短編小説
毎日、メッセージが届いていた。私はそれに返信していた。
相手からの返信は数秒で来る。何の気も遣っていない、思考すらしていないんじゃないかと思える早さ。
メッセージの内容は毎回どうでもいいことで、私はそれをひたすら宥めたり持ち上げたりして返していた。
今思えば、なぜそんなことをしてやっていたのかわからない。あの頃の私は、それしかコミュニケーションの方法を知らなかった。相手を肯定するコミュニケーションしか。それでは「悪人」に対抗できないということを、私は知らなかった。
私はそいつを何とも思っていなかった。私の中で、そいつはどうでもいい存在だった。
持ち上げたり宥めたりして相手が喜ぶと、自分の存在が認められたようで嬉しかった。それだけのために、私はメッセージに返信していた。
嬉しかった。そのはずだった。
いつしか、相手を持ち上げるたび、私の心に目に見えない重りのようなものが落ちていた。
それはどんどん積み重なり、どうでもよかったはずの存在は日に日に負担になっていった。
メールが来る夜になると、暗い気分になる。
数秒で返ってくる返信に、すぐ返さなければという気持ちにさせられる。
ちょうどその時期、与えられた仕事もうまくいかなくなり、私はだんだん苛々するようになった。
なぜ、この人は毎日メッセージを送ってくるのだろう。
なぜ、この人は「私に」メッセージを送ってくるのだろう。
なぜ、この人は何も考えず暢気にしていられるのだろう。
もうやめたいと思いながらも、メッセージに返信することはやめられなかった。
やめると自分の存在価値がなくなってしまうような気がした。
仕事も人間関係もうまくいかない私のできることは、相手に喜んでもらうことだけだと思っていたから。
でも、日々の返信はどうしても滞った。疲れから、空腹から。
返信の内容も、だんだん適当になっていった。
そしてあるとき、決定的な一言があって、相手から来るメッセージが「毎日」でなくなった。数日、数週間経っても新たなメッセージが来なかったのだ。
私が一番に感じたのは、安堵だった。
もう相手に気を遣わなくていい。もう自分を下に置かなくていい。願わくば、もう二度とメッセージが来なければいい。
そう思う自分をまた、不思議にも思った。
私は自分の存在価値をあそこに置いていたのではなかったのか。メッセージがなくなれば、私の存在価値がなくなるのでは。
……まあ、どうでもいいか。
私は疲れ切っていた。仕事はますますうまくいかなくなっていたし、日常生活における人間関係もいっそう無に等しくなっていたからだ。
存在価値は無だ。元から無だった。
ほどなくして、私は仕事を辞めた。
距離を置いたつもりでいた。二度と関わらないで済むと思っていた。
仕事を辞め、実家に帰って数ヶ月経ったころ、またメッセージが来た。下手に返してメッセージの応酬になるのは嫌なので、私はそれを無視した。
メッセージは定期的に届いたが、私は無視をし続けた。
そんなある日のこと。そいつのことを忘れかけていた頃、またメッセージが来た。
『お久しぶりです。今、Gで働いています』
Gは私が住んでいる街だということを頭が理解した瞬間、背筋がぞっとした。
なぜそんなメッセージを送ってきた? そもそも、どうしてこの街に?
私は返信を返さなかった。
その日の晩、
『返信だけでもほしいです』
というメッセージが送られてきた。以前メッセージを無視したとき、数日間にわたって一方的にメッセージが来たことがあった。またそんな風になるのは嫌なので、とりあえず返信して終わらせたい。
私はメッセージに迷惑している旨を書いて送信した。
数秒後、端末がメッセージの着信を知らせる。謝罪と近況が書いてあった。
これ以上やりとりをしたくないので、そうですかとだけ書いて送った。
すると、私の近況を訪ねる言葉が返ってきた。
メッセージが迷惑だと伝えたのに、なぜまだ会話を続けようとする? 泥のような感情が胸の底で煮え出すのがわかった。
私はもうメッセージを送るのはやめてほしい、怖い、と伝えた。しかし、返ってきたのは駄々をこねるような懇願の言葉だった。
胸の底の泥はぼこぼこと泡立っている。それは恐れと、怒りに似た何かだ。
本当にやめてください、と返し、私は端末を閉じた。
次の日の朝、端末に来ていたメッセージは私に甘える言葉だった。
頭がくらくらしてきたので、返信せずにベッドに戻った。泥のような感情が制御できない。泥は私の思考を浸蝕し、落ち着いた考えを飲み込み、フラッシュを焚くような思考しかできぬようにする。私はぎゅっと目を瞑った。
次の日も、また次の日もメッセージが来る。私は端末を伏せて書類の下の方に放り込んだ。
仕事を辞めて以来、埋没していったはずの考えが浮上する。自分の「価値」についての考え。
私はまた、価値付けされようとしている。そいつは私の存在を今の場所から切り取って、そいつをケアするだけの道具にしようとしている。
そんなことを考えている間にも、メッセージはきっとあの端末の中に溜まっていっている。限りなく黒に近いチャコールグレーのメッセージ。消してしまいたいけれど、消すには端末を見なければいけない。数日放置していたから、他のメッセージも溜まっているだろう。チャコールグレーと他の色が混ざって何か汚いどす黒い茶色になってしまう。私のことを思う人たちの言葉も黒に染めてしまう。
端末を見るのが怖い。端末のことはもう忘れてしまいたい。全てなかったことにして、書類の底で忘れられて。厄介な存在はゴミ箱に捨て、蓋を閉めて見なかったことにする。社会における私の存在のように。
突然、部屋のドアが開く。私は顔を上げた。
ドアの向こうには、見慣れない色、空色の大地。そこに、金色の草原が広がっている。
風が吹き込んで、私の頬を撫でる。
私は顔を上げた。
爽やかな風は私の頭を久々にクリアにしていた。といっても、落ち着いた思考を呼ぶようなクリアさではない。どこか吹っ切れた時のような、澄み渡って何もない、すっきりとした気分だけがそこにある、そんなクリアさだ。
起き上がる。
ベッドから出る。
歩いて行って、ドアの外に一歩踏み出す。
端末が震える。また、メッセージが来たのだ。
もう関係のないことだ。ふと、そう思う。
チャコールグレーともどす黒い茶色ともお別れだ。私はこれから空色の大地に向かうのだから。
部屋を出て、ドアを閉める。
主のいなくなった部屋の中で、端末はいつまでも震えていた。
(おわり)
相手からの返信は数秒で来る。何の気も遣っていない、思考すらしていないんじゃないかと思える早さ。
メッセージの内容は毎回どうでもいいことで、私はそれをひたすら宥めたり持ち上げたりして返していた。
今思えば、なぜそんなことをしてやっていたのかわからない。あの頃の私は、それしかコミュニケーションの方法を知らなかった。相手を肯定するコミュニケーションしか。それでは「悪人」に対抗できないということを、私は知らなかった。
私はそいつを何とも思っていなかった。私の中で、そいつはどうでもいい存在だった。
持ち上げたり宥めたりして相手が喜ぶと、自分の存在が認められたようで嬉しかった。それだけのために、私はメッセージに返信していた。
嬉しかった。そのはずだった。
いつしか、相手を持ち上げるたび、私の心に目に見えない重りのようなものが落ちていた。
それはどんどん積み重なり、どうでもよかったはずの存在は日に日に負担になっていった。
メールが来る夜になると、暗い気分になる。
数秒で返ってくる返信に、すぐ返さなければという気持ちにさせられる。
ちょうどその時期、与えられた仕事もうまくいかなくなり、私はだんだん苛々するようになった。
なぜ、この人は毎日メッセージを送ってくるのだろう。
なぜ、この人は「私に」メッセージを送ってくるのだろう。
なぜ、この人は何も考えず暢気にしていられるのだろう。
もうやめたいと思いながらも、メッセージに返信することはやめられなかった。
やめると自分の存在価値がなくなってしまうような気がした。
仕事も人間関係もうまくいかない私のできることは、相手に喜んでもらうことだけだと思っていたから。
でも、日々の返信はどうしても滞った。疲れから、空腹から。
返信の内容も、だんだん適当になっていった。
そしてあるとき、決定的な一言があって、相手から来るメッセージが「毎日」でなくなった。数日、数週間経っても新たなメッセージが来なかったのだ。
私が一番に感じたのは、安堵だった。
もう相手に気を遣わなくていい。もう自分を下に置かなくていい。願わくば、もう二度とメッセージが来なければいい。
そう思う自分をまた、不思議にも思った。
私は自分の存在価値をあそこに置いていたのではなかったのか。メッセージがなくなれば、私の存在価値がなくなるのでは。
……まあ、どうでもいいか。
私は疲れ切っていた。仕事はますますうまくいかなくなっていたし、日常生活における人間関係もいっそう無に等しくなっていたからだ。
存在価値は無だ。元から無だった。
ほどなくして、私は仕事を辞めた。
距離を置いたつもりでいた。二度と関わらないで済むと思っていた。
仕事を辞め、実家に帰って数ヶ月経ったころ、またメッセージが来た。下手に返してメッセージの応酬になるのは嫌なので、私はそれを無視した。
メッセージは定期的に届いたが、私は無視をし続けた。
そんなある日のこと。そいつのことを忘れかけていた頃、またメッセージが来た。
『お久しぶりです。今、Gで働いています』
Gは私が住んでいる街だということを頭が理解した瞬間、背筋がぞっとした。
なぜそんなメッセージを送ってきた? そもそも、どうしてこの街に?
私は返信を返さなかった。
その日の晩、
『返信だけでもほしいです』
というメッセージが送られてきた。以前メッセージを無視したとき、数日間にわたって一方的にメッセージが来たことがあった。またそんな風になるのは嫌なので、とりあえず返信して終わらせたい。
私はメッセージに迷惑している旨を書いて送信した。
数秒後、端末がメッセージの着信を知らせる。謝罪と近況が書いてあった。
これ以上やりとりをしたくないので、そうですかとだけ書いて送った。
すると、私の近況を訪ねる言葉が返ってきた。
メッセージが迷惑だと伝えたのに、なぜまだ会話を続けようとする? 泥のような感情が胸の底で煮え出すのがわかった。
私はもうメッセージを送るのはやめてほしい、怖い、と伝えた。しかし、返ってきたのは駄々をこねるような懇願の言葉だった。
胸の底の泥はぼこぼこと泡立っている。それは恐れと、怒りに似た何かだ。
本当にやめてください、と返し、私は端末を閉じた。
次の日の朝、端末に来ていたメッセージは私に甘える言葉だった。
頭がくらくらしてきたので、返信せずにベッドに戻った。泥のような感情が制御できない。泥は私の思考を浸蝕し、落ち着いた考えを飲み込み、フラッシュを焚くような思考しかできぬようにする。私はぎゅっと目を瞑った。
次の日も、また次の日もメッセージが来る。私は端末を伏せて書類の下の方に放り込んだ。
仕事を辞めて以来、埋没していったはずの考えが浮上する。自分の「価値」についての考え。
私はまた、価値付けされようとしている。そいつは私の存在を今の場所から切り取って、そいつをケアするだけの道具にしようとしている。
そんなことを考えている間にも、メッセージはきっとあの端末の中に溜まっていっている。限りなく黒に近いチャコールグレーのメッセージ。消してしまいたいけれど、消すには端末を見なければいけない。数日放置していたから、他のメッセージも溜まっているだろう。チャコールグレーと他の色が混ざって何か汚いどす黒い茶色になってしまう。私のことを思う人たちの言葉も黒に染めてしまう。
端末を見るのが怖い。端末のことはもう忘れてしまいたい。全てなかったことにして、書類の底で忘れられて。厄介な存在はゴミ箱に捨て、蓋を閉めて見なかったことにする。社会における私の存在のように。
突然、部屋のドアが開く。私は顔を上げた。
ドアの向こうには、見慣れない色、空色の大地。そこに、金色の草原が広がっている。
風が吹き込んで、私の頬を撫でる。
私は顔を上げた。
爽やかな風は私の頭を久々にクリアにしていた。といっても、落ち着いた思考を呼ぶようなクリアさではない。どこか吹っ切れた時のような、澄み渡って何もない、すっきりとした気分だけがそこにある、そんなクリアさだ。
起き上がる。
ベッドから出る。
歩いて行って、ドアの外に一歩踏み出す。
端末が震える。また、メッセージが来たのだ。
もう関係のないことだ。ふと、そう思う。
チャコールグレーともどす黒い茶色ともお別れだ。私はこれから空色の大地に向かうのだから。
部屋を出て、ドアを閉める。
主のいなくなった部屋の中で、端末はいつまでも震えていた。
(おわり)
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