短編小説

 ふと目が覚めた。辺りは暗く、部屋と布団の輪郭だけがかろうじてわかる。
 寝る前に暖房を消したので、部屋の空気は冷えている。
 時間は確認していないが、天窓の暗さから考えるとおそらく深夜だろう。
 静けさが辺りを支配していた。
 一人暮らしなので、この部屋には自分以外の気配がない。そのことが、俺の孤独感を加速させていた。
 ベッドから降りる。フローリングの床の冷たさが直に伝わり、一瞬胸がぎゅうとなる。
 ここを出て、どこかに行こう。そうすれば誰かに会えるかもしれない。
 俺はコートを羽織り、玄関まで行ってサンダルを履き、外に出た。
「寒い……」
 空はどんよりと曇っており、身を切るような風が吹いている。
 身をすくめながら細い小道を歩いた。立ち並ぶアパートの部屋の窓はどれも暗く、備えつけられた街灯の明かりだけがぽつんと道を照らしている。



 小道を抜けると、コンビニの後ろ姿が見えてきた。夜の闇に抵抗するようなコンビニの強い照明も、背後からでは頼りない。
 俺はコンビニの正面に回り、自動ドアから中に入った。
 入店音が響く。
 いつもならちらほら人がいるのだが、こんな時間だからか全く人気がない。
 レジにも人はいない。
 コンビニは24時間営業なので、店員が必ず一人はいるはずだ。
 奥の棚の方で商品を並べてでもいるのだろうか。
 生命の気配が全くない店内で、店内放送だけが空虚に響いていた。何かとコラボしているやら何やらで、元気な声の何者かのアナウンスが聞こえてくる。
 店員を探すため、棚と棚の間に入ろうとした。
 しかし、店内放送の明るい声を聞いているとなぜか心削られるような思いになり、すぐに店を出てしまった。
 冷たい風とどんよりした空が、再び俺を迎える。
 依然として人の気配はない。
 大学に行けば、誰かいるだろうか。
 そう思って、俺は大学に足を向けた。



 風の音と自分の足音、ビオトープの水の音。
 構内にもまた人気はなく、メインストリートは見渡す限り無人だった。
 教養棟は真っ暗だったが、理系の棟にはまだぽつぽつと明かりが灯っていた。
 いつも使っている研究室には、誰かいないだろうか。
 裏口からカードを使って棟内に入る。センサーが反応し、廊下の電気がぱっぱっと点いた。
 扉を閉める。ドアロックがかかる。俺はしばらく閉まったドアを見ていた。
 何の音もしない。
 風がないぶん、棟内の寒さはましに感じる。それでも、指先からかじかんでゆく。
 階段を上がり、廊下を曲がる。研究室の明かりは消えていた。
 キイ、とドアを開ける。ほこりっぽい空気。誰もいないようだ。
 俺は電気を点け、エアコンのスイッチをオンにした。
 自分の席まで行き、PCを開いて電源ボタンを押す。
 いつもと変わらぬ起動音を立て、PCはすぐに立ち上がった。



 せっかく研究室まで来たのだし、少しくらい作業を進めておこう。そう思って、俺はPCと向き合った。
 読むべき論文はあるのだが、なんとなく開く気になれない。
 しかし、読まなければならないのは事実だ。これを読まなければ、作業を進めても胡乱なものになってしまうだろう。
 真っ先に読まなければいけないのだ。どうしても読まなければいけないのだ。
 それでも、開く気になれない。
「よし」
 俺はポインターを論文のファイルから逸らし、ニュースアプリを立ち上げた。
 読まなければという気持ちから目を逸らすかのように、アプリのウィンドウに集中する。
 左にあるニュースから順に、丁寧に読んでいった。
 悲惨な事件。株価。華々しい業績。新技術のレポート。
 隅から隅まで舐めるように読んで、これ以上記事を読むにはブラウザを立ち上げなければならない、というところまで来て、俺は止まった。
 機械的に「閉じる」ボタンを押す。
 ウィンドウが消える。デスクトップが一面に映る。
 ショートカットがぱらぱらと並んでいる。用途別に分けて置いてあるので、これ以上整理する必要はない。
 「ごみ箱」にファイルが入っていたので、右クリックして空にした。
 もうやれることがなくなった。俺は大きなため息をつく。
 ポインターを論文ファイルの上に持っていき、意を決して論文を開く。
 画面いっぱいに大量の文字が映った。
 俺は画面から目を逸らした。
 こういうのは、印刷して読むべきだろう。
 そうっと印刷ボタンを押すと、エラーが出た。そういえば、プリンターを繋いでいない。
 プリンターを繋がなければいけないが、そのためには立ち上がってプリンターのところまで行かなければならない。
 気が進まない。全く気が進まない。
 のろのろと椅子を引いたとき、突然背後でべしゃ、という音がした。


◆◆◆


 恐る恐る振り向くと、岩石資料が入れてある段ボールの横に魚――片手に収まるくらいのサイズで地味な色をしている――が落ちており、ぴちぴちと跳ねていた。


 生きてるのか? どうしてこんなところに?
 俺は首を傾げた。
 魚はぴちぴち跳ね続けている。
 このまま放っておけば、いずれ死んでしまうだろう。
 水に入れてあげなければ。
 立ち上がって魚に近付き、手で持ち上げようとして、やめる。
 人間の体温だと魚は火傷するという話を思い出したのだ。俺はその辺の無駄紙を取り、魚の下に差し込むと、紙越しに魚を持ち上げた。
 これで幾分かはましだろう。
 さて、と俺は辺りを見渡す。
 どこに避難させようか。
 この辺りに池でもあればいいのだが。そう考えて、ふと思い至る。
 中庭にビオトープがある。そこに入れに行こう。
 俺は急ぎ足で研究室を出、廊下を歩いて階段を下り、ビオトープに向かった。
 


 ビオトープのある中庭にはうっそうと木々が生い茂り、備え付けの電灯の明かりが頼りなく植物を照らしていた。
 暗闇に浮かび上がった灰色の敷石を頼りに、池へ近付く。
 そうして池の縁まで来た。
 俺は魚を覆っている紙をなるべく水面に近付け、傾けた。
 ぽちゃん、という音。魚が水中に入る。
 俺は紙を畳んでコートのポケットにしまい、魚の様子を見守った。
 魚は放たれた場に留まり、ゆらゆら体勢を保っている。
 水面が波打っている。
 ややあって、魚は泳ぎ出した。その動きは速く、すぐに視界から消えてしまった。
 俺はぼうっと池を見た。
 水の音がしている。風も音を立ててこちらに吹き付けている。
 室内にいて忘れかけていたが、今晩は風が強い。
 この地域の冬はほぼいつも曇天で寒く、雨や雪が降り、強い風が吹くのだ。
 今夜は雨も雪もなく曇天に強風だけであるが、寒さのこともあり、厳しい天候であることは間違いない。
 そんな天気の中を大学まで来たのだが、ここまでで俺以外の生物をあの魚しか見なかった。
 ……誰もいないわけではなかろう。電気の点いている棟もあった。
 誰かいるのだろうとは思う。俺の知らない誰かが。
 俺の知らない誰かは、俺のことをたぶん知らない。その誰かの中で俺の存在はないのと一緒だ。
 さっきの魚もそうだ。俺の存在どころか、俺に自分が助けられたことすら認識していないだろう。魚の中にも俺はいない。
 今ここにいるどの生命体にとっても、俺は実質いないのだ。
 存在が誰にも感知されていないのであれば、今感じている孤独だって誰にも感知されていないはずだ。
 俺が孤独を感じようが感じまいが、誰にも影響が及ばない……それならば、孤独を感じるだけ無駄なのではないか。
「馬鹿らしい」
 孤独を感じることを非合理的だと断定しても、その感情が去ってくれるわけではない。そればかりか、非合理的な感情を感じている自分は研究者にあるまじき非合理な性格であり、非合理な性格の研究者は研究者に向いていないので大した業績を上げられない、そんな奴はいるだけで大学の恥である、従って自分は研究者の道を諦め即刻大学を去るべきだ、などという自責のような感覚が強まるだけだった。
 それから思考を回せば回すほど孤独感と自責は強まるばかりで、俺は口を一文字に結んで空を見上げた後、池に目を落とした。
 水面は真っ暗だった。
 これからどうすればいいのか。ここまでどう歩けば正解だったのか。
 わからなくなった。



◆◆◆



「――、――!」
 誰かが名前を呼んでいる。
 俺はぼんやり目を開けた。
「大丈夫か? 生きてるか?」
「……」
 研究室の窓から朝の光が差し込んでいる。
「朝早く来すぎて寝てたのか?」
「……」
 ここには夜来た、と言いたかったのだが、眠くてうまく声が出せない。
「大丈夫か、起きてるか」
 友人がぱしぱしと肩を叩く。
 俺はかろうじて頷いた。
 ずるずるとデスクから身を起こした拍子に、PCの画面が点いた。
 読もうと思って読んでいなかった論文が映る。
 研究者に向いていない……
 そんな思考が頭をよぎる。
 いつそんなことを考えたのか。
 向いていないことはわかっている。でも、今はやるべきことを終わらせなければ、後にも先にも進めない。しかし……
 俺は眉を寄せた。
「あ、その論文」
 画面に目をやった友人が口を開く。
「読んでたのか? 偶然。俺も今日読もうと思ってたとこなんだよ」
「……そうなのか?」
「お、目が覚めたか。な、眠気覚ましに一緒にこれ読まね? 談話室行こうぜ」
 それは非常に魅力的な誘いだった。自分に都合が良すぎる誘いだった。にわかには信じがたく、どう返事したものか迷った。
 俺が黙っていると、
「ほら、印刷するんだよ」
 と言って友人がプリンターの端子を俺のPCに繋いだ。友人はそのまま手早く印刷ボタンを押してしまう。
 ガ、ガ、という音を立てて、論文が印刷される。
「ホッチキス出して」
「はい」
 差し出したホッチキスを受け取り、論文を留める友人。よし、と言って論文を俺に差し出す。
 あれこれ考えている暇はなかった。俺はそれを受け取った。
「さ。行こうぜ」
「……そうだな」
 俺は立ち上がる。
 そして、連れ立って談話室へ向かった。



 論文解読には思ったより時間がかからず、終わった後お互いのこれからの方向性を語り合ったりしていたらお昼になった。
 学食に行くために通った廊下の掲示板に、
『絶滅したと思われていた種の魚が、今朝方本学ビオトープから見つかった』
 旨の掲示があった。
 友人はそれに少し興味を引かれたようだった。
「魚か~、不思議だな」
 そう言って、写真を食い入るように見ている。
「これさ、この前俺が掘ってきた化石と似てね?」
「そうか?」
「いや、似てるよ。この前ゼミで取ってきたやつ。お前は風邪で休んでたからまだ見てなかったな。結構保存がいいんだよ。範囲外だからサンプルにはしないけど……でもこういうの、なんか嬉しくなるよな」
 言いながら、友人はぴょんとジャンプした。そのままうきうきとした足取りで歩き出す。
「ほんとに嬉しそうだな」
「そりゃね。まあお昼が楽しみっていうのもある。釜玉うどんな。お前は何頼むんだ?」
「着いてから決める」
「混んでてそれどころじゃないだろ?」
「冬休みだぞ」
「あ、そうか。それなら大丈夫だな。しかし、冬休みでも学校に来る俺たち……超偉いな」
「はは」
「偉いんだよ、これは。偉いことはちゃんと偉いと思わないと、誰も褒めてくれないぞ」
「そうだな……」
 そうなのだろうか。
 本当のところ、俺は自分がいつ大学に来たのかわからない。深夜だったような気もするが、朝だったのかもしれない。
 ポケットに手をつっこむと、がさがさとした紙の感触。
 いつ入れたのかわからない、ほどよく乾いた紙の感触があった。


(おわり)
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