短編小説

 足先から冷えるな、と思う。
 Iは北国のラーメン屋で震えながら座っていた。ラーメンは既に食べ終わっていた。一緒に来た友人たちが話し込んでいるのだ。
 上に着ていたコートを脱いだのが間違いだったろうか、とIは考える。
 だがしかし、そもそもは言い出せない自分がいけないのだ。
 テーブルは人の噂で盛り上がっている。
 Iは人の噂をするのがあまり好きではなかった。もっと他のことを話したかった。しかし、気の弱いIは、そのことをうまく言い出せなかった。
 Iはその友人たちが人の噂をする人種だということを今の今まで知らなかった。現実を受け入れることにまず時間がかかり、的確な相槌を探すのに時間がかかり、寒さから精神状態が思わしくない方向に向いていく。そのとき、Iは自分が寒いということに気付いていなかった。
 人の噂に相槌を打つのがいやになり、他の席の椅子の装飾などに目を向ける。そのとき、やっと自分が寒いのだと気付いた。
 そして、冒頭の足先から冷えるな、に戻る。
 椅子の装飾は、四角が四つの四角に分かれており、その中にまた四角があった。フラクタルぽいな、とIは思ったが、フラクタルの定義をはっきり思い出せず、あいまいな概念しか浮かばなかったので別のことを考える。そして、その日の講義で見たプランクトンの写真のことを思い出す。丸の中に丸がいくつもあってその中にまた丸がいくつかあるという構造だった。
 丸の中に丸。
 Iは頭の中で呟く。
 心憎いかたち。
 教授が言っていた言葉を思い出す。Iにとって、まったくわからない言葉ではなかった。
 わからない言葉。わからない話。自分の知らないこと、繋がっていない知識をもって話される話。気軽に話ができる相手でも、少しジャンルがずれただけで、わからなくなる。ジャンルを無作為に選ぶ場合、気軽に話せるということと、相手の話の内容が一度でわかるということに相関関係はない。
 当たり前のことではあるが、Iはそれが不思議だった。
 コミュニティの日常会話フレームから外れた話であっても、話の内容を受け止められるとき。そういうとき、相手はそれをわかるように話しているのだなあとIは思う。
 日常会話というのは、今日は晴れているだとか、曇っているだとか、お互いの生活に直接関係する会話のことだ。
 コミュニティごとに、会話の枠がある。枠さえ守れば、仲間はずれにされることはありえないだろうとIは思っていた。
 Iは枠を守らないのが好きだった。反面、Iは年頃の若者によくあるように、仲間はずれが怖かった。
 何が正しいんだかわからないとIは思う。
 考えれば考えるほど、支離滅裂になる気がする。
 全てを考えることはできないし、全てを記述することもできない。わかっているのに、すぐ忘れてしまう。復習をしなければいけないのだ。ラーメン屋で感じた寒さも、今日の講義の内容も。
 復習は大事だ。
 Iはスープを一口飲んだ。隣に座った友人は、さきほどから一言も喋っていない。普段から無口を通すことの多い友人ではあるが、内面でいろいろな事を考えているのは知っている。さて彼は、今の会話内容に関してどう思っているのだろう。
 想像もつかない。人の考えることなど、わかるわけがない。Iは彼の方を見ず、ラーメン屋の天井や壁などを見ていた。何も思いつかないとわかったあと、Iはコートを椅子から取り、羽織った。
 話はまだ続いている。
 冬の初めのことだった。

  (おわり)
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