしまって明け方まで寝付くことができなかった。

 それから夜眠れない日が続いて、朝起きられなくなって、同期はますます馴れ馴れしくなって、なんだかよくわからなくなった私は三日ほど部屋に引きこもった。
 心配した学科の友達が部屋を訪ねて来て、夕食を作ってくれている時に、同期が来た。
 玄関で応対した私が、今友達が来てるからと言ったのに同期は紹介してもらいたいからと返し強引に部屋に入ろうとした。
 遅れて玄関にやってきた友達はびっくりして、私にこれは誰かと訪ねた。
「部活の同期だよ」
 そうなんだ、と友達。
「俺はこの子の彼氏です」
 そうなの? と言って友達が私を見る。
「違うよ」
 と私。
「俺のこと、嫌いになっちゃった?」
 同期が私を見る。その目は捨てられかけている犬のように潤んでいる。
「えーと……」
 私が言いよどんでいると、友達はじ、と同期を見て、出て行ってください、と言った。
「え、でも俺はこの子の」
「彼氏じゃない……」
 と私。
「迷惑だから、出て行ってください。二度とここには近付かないで」
「俺はこの子の彼氏だよ?」
「彼女は違うって言ってる。嫌がってるの、わからない?」
「俺のこと嫌いなの?」
「嫌いでも好きでもあなたには関係ない。これ以上彼女を困らせないで。あんまりしつこいなら通報しますよ」
「通報なんて、そんな……俺はただ……」
「帰って。彼女にはちゃんと彼氏がいるからあなたは必要ない」
 彼氏がいるというのは友達の嘘だったが、同期はとても傷ついた顔をして、ごめんなさいと言うと出て行った。
「ありがとう」
「いえいえ。困ってる時はお互い様」
「ありがとう……」
 助かった、という気持ち。胸がじわりと温かい。感謝とは、こういった感情なのだろうか。私はもう一度、ありがとうと言った。
「ありがとうばっかり言わない。私が好きでやったんだから」
 もうありがとう禁止、と言うと、友達は私の目の前におじやを置いた。

 冬の終わりのことだった。


(おわり)
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