短編小説

 深い海の中に……いたんですか? と俺は聞いた。
 彼女は俯いたまま何も答えない。
 言い出したのは彼女なのに、答えてくれないのは好きじゃない。
「海の中には魚がいたでしょう? イカもいたかもしれませんね。実は俺、イカが大好きなんですよ。特に一夜干し。焼いて噛みしめたときにじわっと出てくる汁がたまらないんですよね」
 間を埋めるためつらつらと語っているうちに、食べたくなってきた。
 彼女は相変わらず何も答えない。
 俺は上を見た。
 白い天井に小さくて丸い穴が等間隔で空いている。よく見る感じのやつだ。
 海の中。
 海の中なら、俺も行ったことがある。当時最新鋭だった海中ホテルに家族で行ったのだ。
 そのときは幼くてありがたみがよくわからなかったが、海中ホテルが廃れてしまった今ならわかる。俺は代えられない体験をしたのだ、と。
 あの時窓から眺めた海の水はラムネ玉のような色で、海中アトラクションがキラキラと光っていた。

 じい、と突然セミの声。
 俺ははっと我に返る。
 彼女が座っていた椅子にはもう、誰もいなかった。
 そうですか、と俺は呟く。
 今日は帰り道にあるスーパーでイカ刺しでも買って帰ろう、と思った。


(おわり)
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