短編小説

 放置した課題が積み上がり続けている。俺はその課題のことをほとんど忘れかけていた。
 学期末までにレポート提出ボックスに入れてくれればいい、と言われた課題。
 他の講義だと定期的に締め切りを設け、毎講義ごとに課題を提出させるものも多い。しかしその講義は、テーマごとの課題を3つ、取り組む時期は自由、締め切りの学期末までにポストに入れておいてくれればいい、という幾分自由なものであった。
 ほとんどの受講生は締め切りぎりぎりまで待つのではなくテーマが一つ終わる毎に課題を仕上げて出していた。
 俺はと言えば、後期も終わりかけの今、これまでの授業のまとめが始まって初めてその課題たちを意識に入れ出したところだった。
 やらなければならないのはわかっていた。しかし、なかなか手が出ないままここまで来てしまったというのが本当のところだ。
 積み上げた講義のプリントとルーズリーフを前に、ため息をつく。アパートの机の端に積み上げてあるそれらは、下に行くほど古く、上に向かうほど新しい。
 何となく上から三分の二ほどを持ち上げてみると、埃が舞った。
 起きて講義を聞いているときはやる気に満ち溢れてメモをたくさんとり、帰ったら絶対にレポートを書くぞと思っている。何なら他の人より早くレポートに手を付けて素晴らしいものに仕上げるぞ、とまで思っている。
 しかし、講義を終えてアパートに帰ってきて、夕食を済ませた頃には疲れ切っており、レポートも復習も明日でいいやと積んでしまう。
 先延ばしにし続けて、学期末だ。
 俺は再びため息をついた。
 今日は18時半に部活が終わった。その後、皆で食堂に行く流れだった。俺はそれには参加せず、一人で帰ってきた。
 課題をやろうと思ったのだ。
 だがこうしてプリントやルーズリーフを見てみると、わからないところがたくさんあってやる気が起きない。
 全く復習をしなかったせいでこうなっているのだろう。授業中についうとうとしてノートを取れていないところも散見される。
 とてもじゃないが、こんな状態ではレポートなど書けやしない。
「よし……」
 俺は鞄の物を全て取り出して床に置き、代わりに講義のプリントとルーズリーフ、あと筆箱を突っ込んだ。
 図書館に行き、参考資料を読みながらこのプリント類を参照すれば、授業がどんな内容だったか予測できるはずだ。
 そうすれば、課題に書く内容も自然に思い浮かぶに違いない。
 俺はコートを着て鞄を背負い、外に出た。



 通学路は人通りが少ない。今日もまた寒いし、皆、屋内で夕食を食べているのだろう。
 そういえば、夕食はどうしよう。
 図書館のカフェテリアで食べられるよう、何か買っていくか。
 俺はコンビニに寄り、ペットボトルのお茶と固形の栄養調整食品を4箱買った。チョコレート味とフルーツ味を半々。若干買いすぎかとも思ったが、味を選べなかったのと、家で食べる分も含めてそうした。
 お腹が空いている。
 途中で齧りたくなる心を制しながら、図書館まで向かった。

 カフェテリアには、何か食べながら自習している人がたくさんいた。
 食べている時間すら惜しいということだろうか。食に拘らない人たちなのだろうか。まあ、栄養調整食品など買っている俺に言えることではないし、俺も今から同じことをするのだ。
 空いている席を探しながら、カフェテリアの隅、明らかに片付け作業に入っている学生のテーブルにゆっくりと近付いた。もちろん、席が空くことを期待して、だ。
 その学生のテーブルには、ペットボトルのほかには飲食物の類が置かれていなかった。
 彼は今から夕食を食べに帰るか、どこかに食べに行くのだろうか。時間からして、それが自然なように思う。
 そんなことを考えていたら、学生と目が合った。
 俺は反射的に頭を下げた。
 学生は無言でそそくさとペットボトルを鞄にしまい、両手に鞄と開きっ放しの本を持って立ち上がった。
 急かしてしまっただろうか。
 俺は少し気まずい思いになった。去って行く学生を尻目にぼんやりとテーブルを見つめる。
 駄目だ。ぼうっとしている暇はない。すぐに座らねば、他の人に席を取られてしまう。
 俺はテーブルの上に夕食類の入ったビニール袋を置き、鞄を下ろして椅子に座った。
 ふう、と息をつく。
 とりあえず、夕食を食べて心を落ち着けよう。
 栄養調整食品のチョコ味を取り出し、包装を開けて齧りつく。
 クッキーともビスケットとも違う、どちらかというとクッキー寄りの噛み心地。咀嚼すると、粉っぽいチョコレート味。それがうまい。こんなものは食べ物ではないなどと言う人もいるが、「昔予想された未来の食事」っぽい感じがして俺は好きだ。栄養面についてはともかく。
 最後まで食べてしまってから、プリント類を出すのを忘れていたことに気付く。
 食べることに集中してしまった。それなら、ここでちょっとゆっくりお茶を飲んだって無駄にする時間的にはそう変わらないだろう。
 俺はペットボトルの蓋を開けてゆっくりお茶を飲んだ。
 試験直前で張り詰めている空気の中でのんびりお茶を飲むのは、なんだかよくわからぬ気持ちよさであった。
 ふう、と今度は落ち着いたため息をつく。
 まだ時間はたくさんある。少しくらい休んでも罰は当たらないだろう。
 そう思って俺はテーブルに突っ伏した。



 目を覚ますと、周囲の顔ぶれが少し変わっていた。
 時間を確認すると、21時だった。図書館が閉まるのは22時だ。
 こんなに寝るつもりではなかった。
 俺は慌ててプリント類を鞄から取り出し、急いで目を通す。
 わからないところが多い。
 そうだ、それをわかるようにするためにここに来たのだった。
 俺は貴重品類を持って、本を探しに向かった。
 目的の棚の前まで来て、関係がありそうな本を数冊引き出し、貸出手続きをしてテーブルに戻る。
 なんとなく一冊目の1ページ目を開く。「はじめに」で理念と理想を語る執筆者代表。その思いに胸を打たれて、俺はそのまま一冊目を読み続けた。

 ふと我に帰ったとき、周囲の人々は皆、帰り支度をしていた。
 閉館5分前の放送が耳に入る。どうやら本に集中しすぎてしまったらしい。プリント類は最初に目を通したときから1ミリも動いていない。
 せっかく図書館に来たというのに、本を読んだだけで何も進んでいない。焦りの気持ちが湧いてくる。
 しかし、閉館時間は動かせない。今日のところは帰らなければ。
 俺は借りた本数冊とプリント類をのろのろと鞄に入れ、帰路についた。

 部屋に戻るとなぜかとても疲れていた。
 家事をする気力もない。
 今日はあまり進まなかったが、明日は早起きして頑張ろう。
 俺はスマホのアラームを5時にセットして、ベッドに潜り込んだ。



 次の日起きると、11時だった。
 午前の講義には間に合わない。だが今はそれより課題を進めたい。俺は荷物をまとめて図書館に向かった。
 そこからはだいたい前の日と同じだった。22時になって図書館が閉まってからあまりにもお腹が空いてラーメン屋に行き、同期に会ったほかは。

「お前、統計のテスト来なかったな」
 チャーハンを冷ましながら、同期。
「別の講義の課題してたから……」
 言い訳がましく俺は言う。
「ははん、統計は生贄になったのか」
 そう言って同期はレンゲを口に運び、あち、と言って水を飲んだ。
「でも二年生で統計取るのきつくないか? 必修多くなるだろ」
「……それは考えてなかった」
「ふうん」
 同期がチャーハンをすくう。
 そのまま双方無言で食べ続けた。
 ややあって、
「明日の必修のテストは来るのか?」
 と同期。
「来ないと留年だぞ」
「そうだな……」
 俺は器に残っていたラーメンを箸でつまんだ。
「やってた課題はもう終わったのか?」
 レンゲを持ったまま、同期。
「まだあと一つ残ってる」
「締め切りは?」
「学期末」
「じゃあそれは後回しにして、明日のテストは来いよな」
「うん……?」
「全員で進級したいだろ。俺たちの中から落第者が出るとか嫌だろ」
「ああ……」
 俺はラーメンを器に戻しかけて、やめる。
「やっぱ全員で進級しないと寂しいからな」
「うん……」
 ラーメンを口に運び、飲み込んでから顔を上げた。
「ありがとう」
「何のお礼だよ」
 同期が苦笑する。
「とにかく、明日は来いよ。それじゃ」
 そう言って席を立つと、同期は会計をすまして帰って行った。
 俺はまだ器に残っていたラーメンをすすった。ラーメンはもうのびていたが、そんな状態でも空腹の俺には美味く感じられた。



 次の日、頑張って7時に起きて支度をし、例の講義のプリント類と本数冊、必修の講義やその他の講義のテスト勉強に使う資料類を鞄に入れて家を出た。
 試験勉強等は一切していないが、大丈夫だろうか。大丈夫じゃない。講義室に着いたら資料を読もう。
 途中のコンビニでチョコデニッシュを買い、俺は大学に向かった。

 講義室に着くと、同期たちはほぼ揃っており、皆それぞれの形で勉強をしていた。一人で黙々とノートに向かっている者、数人で問題を出し合っている者。
 俺は一番後ろの席に座る。
 昨日ラーメン屋で会った同期は、学科の中心グループで談笑していた。
 挨拶しようと思ったが、こちらに気付く気配はなかったのでそれはやめにして、俺は資料を開いた。

 テストはまあまあの出来だった。わからなかったところがあった、という事実が主に勉強不足・努力が足りないという文脈で俺の心を責めてくるが、ろくに勉強していなかったのだから仕方がないと言い聞かせて耐えた。
 そこからはテストラッシュで、三つめの課題に手をつける暇はなかった。
 どうしようもないと思いかけたが、締め切り前夜に徹夜して、なんとか課題を終わらせることができた。
 締め切り日の朝、ふらふらの身体でレポートボックスに三つの課題を放り込み、部屋に帰って寝た。
 そこからはほとんど一歩も外に出ずに寝て過ごした。



 成績が開示された、というメールで目を覚ます。
 俺はのそりとベッドから起き上がった。
 テーブルに座ってPCを立ち上げる。起動を待つ時間に、しまってあった栄養調整食品(フルーツ味)を出してきて齧った。
 結果的に、必修はなんとか通ったものの、教養科目は半分ほど落としていた。それはそうだ。テストに出なければ落ちるに決まっている。
「はあ……」
 俺は大きなため息をついた。
 わかっていたが、ショックだ。
 いや、わかっていなかった。必死すぎて、頭の中から追い出されていた……考えないようにしていたのかもしれない。
 一つの講義の課題に集中しすぎて教養を半分落とすなど、笑えなさすぎる。
 ほぼ家か図書館にいて、少し足を延ばせばテストを、受けるだけでも受けられたのに俺は何をしていたのか。
 絶望的な気持ちでベッドに入ろうとしたとき、お腹が鳴った。
 栄養調整食品だけでは足りなかったようだ。そもそも、ここ数日、ろくに物を食べていない。
 考えているうちにますますお腹が空いてくる。これは外に出なければいけない。
 俺は鞄から財布を取り出して、コンビニに向かった。
 コンビニの前まで来て、中に入ろうとしたとき、あの同期の顔が見えた。知らない学生と一緒にレジを待ちながら談笑している。
 俺はとっさに回れ右した。そして、どこへともなく歩き出す。
 頭が混乱していた。後悔、諦め、自責、焦燥感……色々なものが混然一体となって俺の頭の中を回っていた。それらは次第に膨れ上がり、「どうしてテストを受けなかったのか?」という疑問に収束して鎮座し出した。
『どうしてテストを受けなかったのか?』
 それは課題があったからで……
『どうして課題が残っていたのか?』
 それは先延ばしにしていたからで……
『どうして先延ばしにしていたのか?』
 なんとなくやる気になれなかったからで……
『なんとなくやる気になれなかったのは……』
 努力不足……
『努力不足だ』
 頑張りが足りない……
『もっと頑張らなければいけなかった』
 もっと頑張らなければいけなかった……
『もっと頑張らなければいけなかった』
「君!」
 俺ははっと顔を上げた。黒いコート、のようなものを着てシルクハットを被った紳士が俺の側に佇んでいた。
「顔色が悪いね。どうしたのかな?」
 紳士はそう言って俺の顔を覗き込んだ。
「ちょっと努力不足で……」
「努力不足?」
「俺がテストを受けに行かなかったから悪いんです……」
「何を言っているんだ?」
「あっすみません」
 俺は咄嗟に謝った。俺の個人的な事情など、この人物が知っているはずもない。せっかく声をかけてくれたのに、失礼なことをしてしまった。
「すみませ……」
「君は私の城で勉強していたのだろう? 課題が終わるまで外に出ないと君が言うので私が鍵をかけたじゃないか」
「そう……」
「その後私は用事ができて君に構ってやれなかったが、もしその間外に出たかったのならすまないと一言謝るつもりで君を探していたんだよ」
「ええと……」
『この人は何を言っているのか』
 わからない?
「課題が終われば扉の鍵は自動的に開く設定になってたので出られましたし、よかったですよ。それより俺の方こそ挨拶もせずにすみません」
『お前は何を言っているのか』
 わからないのか?
「ははは。課題は提出できたのかな?」
「ええ、お陰様で」
「それは何より。どうだね、進級祝いにこれから食事でも」
「ありがとうございます……ちょうどお腹が空いてたんです」
 その人……伯爵が手を広げる。コート、ではなくマントだった。そうだ。知っている。
『待て、逃げることは許されない』
 知った事か。理性など。
「着いてきたまえ」
 マントの裏地は夜空だった。


(おわり)
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