短編小説
あの日僕にわからないと言った君も、どこに行ったのかわからない。
学部が違う。取っている講義も違う。会うのはいつも晴れた日の昼下がり、構内のカフェテリアだった。
約束していたわけではない。晴れた日の午後、カフェテリアに来るというライフスタイルが同じだっただけだ。
お互い存在を認識し始めたのは早かったと思う。
またいるな、なんて考えていた初夏のある日、君は同じテーブルに座ってきた。
「やあ」
そう声をかけられて、やあ、と返す。君は言葉を続ける。
「カフェオレはおいしいかい?」
「うん。君はいつもブラックだけど、苦くないの?」
僕の言葉を聞いた君はおかしそうに笑った。
「慣れてるのさ」
そこからだったと思う、会う度に会話するようになったのは。
好きな飲み物から始まって、好きな食べ物、本、好きな場所のことなど色々な話をした。
「今ハマってる場所はやっぱりあそこだな、教養棟の西口にある水槽」
君は目を輝かせながら語る。
「ああ、石でできたやつだよね?」
「そう。生物科がカエル育ててるって噂がある」
「本当に?」
「わからない。それを確かめるために時々覗いてるんだが、見たことはないね」
「立ち止まって覗くの?」
「ああ」
「でもあそこで立ち止まるの怖くない? 道の脇にあるから、他の人の邪魔になるんじゃないかって思っちゃう」
「ぎりぎりまで寄ればいいんだよ。人に配慮して自分の興味を抑圧していたら、いつか無になるぞ」
「そうかな……」
今でも結構無だと思うけど、という言葉を飲み込んだ。これまで自分を抑圧した結果無になりつつある、と仮定するならそうなのかもしれない。
「そうだね……」
「いいかい。君は自分を大事にするんだよ。君にはそれだけの価値がある」
「え……」
君は真っすぐこっちを見ている。
――退屈で平凡な奴、ちょっと付き合うだけならいいが深く付き合う価値はない。
そんなことを、これまでの人生では言われてきた。
「僕に、価値があると?」
「当然じゃないか。君と話してると退屈しない」
「退屈しない……」
――お前の話はつまらない。お前と接する時間が勿体ない。
そう思われていたから、みんな僕のことを無視していたのだと思っていた。
「君と話していると楽しい。波長が合うっていうんだろうね、こういうの」
君の言葉は、僕にとっては天啓だった。
「ありがとう……」
お礼の言葉の最後の方は吐息になる。
君はくくくと笑った。
「感謝されるようなことじゃない。私と君は相性がいいってだけだ」
視界がにじんだ。涙をこぼすまいと少し上を向く。
君は僕をじっと見て、
「まあ、そういうことだよ。私は用事があるから、これで」
と言い、コーヒーを一気飲みして席を立った。
こんなことくらいで泣いて失望されただろうか。後姿を見送りながらそう思った。
翌日。
今日はひょっとすると来ないかもしれない。俯きながらカフェオレを飲んでいると、
「やあ。今日も天気がいいね。最高の日だと思わないかい」
いつの間にか君が来ていて、何でもないように僕の肩を叩いた。
「うん……いい天気だね」
「どうしたんだい、元気がなかったようだけど」
「ううん……君に嫌われたかもしれないと思って」
「私が君を嫌うはずがないだろう。おかしなことを言うなあ」
「そうなの……?」
「もちろん。保証するよ」
「ありがとう……」
「まったく、お礼を言ってばかりだな君は」
苦笑する君。
「うん、でも嬉しかったから……あの、君も、自分を大事にしてね」
君は一瞬きょとんとした顔をした。
ややあって、
「私はいいのさ。今のままでも充分だ。自分の興味にはいつも忠実だし、ね」
口元の笑みを崩さぬまま、君はそう答えた。
「うん……」
それからはいつものように何でもない会話をして、僕たちは別れた。
少し言葉を濁した君。
僕は君の日常を知らない。連絡先も、友人関係も。
カフェテリアで別れて家に帰り、大学に来て授業を受けて、またカフェテリアで会うまでは、一切連絡手段がない。
このままでいいのだろうか。
そう思って連絡先を訊いてみようとしたが、それとなく話を逸らされた。
約束をしていないのに会える、というのが魅力なのかもしれない。僕はそう思っていたけれど、君もひょっとしてそう思っているのかも。
それならば、無理に他の連絡手段を確立しようとしなくてもいいのかもしれない。
僕は自分の考えを心の奥底にしまい込んだ。
◆
平穏だが楽しい日々のなか、いつものカフェテリアの窓から見える景色は夏、秋を過ぎ、重い雲が毎日空を埋める冬になった。
年末。皆、帰省してしまって構内はがらんとしている。
さすがに今日は君もいないかな、と思いながら、僕はカフェテリアに来た。
廊下のガラス窓から、肘をついて手を頬に当てた君が見えた。浮かない顔で、ぼんやり宙を見ている。
カフェテリアの引き戸を開けても、君は気付かない様子だった。
わからない、という呟きが耳に届く。
僕はカフェオレを買うのをやめ、君に近づいて話しかけた。
「どうしたの?」
「……どうもしないさ」
どうもしない、という顔ではない。明らかに何かある顔だ。
「何かあったの?」
「何も。君には関係ない」
そう言って君は目の前のコーヒーに目を落とす。僕もつられて君の前に置かれているそれを見た。
黒い水面に、さざ波が立っている。
二人とも動かず、コーヒーのさざ波がおさまっても君は黒い水面を見ていた。
僕は向かいの椅子にそろりと腰かけ、カバンの中から冬休みの課題を取り出した。
普段、君と二人でいるときは課題をしたりはしない。大抵話すことに夢中になっているからだ。しかし、君が無言でいる今日、何もせずにここに居続けるのは少し気まずい。ただ立ち去ってしまうには君のことが心配だったので、折衷案として課題をすることにしたのだ。
それは苦手な分野の課題だった。教科書やプリントを所狭しと並べ、見比べながら進める。
わからないことばかりだ。うんうん唸りながら進めていたが、ついに、どこをどう調べてもわからない箇所が現れた。
「困った」
つい声に出してしまってから、慌てて口を押さえた。
そっと君を見る。君はコーヒーから目を上げ、こっちを見ていた。
「いやあその、課題でわからないとこがあって……」
訊かれてもないのに説明する僕。
「ここがこうなるはずなんだけど、どうしてこの答えになるのか、いくらやっても繋がらないんだよね……ハハ……」
君は黙って僕を見据えている。視線こそこちらに向いているものの、その目が僕を映しているかどうかは定かではない。
次第に無駄なおしゃべりをしてしまったという後悔が湧きあがり、僕は椅子に座ったまま小さくなった。
「あの……ごめんね……こんな話して……」
「どれ? 見せてみなよ」
「え?」
「わからないんだろ? 教えてあげるよ」
僕に話しかける君の目には、いつもの光が戻っていた。いいの? と僕。当たり前じゃないか、と君。
「ありがとう……」
僕は課題文を君に見せようと、ノートを押し出した。
君はしばらくノートに目を走らせると、
「どこで詰まったの?」
と訊いた。
「この例題なんだよ。教科書ではこうなっているんだけど、この行からこの行になるときにわからなくなる。どう処理すればこの式になるのか」
ああ、と君が言う。
「公式だよ。書かれてないけど、三角関数の微分の公式があったろ」
「やったっけそんなの……」
「高校数学の範囲だからわざわざ説明してないのさ」
「高校でやったのか。全く記憶がない……」
「君の高校時代のことはともかく、課題はこれで進むようになったんじゃないか?」
「うん……でもこの公式を覚えられる自信がない……そうだ、教科書の裏表紙にでもメモしておけば」
「そうそう。工夫をするのが大事ってね。他にわからないところはあるかい?」
「あるんだよ。ここと、ここと、あと……」
「一つずつ解決していこう。今日は付き合うよ」
「わあ、ありがとう!」
それからは君に手伝ってもらって課題を進め、夕方までかかってなんとか提出できる状態まで持っていけた。
「それじゃ、また」
「うん、また! 今日は本当にありがとう!」
僕がそう言うと、君は笑ってひらりと手を振り、去って行った。
その姿は全くいつも通りの君で、先ほどまでの欝々とした様子など欠片も感じられなかった。
よかった、元気になってくれたんだ。
僕はほっとした。
課題も片付けたことだし、これで安心して帰省できる。そう思って、僕は荷物を片付け始めた。
◆
実家に帰って年末が過ぎ、年が明けた。
こちらに戻ってきたのは授業が始まる二日前の夜だった。
空は珍しく晴れており、星が散らばった夜がどこまでも広がっている。
明日も晴れたままだろうか。もしもそうなら明日は大学図書館にでも行って、その後カフェテリアに行こう。久々に君にも会いたい。
そんなことを思いながら、ベッドに入る。長距離移動で疲れた心身は案外すぐに眠りに落ちた。
果たして翌日は晴れだった。僕は朝食を食べると予定通り図書館に向かった。専門分野の雑学書などをめくり、図鑑を読み、移動して文学の棚に手を伸ばし、最後に新聞を読んだ。
食堂で昼食を食べ、その後すぐにカフェテリアへ向かう。
君はいなかった。それはそうだろう。時間が早すぎるのだ。僕自身、こんな時間に一人でカフェテリアに来たことはない。
とりあえずカフェオレでも飲もうと思い、自販機に向かう。
ところが、カフェオレは売り切れていた。
運が悪いな。何か他のものを飲もう。
僕はしばらく自販機とにらめっこして、君がいつも飲んでいるブラックを選んでみることにした。
鞄に入れていた文庫本を取り出し、広げる。ブラックを一口飲んで、僕は固まった。
とんでもなく苦い。君はいつもこんなものを飲んでいたのか。
口の中のものを苦労して飲み込む。
僕は席を立ち、隣の自販機でクッキーを買った。甘いものと一緒に飲めば苦いのを誤魔化せるかもしれないと思ったからだ。
しかし、その目論見は失敗した。カロリーオフのクッキーだったせいか、その甘さはブラックコーヒーの強烈な苦みを和らげてはくれなかった。
僕は渋い顔でコーヒーを手元から遠ざけた。そして、クッキーを食べながら本を読んだ。
本にはあまり集中できなかった。その本は数学が苦手な僕にとっては厳しいことに、説明に微積分を用いていたからだ。数式を見ながらうんうん唸っているうちに時間だけが過ぎ、本の内容はさっぱり頭に入ってこない。
仕方がないのでまとめと後書きだけ読んで、本を閉じる。
顔を上げると、15時になっていた。
君と僕がいつも会うのはこのくらいの時間だ。
今日は君に会えるだろうか。会えたときには、この数式について教えてもらいたい。
僕はそわそわしながら君を待った。
16時になった。君は来ない。おかしいな、いつもならとっくに会えている時間なのに。
何かがあって遅れているのかもしれない。もう少し待ってみよう。
僕は鞄からさっきの本とは別の文庫本、今度は小説を取り出した。
本を適当に開いて読み始めてみたものの、まったく集中できない。時計を見ては本に目を戻し、少し読んでは時計を見る。そうこうしているうちに、17時になり、18時になった。
今日はもう来ないだろう。こんな時間までカフェテリアにいたことはない。
僕は席を立ち、荷物をまとめ、食堂へ行って夕食を食べて帰った。
次の日も、君は来なかった。
休みは今日で終わりだ。明日から授業が始まる。講義のない午後、ここに来たとして、君にまた会えるだろうか。
会えるに決まっている。ずっとここで会ってきたんだから、約束しなくてもきっと君は来てくれる。
そう思っていた。いや、思おうとしていたのかもしれない。
◆
一週間過ぎても、二週間過ぎても、今期の授業が終わっても、君は来なかった。
僕は君の連絡先を知らない。知り合いを辿って君と同じ学科の人に訊いてみても、知らない、学科生はたくさんいるからいちいち気にしていられない、などと言われるばかりだった。
手詰まりのまま、冬が過ぎていく。
僕はいつしかカフェテリアに通うことをやめてしまった。
君がいないと認識すること、君がいなくなったこと、なぜいなくなったのか考えながら、僕がああしたせいかも、こうしたせいかもと自責するのがつらかったからだ。
君は来なくなった、何らかの事情で。僕が知るのはそれだけでいい。それ以上のことをもう知りたいとは思わない。
それでも、ふとしたきっかけで考え出してしまう。
あの時、君の悩みを無理矢理にでも聞き出しておけば、何か変わったのだろうか。それ以前に、嫌がられようとも連絡先を訊いておけば、こんなことにはならなかったかもしれない。
厳しく冷え込んだある日、西門に向かって歩きながら僕は考える。
無理矢理悩みを聞き出すなんて、押しの弱い僕にはとてもできないことだったし、強引に連絡先を訊いていたら、ここまで関係は続かなかったような気もする。
後悔しても無駄なのだ。こうなってしまった以上、過去は変えられないし、今僕にできることは全てやってしまったと思う。
平凡でつまらない僕を評価してくれた君に、せめて何か恩返しがしたかったのに。
視界の端に、石でできた水槽が映る。
君が好きだと言っていた場所。
『君は自分を大事にするんだよ』
僕は水槽の側まで行き、立ち止まった。
僕の後ろを学生たちが通り過ぎる。
じっと水槽を覗き込んでみたが、割れた氷が張っているだけで、カエルはおろか、生命の気配も何一つなかった。
僕は瞬きを一つ、する。
頬が冷たい、と思って顔を上げると、鉛色の空から雪が降り始めていた。
(おわり)
学部が違う。取っている講義も違う。会うのはいつも晴れた日の昼下がり、構内のカフェテリアだった。
約束していたわけではない。晴れた日の午後、カフェテリアに来るというライフスタイルが同じだっただけだ。
お互い存在を認識し始めたのは早かったと思う。
またいるな、なんて考えていた初夏のある日、君は同じテーブルに座ってきた。
「やあ」
そう声をかけられて、やあ、と返す。君は言葉を続ける。
「カフェオレはおいしいかい?」
「うん。君はいつもブラックだけど、苦くないの?」
僕の言葉を聞いた君はおかしそうに笑った。
「慣れてるのさ」
そこからだったと思う、会う度に会話するようになったのは。
好きな飲み物から始まって、好きな食べ物、本、好きな場所のことなど色々な話をした。
「今ハマってる場所はやっぱりあそこだな、教養棟の西口にある水槽」
君は目を輝かせながら語る。
「ああ、石でできたやつだよね?」
「そう。生物科がカエル育ててるって噂がある」
「本当に?」
「わからない。それを確かめるために時々覗いてるんだが、見たことはないね」
「立ち止まって覗くの?」
「ああ」
「でもあそこで立ち止まるの怖くない? 道の脇にあるから、他の人の邪魔になるんじゃないかって思っちゃう」
「ぎりぎりまで寄ればいいんだよ。人に配慮して自分の興味を抑圧していたら、いつか無になるぞ」
「そうかな……」
今でも結構無だと思うけど、という言葉を飲み込んだ。これまで自分を抑圧した結果無になりつつある、と仮定するならそうなのかもしれない。
「そうだね……」
「いいかい。君は自分を大事にするんだよ。君にはそれだけの価値がある」
「え……」
君は真っすぐこっちを見ている。
――退屈で平凡な奴、ちょっと付き合うだけならいいが深く付き合う価値はない。
そんなことを、これまでの人生では言われてきた。
「僕に、価値があると?」
「当然じゃないか。君と話してると退屈しない」
「退屈しない……」
――お前の話はつまらない。お前と接する時間が勿体ない。
そう思われていたから、みんな僕のことを無視していたのだと思っていた。
「君と話していると楽しい。波長が合うっていうんだろうね、こういうの」
君の言葉は、僕にとっては天啓だった。
「ありがとう……」
お礼の言葉の最後の方は吐息になる。
君はくくくと笑った。
「感謝されるようなことじゃない。私と君は相性がいいってだけだ」
視界がにじんだ。涙をこぼすまいと少し上を向く。
君は僕をじっと見て、
「まあ、そういうことだよ。私は用事があるから、これで」
と言い、コーヒーを一気飲みして席を立った。
こんなことくらいで泣いて失望されただろうか。後姿を見送りながらそう思った。
翌日。
今日はひょっとすると来ないかもしれない。俯きながらカフェオレを飲んでいると、
「やあ。今日も天気がいいね。最高の日だと思わないかい」
いつの間にか君が来ていて、何でもないように僕の肩を叩いた。
「うん……いい天気だね」
「どうしたんだい、元気がなかったようだけど」
「ううん……君に嫌われたかもしれないと思って」
「私が君を嫌うはずがないだろう。おかしなことを言うなあ」
「そうなの……?」
「もちろん。保証するよ」
「ありがとう……」
「まったく、お礼を言ってばかりだな君は」
苦笑する君。
「うん、でも嬉しかったから……あの、君も、自分を大事にしてね」
君は一瞬きょとんとした顔をした。
ややあって、
「私はいいのさ。今のままでも充分だ。自分の興味にはいつも忠実だし、ね」
口元の笑みを崩さぬまま、君はそう答えた。
「うん……」
それからはいつものように何でもない会話をして、僕たちは別れた。
少し言葉を濁した君。
僕は君の日常を知らない。連絡先も、友人関係も。
カフェテリアで別れて家に帰り、大学に来て授業を受けて、またカフェテリアで会うまでは、一切連絡手段がない。
このままでいいのだろうか。
そう思って連絡先を訊いてみようとしたが、それとなく話を逸らされた。
約束をしていないのに会える、というのが魅力なのかもしれない。僕はそう思っていたけれど、君もひょっとしてそう思っているのかも。
それならば、無理に他の連絡手段を確立しようとしなくてもいいのかもしれない。
僕は自分の考えを心の奥底にしまい込んだ。
◆
平穏だが楽しい日々のなか、いつものカフェテリアの窓から見える景色は夏、秋を過ぎ、重い雲が毎日空を埋める冬になった。
年末。皆、帰省してしまって構内はがらんとしている。
さすがに今日は君もいないかな、と思いながら、僕はカフェテリアに来た。
廊下のガラス窓から、肘をついて手を頬に当てた君が見えた。浮かない顔で、ぼんやり宙を見ている。
カフェテリアの引き戸を開けても、君は気付かない様子だった。
わからない、という呟きが耳に届く。
僕はカフェオレを買うのをやめ、君に近づいて話しかけた。
「どうしたの?」
「……どうもしないさ」
どうもしない、という顔ではない。明らかに何かある顔だ。
「何かあったの?」
「何も。君には関係ない」
そう言って君は目の前のコーヒーに目を落とす。僕もつられて君の前に置かれているそれを見た。
黒い水面に、さざ波が立っている。
二人とも動かず、コーヒーのさざ波がおさまっても君は黒い水面を見ていた。
僕は向かいの椅子にそろりと腰かけ、カバンの中から冬休みの課題を取り出した。
普段、君と二人でいるときは課題をしたりはしない。大抵話すことに夢中になっているからだ。しかし、君が無言でいる今日、何もせずにここに居続けるのは少し気まずい。ただ立ち去ってしまうには君のことが心配だったので、折衷案として課題をすることにしたのだ。
それは苦手な分野の課題だった。教科書やプリントを所狭しと並べ、見比べながら進める。
わからないことばかりだ。うんうん唸りながら進めていたが、ついに、どこをどう調べてもわからない箇所が現れた。
「困った」
つい声に出してしまってから、慌てて口を押さえた。
そっと君を見る。君はコーヒーから目を上げ、こっちを見ていた。
「いやあその、課題でわからないとこがあって……」
訊かれてもないのに説明する僕。
「ここがこうなるはずなんだけど、どうしてこの答えになるのか、いくらやっても繋がらないんだよね……ハハ……」
君は黙って僕を見据えている。視線こそこちらに向いているものの、その目が僕を映しているかどうかは定かではない。
次第に無駄なおしゃべりをしてしまったという後悔が湧きあがり、僕は椅子に座ったまま小さくなった。
「あの……ごめんね……こんな話して……」
「どれ? 見せてみなよ」
「え?」
「わからないんだろ? 教えてあげるよ」
僕に話しかける君の目には、いつもの光が戻っていた。いいの? と僕。当たり前じゃないか、と君。
「ありがとう……」
僕は課題文を君に見せようと、ノートを押し出した。
君はしばらくノートに目を走らせると、
「どこで詰まったの?」
と訊いた。
「この例題なんだよ。教科書ではこうなっているんだけど、この行からこの行になるときにわからなくなる。どう処理すればこの式になるのか」
ああ、と君が言う。
「公式だよ。書かれてないけど、三角関数の微分の公式があったろ」
「やったっけそんなの……」
「高校数学の範囲だからわざわざ説明してないのさ」
「高校でやったのか。全く記憶がない……」
「君の高校時代のことはともかく、課題はこれで進むようになったんじゃないか?」
「うん……でもこの公式を覚えられる自信がない……そうだ、教科書の裏表紙にでもメモしておけば」
「そうそう。工夫をするのが大事ってね。他にわからないところはあるかい?」
「あるんだよ。ここと、ここと、あと……」
「一つずつ解決していこう。今日は付き合うよ」
「わあ、ありがとう!」
それからは君に手伝ってもらって課題を進め、夕方までかかってなんとか提出できる状態まで持っていけた。
「それじゃ、また」
「うん、また! 今日は本当にありがとう!」
僕がそう言うと、君は笑ってひらりと手を振り、去って行った。
その姿は全くいつも通りの君で、先ほどまでの欝々とした様子など欠片も感じられなかった。
よかった、元気になってくれたんだ。
僕はほっとした。
課題も片付けたことだし、これで安心して帰省できる。そう思って、僕は荷物を片付け始めた。
◆
実家に帰って年末が過ぎ、年が明けた。
こちらに戻ってきたのは授業が始まる二日前の夜だった。
空は珍しく晴れており、星が散らばった夜がどこまでも広がっている。
明日も晴れたままだろうか。もしもそうなら明日は大学図書館にでも行って、その後カフェテリアに行こう。久々に君にも会いたい。
そんなことを思いながら、ベッドに入る。長距離移動で疲れた心身は案外すぐに眠りに落ちた。
果たして翌日は晴れだった。僕は朝食を食べると予定通り図書館に向かった。専門分野の雑学書などをめくり、図鑑を読み、移動して文学の棚に手を伸ばし、最後に新聞を読んだ。
食堂で昼食を食べ、その後すぐにカフェテリアへ向かう。
君はいなかった。それはそうだろう。時間が早すぎるのだ。僕自身、こんな時間に一人でカフェテリアに来たことはない。
とりあえずカフェオレでも飲もうと思い、自販機に向かう。
ところが、カフェオレは売り切れていた。
運が悪いな。何か他のものを飲もう。
僕はしばらく自販機とにらめっこして、君がいつも飲んでいるブラックを選んでみることにした。
鞄に入れていた文庫本を取り出し、広げる。ブラックを一口飲んで、僕は固まった。
とんでもなく苦い。君はいつもこんなものを飲んでいたのか。
口の中のものを苦労して飲み込む。
僕は席を立ち、隣の自販機でクッキーを買った。甘いものと一緒に飲めば苦いのを誤魔化せるかもしれないと思ったからだ。
しかし、その目論見は失敗した。カロリーオフのクッキーだったせいか、その甘さはブラックコーヒーの強烈な苦みを和らげてはくれなかった。
僕は渋い顔でコーヒーを手元から遠ざけた。そして、クッキーを食べながら本を読んだ。
本にはあまり集中できなかった。その本は数学が苦手な僕にとっては厳しいことに、説明に微積分を用いていたからだ。数式を見ながらうんうん唸っているうちに時間だけが過ぎ、本の内容はさっぱり頭に入ってこない。
仕方がないのでまとめと後書きだけ読んで、本を閉じる。
顔を上げると、15時になっていた。
君と僕がいつも会うのはこのくらいの時間だ。
今日は君に会えるだろうか。会えたときには、この数式について教えてもらいたい。
僕はそわそわしながら君を待った。
16時になった。君は来ない。おかしいな、いつもならとっくに会えている時間なのに。
何かがあって遅れているのかもしれない。もう少し待ってみよう。
僕は鞄からさっきの本とは別の文庫本、今度は小説を取り出した。
本を適当に開いて読み始めてみたものの、まったく集中できない。時計を見ては本に目を戻し、少し読んでは時計を見る。そうこうしているうちに、17時になり、18時になった。
今日はもう来ないだろう。こんな時間までカフェテリアにいたことはない。
僕は席を立ち、荷物をまとめ、食堂へ行って夕食を食べて帰った。
次の日も、君は来なかった。
休みは今日で終わりだ。明日から授業が始まる。講義のない午後、ここに来たとして、君にまた会えるだろうか。
会えるに決まっている。ずっとここで会ってきたんだから、約束しなくてもきっと君は来てくれる。
そう思っていた。いや、思おうとしていたのかもしれない。
◆
一週間過ぎても、二週間過ぎても、今期の授業が終わっても、君は来なかった。
僕は君の連絡先を知らない。知り合いを辿って君と同じ学科の人に訊いてみても、知らない、学科生はたくさんいるからいちいち気にしていられない、などと言われるばかりだった。
手詰まりのまま、冬が過ぎていく。
僕はいつしかカフェテリアに通うことをやめてしまった。
君がいないと認識すること、君がいなくなったこと、なぜいなくなったのか考えながら、僕がああしたせいかも、こうしたせいかもと自責するのがつらかったからだ。
君は来なくなった、何らかの事情で。僕が知るのはそれだけでいい。それ以上のことをもう知りたいとは思わない。
それでも、ふとしたきっかけで考え出してしまう。
あの時、君の悩みを無理矢理にでも聞き出しておけば、何か変わったのだろうか。それ以前に、嫌がられようとも連絡先を訊いておけば、こんなことにはならなかったかもしれない。
厳しく冷え込んだある日、西門に向かって歩きながら僕は考える。
無理矢理悩みを聞き出すなんて、押しの弱い僕にはとてもできないことだったし、強引に連絡先を訊いていたら、ここまで関係は続かなかったような気もする。
後悔しても無駄なのだ。こうなってしまった以上、過去は変えられないし、今僕にできることは全てやってしまったと思う。
平凡でつまらない僕を評価してくれた君に、せめて何か恩返しがしたかったのに。
視界の端に、石でできた水槽が映る。
君が好きだと言っていた場所。
『君は自分を大事にするんだよ』
僕は水槽の側まで行き、立ち止まった。
僕の後ろを学生たちが通り過ぎる。
じっと水槽を覗き込んでみたが、割れた氷が張っているだけで、カエルはおろか、生命の気配も何一つなかった。
僕は瞬きを一つ、する。
頬が冷たい、と思って顔を上げると、鉛色の空から雪が降り始めていた。
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