短編小説

 朝起きると雨だった。ここ最近の出来事を思い出して気分が暗くなる。
「はあ」
 俺はため息をついた。
 布団から出る気になれない。
 幸い今日は休みだ。もう少し眠りに逃避していようと目を瞑る。



「起きて、ねえ、起きてよ」
 聞き覚えのある声に目を開ける。
 布団がなくなっている。ベッドも。
 俺はだだっ広い空間に横たわっていた。
 床は無機質な白、空は快晴の青。
 見たところ、周りに壁のようなものはない。
 上体を起こして見回すと、白い床と青い空が水平線で交わっているのがわかった。
「どう? ほら、私だよ」
 俺の側で両手を広げて屈みこんでいるのは、ショートカットの黒髪に白いワンピースの女性。
「あなたがいるということは、つまり夢だな」
 失われたものを見る。それは都合のいい夢だろう。
 彼女が失われてからもう二か月近く経つ。意識してはいなかったが、未練が残っていたということか。その事実と、忘れられない自分に嫌気がさす。
「余計なこと考えてるでしょ。せっかく私と会えたんだから、もっと喜びなさい」
「喜べないよ」
「なんで?」
 これは夢の中だ。この彼女の存在だって彼女そのものであるはずがなく、俺が作り出した存在なのだ。そのことを忘れて、夢の中ででも出会えただけまし、などと喜べればよかったのだが。
「元気か?」
 俺は彼女の疑問には答えず、別の問いを返す。
「元気だよー!」
 はじけるような笑みを浮かべる彼女。
「それに、こっちでも楽しくやってるよ!」
 模範解答だ。100点満点だ。
「それはよかった」
 本当によかった、と思ってしまいそうな心を抑えて俺は返した。
 悟られていなければいいのだが。まあ、夢の中の彼女であるし、悟られても別に問題はないのだ。いや……なぜ悟られるとまずいのだろうか。
「そっちはどう?」
「日常が続いてる。まるで何も変わってないみたいだ。嘘のように」
 嘘のように、と言った俺の声は震えていた。
「変わってなくてもいいんだよ」
 諭すように、彼女。
「実際のところ、私一人がいなくなったって関係ない人にとっては何も変わらないんだから」
「そんなのはおかしい、……」
 反駁しかけて、やめる。
 彼女がいなくなって俺の感情は動いたが、目に見える変化としてはそれだけで、外から見ると何も変わっていないように見えるだろう。
 それに、彼女の言うことは正論だ。しかし、
「それでも俺の内面は変わってるんだ……」
「うん」
 にこにこしながら、彼女。
「いったいどれくらいの人が私のことを引きずってくれてるんだろうね」
 その声はあくまでも明るく、単に気になっただけという風であった。
 彼女の様子とは裏腹に、俺の心は暗い霞がかかったようだ。
 少なくとも俺は引きずっている。
 だが、今の彼女にそんな話題を持ちかけても笑って流される予感しかしなかった。
 それもそうだ。彼女はこういう場面で湿っぽくなったりしない人だと俺が思っているから、夢の中の彼女もそんな行動はとらないだろう。
 俺は心のどこかで落胆を覚えた。
 落胆? 何に?
「俺は……」
「いいんだよ、忘れてくれて。痛みだってずっと抱えてなくてもいいんだよ」
 そう続ける彼女は、とても優しい微笑みを浮かべていた。
 白いワンピースが風に揺れる。短い髪がそよいだ。
 痛み? それ以前の問題だ。俺は思ったが、何も返せなかった。
「私が伝えたかったのはそれだけ」
 そっと目を伏せる彼女。はっとして周囲を見渡すと、世界が崩れ始めているのが見えた。
「待ってくれ」
 床に少しずつひびが入り、霧散し、空が落ちてくる。彼女の輪郭も薄れ始めており、それは俺も同様だった。
 俺は黙って眉を寄せながら世界の崩壊を見ていたが、彼女が首まで消えかかったとき、やはり何か言わなければという思いにかられて口を開いた。

「そんなこと言ったって、やっぱり俺は受け入れられてないんだよ」

 その言葉を聞いた彼女の表情はこれまでと全く違っていた。
 心から嬉しそうな、暗い笑み。

 蛇だ。

 俺はなぜか安堵していた。
 それで得心がいった。
 つまり俺はこれが見たかったのだ、と。



 目を覚ますと昼過ぎで、相変わらず雨は降っていた。梅雨入りしていないのにこれほど降るとは。
 洗濯物は部屋干しだな、と思う。
 食事の用意をしながら、彼女にまつわる感情のことを少し思い返そうとして、やめた。


  (おわり)
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