短編小説



 ちり、という音がする。
 僕は顔を上げる。
 アパートの一室。足の踏み場もないほど散らかった部屋に横長の白い机。その上に広げられた教科書と、ノートパソコン。の前で、僕はうたた寝をしている。
 本当は、寝ている場合などではない。数件のレポートの締め切りが明日で、画面の中にはレポートたちが複数ウィンドウで立ち上がっている。
 どこから手をつけたものかわからず、複数ウィンドウを前にしたところで寝不足だった頭は数秒で睡魔に捕らわれたのだった。
 今、少しだけ覚醒した僕は考える。どうすればいい。どこからやればいい。そもそも、どの教科書を使えばいいんだ。
 焦って机の上を睨み回すが、全く答えは出ない。
 そのまま思考が埋没しかけたところで、また、ちり、という音。
 僕はまた顔を上げる。部屋は妙な静寂に包まれていて、外の雨の音と、時折学生たちの騒ぐ声が小さく聞こえるだけだ。
 ふと、頭が痛いことに気付く。寝不足だからだろう。もっと寝ておけばよかった。でも、普段からサボりがちな僕は睡眠時間を削ってでも勉強しなければテスト範囲にすら追いつけないのだ。だから、この頭痛は避けることのできない必然だった。
 教科書を一つ、適当に取ってぱらぱらとめくる。レポートの題材が見つからないかと期待して。
 駄目だった。題材どころか教科書そのものが頭に入ってこない。
 文字列を追う端から文字たちがばらばらになって、空中に溶け出していくような錯覚。
 僕は焦って他の教科書を掴む。開く。
 同じだった。文字列がばらばらと溶けていく。四方八方に飛び散っていく。
 パソコンの画面に目を戻すと、そこも同じだった。がくがくと文字が震えているような錯覚。
 僕は怖くなって、視線を上げた。
 部屋が拡大しているような、これも錯覚だろう。
 疲れているのか。寝た方がいいのか。さっきまで眠かったのが嘘のように脳は覚醒していて、とても眠れる気がしない。それより頭が割れるように痛くて睡眠などとても。
 僕は立ち上がって、薬棚をかき分けた。昔医者でもらった痛み止めが残っているはずだ。
 心臓がうるさい。
 薬棚の中身を床にひっくり返して探して、山を作って、崩して、しばらくしてやっと痛み止めが見つかった。
 水道の水をコップについで、痛み止めを流し込む。糖衣の妙な甘さが舌に残る。
 気がはやる。早くレポートを片付けないと。
 僕は本棚の側に行って、プリントの束を引っ張り出した。読めば何か参考になるかもしれないと思ったからだ。適当に束を開いて読みにかかる。しかし、同じだった。文字列が頭に入らない。
 僕はああ、と言うと、床に大の字になった。
 見上げた天井がぐるぐる回る。
 ぐるぐると、目を瞑ると、意識が溶けた。



 プラタナスの並木の間を歩いている。僕の通学路だ。
 北国の冬は風が強く、雨が矢のように降り注ぐ。
 僕は傘を持ち直した。
 傘。買う度に盗まれるそれにあまりお金をかけたくなくて購買で適当に買ったのが、今の紫色のビニール傘だ。強風に弄ばれる紫色は、右に左にあおられて今にも折れてしまいそうだ。
 路上には人っ子一人いない。今日は大学図書館に閉館ぎりぎりまでいたから、夜も更けている。こんな日のこんな時間に外を出歩く人なんて、少数派だろう。
 ドラッグストアの灯りが煌々と点いている。雨でにじんでいるそれは、嵐の海を行く船の灯火のようだった。
 降り注ぐ雨の中、僕は家路を急ぐ。雨に阻まれ歩みは遅いがじりじりと、だが確実に、アパートには近づけているはず。
 ドラッグストアの前を通り過ぎ、コンビニも過ぎて、アパートに続く小道に入ってもまだ雨足は強い。
 だんだん寒くなってきたが、歩みを止めるわけにはいかない。傘がきしむ。僕は俯いたまま足を進めた。
 そろそろ見慣れたアパートの灯りが見えてきてもいい頃だが、周囲には見慣れぬ建物が立ち並んでいる。雨が降っているからそう感じるだけだろうか。そこにあるのは通学路でいつも見ている建物のはずなのに、視界がぼやけてわからない。
「——?」
 吐いた言葉は雨の音にかき消され、なくなった。
 傘が壊れる感触がした。



 僕は目覚める。視界が薄暗い。どうやらここは布団の中だ。
 布団をはぐと、散らかった部屋と開きっぱなしのパソコンが目に入った。
 パソコンの画面はのっぺりと暗い。その周囲にはこれまた開きっぱなしの教科書と、ばらばらになったプリント類。
 僕は布団から出ると、長机の前に座った。
 パソコンの電源ボタンを押す。フィィン、という音。スリープモードから戻ろうとしているのだろう。
 僕は教科書に目をやった。部屋が暗くて、何が書かれているのかわからない。
 部屋の電気を点けるのが面倒くさい。パソコンが復帰したら、その明かりで何が書かれているかぐらいはわかるだろう。
 僕は待った。
 待っている間に、レポートの内容を考える。そういえば、たくさんウィンドウを開いていたのだった。一番手前にあったレポートは何だっただろうか。たくさんありすぎたせいか、思い出せない。それでは、別のレポートは? それも思い出せない。そもそも、明日は何の授業のレポートの締め切りだっけ。
 鞄を膝の上に置いて、スケジュール帳を開く。当然、真っ暗で何も見えない。やはり、パソコンの復帰を待つしかない。
 何もしないで待つのは暇だし嫌だと思ったので、今日あったテストのことでも思い出そうとする。今日のテストは……
 思い出せない。
 おかしい。
 嫌なことを思い出そうとしているからいけないのだろうか。楽しかったことを思い出してみよう。
 楽しかったこと。今日楽しかったことは何だろう。僕はご飯を食べるのが好きだから、ご飯のことを考えるのがいいだろう。今日のご飯は……
 保存食を、食べた気がする。だが、それはおかしい。今日は大学に行っていたはずで、大学に行っている日はいつも食堂で三食食べるのだ。保存食など食べたはずがない。
 頭が痛い。薬が効いていないのか。それとも、さっき飲んだ分が切れてしまったのだろうか。
 そのとき、ぱ、とパソコンが点いた。
 よかった。これさえ点けばこっちのものだ。だが、画面を見て僕は固まった。



 ちり、という音がする。
 僕は目を開けた。
 視界は薄暗い。ここは布団の中だろう。
 頭を布団の外に出す。窓にはカーテンが引かれていて、隙間から薄明かりがもれていた。
 スズメの声がする。昨晩までの雨は上がったらしい。
 部屋には正方形の机と、閉じられたノートパソコンが一つ。床は綺麗で、部屋の端に並んだ棚に申し訳程度の荷物が一つ。
 夢を、見ていたらしい。何の夢だったかは思い出せない。ひょっとすると、昔の夢だっただろうか。
 仕事に行かなくては、と思って思い出す。
 僕は仕事を辞めたのだった。それから再就職活動もせず外にもあまり出なくなって、こうして毎日……
 そこまで考えたところで、眠くなってきた。
 僕は布団に潜り込む。意識はすぐに落ちた。



 レポートを終わらせなければいけない。僕は焦っていた。もう締め切りの朝だ。
 残りは大学でやればいいか。僕は荷物とパソコンを適当に鞄に詰めて、部屋を出た。
 昇りかけた太陽が、プラタナスの並木を照らしていた。


(おわり)
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