短編小説

 先輩、は私に優しくしてくれた。
「君は兄弟がいるのかい?」
「何の科目が好きなんだい?」
「君は今まで会ったどんな人とも違うタイプだよ」

 大学に入学して初めて入った部活、文芸部で、私は孤立していた。
 どうにも周囲になじめないのだ。みんなで話すときも、仲間たちはあるときは演説してみたりあるときは控えめになってみたりオンオフ激しく捉え所がない。
 私の方は、気分でしゃべり続けてみたり、押し黙ってみたり、仲間たちと同じ事をしてみせているはずだった。それなのに、なぜか周囲は呆れて私を馬鹿にするのだ。

 人間は皆平等だと教わった。それなのに、なぜみんなは私だけ馬鹿にして、まともに意見を受け入れてくれないのだろう。
 私が発言すると、みんなおかしそうに笑う。
 至極真面目に発言しているのに、何をそんなにおかしがっているのかわからなかった。
 次第に、みんなと一緒にいても心がずれているような、みんなが立っている中私だけが地面を這っているような、そんな気がするようになった。
 そんなときだ。先輩が部活に現れたのは。

 先輩を見たのは、そのときが初めてだった。
 あまり部活に来ていなかったのだろうか、先輩はみんなから歓迎され、部活の後の交流会では部のリーダー格とも活発に意見交換していた。
 この人はきっと明るくてコミュニケーション能力のある人なんだ、と思った。それなら私とは縁がないな、とも。
 ところがその日の帰り道、先輩が私に声をかけてきたのだ。
「君、面白いね。どこに住んでるの? 送っていくよ」
 優しい人なんだなとそのときは思った。
 先輩は私に家族や学科のことを質問したり、私のことを何か褒めたりした。
 私は先輩の言葉をありがたがって、質問に丁寧に返答したり、お礼を言ったりした。
 アパートの前まで送ってもらいメッセンジャーのアカウントを交換して、その日は別れた。

 次の部活のときから、先輩は私の横に座るようになり、部活終了後はアパートの前まで送ってくれるようになった。
 私はなぜだか少し怖く感じたが、こんな私に優しくしてくれる先輩のことを悪く思うなんてよくないと思い、毎回お礼を言った。
 先輩からは毎日メッセージが届いた。中身はなんてことのない、先輩のその日あったことが書かれていた。
 どうして私にそんなメッセージを送ってくるのかわからなかったが、こんな私に毎日メッセージを送ってくれるなんてとても優しい人だと思った。
 私は毎日それに返信した。



 私は孤独ではなくなった。部活にいるときはいつも先輩と一緒だ。先輩は私の話を真面目に聴いてくれるし、褒めてくれる。
 周囲の仲間たちとも、先輩を通してコミュニケーションできるようになった。私の言うことを先輩が言い換えると、みんなも馬鹿にせずに聴いてくれた。
 奇特な人だ。こんな周囲となじめないような私を、生まれながら嫌われる性質を持っているかのような私を嫌がらずに接してくれ、あまつさえ褒めてくれるなんて。
 普段から感じていた疎外感はいつの間にかどこかに行ってしまい、私は少し自由を手に入れた気になった。何からの自由かはいまいちわからないけれど、何か自由。そんな感じだった。

 ある日の帰り道、
「――さん、俺と付き合う気はない?」
 先輩がそう言った。
「付き合うというと?」
 私は問い返す。
「付き合うは付き合うだよ。俺の彼女になって欲しいってこと」
「ああ……」
 私は失望を感じた。先輩が私を彼女にしたいとは。今まで私に優しくしてくれていたのは恋愛感情などというつまらないものからだったのか?
「それは嫌ですね」
 嫌悪感とともに私は吐き捨てた。
「え?」
「私は先輩のこと恋愛的な意味で好きではないので、彼女になる気はありません」
「まあそう言わず。結婚を前提にして考えてくれよ。今は無理でもいずれ好きになってもらえるよう努力するからさ」
「はあ……」
 嫌悪と失望。だが、ここまで言う先輩に少しの興味も私は感じていた。
 私は先輩が好みではない。しかし、先輩が私のことをなぜ好きなのかには興味がある。
 何の取り柄もない私の、あるかどうかもわからない長所を先輩が見つけて好いてくれているのだとしたら、私はその内容に興味がある。
「私のこと、なんで好きなんですか?」
「なんでって……かわいいから」
 当然とでもいう風に答える先輩。
「かわいいですか?」
「かわいいよ」
「そんなことないですよ。つまり、先輩の目はおかしいということですね。かわいいの他に理由はないんですか」
「君は他の女性とはどこか違う。俺が見てきたどんな女性とも。変わってるんだよ。それが面白い」
「……」
 変わっている? 選ばれし存在ということだろうか。それなら素直に嬉しかった。私は普段から、自分が何の取り柄もないつまらない存在なのではないかと不安に思っていたからだ。
「ありがとうございます」
 先輩は私を認めてくれているのだ。そんな先輩のことを私も好きになる努力がしたい。
 そう思った。言わなかったけれど。

 だが、現実は厳しかった。
 先輩の顔を見ていると、どうしてもロマンチックな気にはなれないのだ。
 先輩は正直言ってあまり整った顔立ちではなく、「変」なオーラが出ている人だ。
 明るくて誰とでも活発に話すが、その主張はいつもなんだか偏っている。それでいて、自分の主張を相手に押しつけて満足するような、そんなところがあった。
 そういうところも、好きになれない。
 私なんかに優しくしてくれる人というのは皆とても優しい人で、聖人で、聖人だから欠点もないはずなのだ。
 私は必死で先輩のいいところ探しをしようとした。

 同じ頃、文芸部では私が入って初めての部誌が発行された。
 先輩のいいところ探しをしたい私は、早速先輩の書いた作品を読んだ。
 とても面白い作品、であればどんなによかっただろう。
 先輩の作品は、控えめに言って駄作だった。
 変わった作品を作ろうとしているのはわかるのだが、「変わった作品を目指した作品」にありがちなテンプレート的展開が繰り返され、逆にありふれた作品になってしまっている。それが何というか、「滑って」いるのだ。
 聖人である先輩の作品なのだから、つまらないはずはない。そう思いながら楽しもうとしても、「滑った」部分がどうしても痛々しく、読んでいるうちに恥ずかしくなってしまう。
 今回たまたまそういう作品だっただけかもしれないし。そう思って、私は次の部誌を待った。
 だが、次の部誌も同じだった。
 また、「滑って」いる。しかも今回の作品は先輩の偏った思想のせいか偏見まみれで、とてもまともに読めたものではなかった。
 しかし、部活ではそれが絶賛された。
 私はわからなくなった。みんなこれを本当にいいと思って褒めているのだろうか。もしそうなら、この人たちに作品の価値なんてわかるのだろうか。いや、そんなことを考えてはいけない。私という余り物を受け入れてくれている部活。優しくしてくれる先輩。どちらも素晴らしいものなのに、悪く思うなんて最低だ。
 しかし、先輩のことを知れば知るほど、私は先輩のことを聖人だと思えなくなっていった。
 それでも先輩は私に優しい。先輩はやっぱり聖人なのだ。私は疑ったことを反省したり、普段の振る舞いを見て再び疑ってみたり、それでもやはり先輩は私に優しいので絶対聖人に違いないと思い直してまた反省したり、そんなことを繰り返した。



 私の心には今や、どんよりとした雲がかかっていた。
 先輩を疑う自分、部活を疑う自分にうんざりしていた。
 先輩は変わらず私に接してくる。毎日届くメッセージに返すネタも、なくなってきていた。次第に私は、先輩からメッセージが来ても放置するようになった。
 そんな自分を、また責めた。
 どうしてメッセージを返さないんだ。ネタがないから返さないのか。先輩を疑っているから返さないのか。先輩は一人で私のメッセージを待っているかもしれないのに。
 どうしても返す気になれなかった。気が重かった。このまま返さずにいたら、いつか先輩は私に愛想を尽かしてしまうかもしれない。愛想を尽かされたら、私はまた孤立していたあの頃に戻るのか。一人地面に這いつくばっているような、あの状態に。
 私は毎日先輩の作品を読み返したが、やはりよさはわからない。
 先輩を評価するみんなも、先輩の自信に溢れた態度がどこからくるのかもわからない。
 私に優しくしてくれるというだけで、先輩は聖人だ。それは確かだ。聖人である先輩には私にわからないすごいところがあって、みんなはそれを見て先輩を評価しているのだろうか。私だけそれがわからなくて、そういうことがわからない奴だから、私は部活で浮いていたのだろうか。
「そろそろ俺の彼女になってくれる気になった?」
 ある日の帰り道、先輩が私に訊いた。
「いえ……まだ……」
「頑固だね。――さんはもう俺のこと好きになってると思うんだけどな」
「なんでですか?」
「そんな風に見える。いつも俺のこと見てるし」
「はあ……」
「結婚ポイントは溜まってるからね」
「結婚? なんですか?」
「俺の中の――さんと結婚したいポイントだよ」
「え」
 気持ち悪い。心底そう思ってしまった。
 これまで観察してきた先輩の悪いところばかりが思い浮かんで止まらない。こんなに悪いところのある人が聖人なわけがない。いや、でも先輩は私に優しく――
「ねえ」
 腕を掴まれ、引き寄せられそうになる。
 私は咄嗟に先輩を突き飛ばした。
「うわっ」
 先輩が後ろに二、三歩下がる。私も後ろに下がり、先輩と距離を取った。
「照れなくてもいいのに。俺の彼女になりたいんだろ。素直にそう言いなよ」
「そう言われましても……」
「素直じゃないならわからせてあげる必要があるね」
 先輩が近付いてくる。聖人? それとも。ここで拒めば先輩はきっと私と口をきいてくれなくなるだろう。それでも私は。でも、そうしたらまた前のような生活に戻るのか? それは……
 先輩はもう目の前に来ている。
 私は考えるのをやめ、俯き、ぎゅっと目を閉じた。
 そのとき、ひゅ、という音がした。
 場に似つかわしくない音。先輩が何かしたのかと思い、薄目を開けてみる。
 先輩は、いなかった。その代わり、目の前の地面に黒い穴のようなものが空いていた。
 穴は人一人通れるくらいの大きさで、中は真っ暗。あまりにも暗すぎて、穴というより夜の闇がそこだけ訪れたようだった。
 先輩の持っていた鞄が穴の縁に乗っている。見ていると、それはゆっくり傾いて、音もなく穴に吸い込まれていった。
 鞄がなくなると同時に、穴も徐々に小さくなり、そして消えた。
「……帰るか」
 私は残りの帰り道を一人で歩いて帰った。

 それからは、特に何事もなかった。先輩から旅に出るという内容のメッセージが届いたくらい。
 旅に出る。それならそうなのだろう。部活内でも、先輩は見聞を広げるため旅に出たという噂が流れていた。



 先輩が「旅に出て」から数日経ったある日。
 珍しく部活の仲間の一人にお茶に誘われ、二人でティータイムをすることになった。
 私はアールグレイを頼み、仲間はキャラメルラテを頼む。
 店員さんが厨房の奥に消えてすぐに、仲間は口を開いた。
「ね。最近あの先輩に付きまとわれてなかった? 大丈夫?」
「えーと、うん……」
 私なんかを心配してくれるのか。
 どうして。
 訊きたかった。でも、そんなことを訊いたらきっと困らせてしまう。だから私はぐっと言葉を飲み込んだ。
「困ってたんじゃない? ……何かあったら言ってくれたらいいから。周囲にも声かけるし」
「……ありがとう」
 短く礼を言う。
「私……」
「なあに」
「どうしても……みんなに訊いてみたかったことがあって」
「ん? 私が答えられることなら答えるよ」
 相手は快諾する。
「あのね……先輩の作品って……どんな風に面白いのかな? 私……」
「え、先輩の? 私、読んでないよ」
「え」
「読んだ方がいい? それなら読むけど」
「いや、大丈夫……」
「面白かったの? おすすめ?」
「いや、その……正直……」
「じゃ、読まなくていいじゃん。全部読まなきゃってわけでもないし」
 その話はそこで終わった。
 それから、その子の好きな音楽の話とか、面白かった作品の話をして、私たちは別れた。

 その日から、私は部活でその子と少しだけ話すようになった。
 過度に構うわけでもない。やたら話しかけてくるでもない。でも、私が話すとき、その子は真面目な顔をして聴いてくれる。夢中で話している最中、ふとそれに気付くと、いつも心のどこかがふわりと安らぐのだ。
 相変わらず、私は部活で浮いている。
 だが、「聖人」がいなくなっても日常は続くとわかった。そして、聖人でなくても気にかけてくれる人がいるとわかった。それだけでも、この泥のような毎日が少しは楽になる気がするのだ。
 雪国の冬は荒天だ。見上げた空は灰色だったが、少し、ほんの少しだけ陽が差しかけていた。


  (おわり)
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