短編小説
おかしい。
というのが俺の口癖らしいのだが実は最近になるまで気付かなかった。
まあそういうのがきっと普通だろう。
普通って何だか知らないが。
おかしい、が口癖だとわかっていても今の状態はおかしい、どうかしている。
燃えている。
何が? わからない、何かが。
寝ている時間も起きている時間もずっとそのことを考えている。
何を?
羊。
あいつが何だかは知らない、ただ、羊、とそれは名乗った。
◆
「そんなこともわからないのですか」
「わからないからわからないって言ってる」
「なら証明すればいいでしょう」
「できるわけないだろう、そもそも何をもって証明するんだ」
「簡単なことですよ」
羊は空中に数式を描く。光が集まり、行が進み、
【ERROR!】
「あれ」
「どうした」
「証明できませんね」
「ほらできないじゃないか」
「できないとか言われると腹が立ちます」
「お前にもわからないことはあるんだな」
「私にわからないことなどありませんよ、羊なのですから」
「でもそれはわからないんだろう」
「いいですか、人生は積み重ねというものが大切です。私は羊ですが、努力、それさえあれば大抵のことはなんとかなります。したがって」
「したがって?」
「努力あるのみ」
「俺、努力嫌いなんだけど」
「私は好きですよ」
「それでお前は何の努力をするんだ」
「あなたのその『わからない』を解き明かしてあげましょう」
そういうことになった。
◆
初日。聞き取り調査。
「■■くん、あなたがわからないのは何ですか」
「何って、わからないからわからないんだろ」
「非論理的です」
「論理的だろ」
「己の抱える問題を自覚できていないではないですか」
「人間は羊じゃないからそんな簡単に問題の言語化とかできないんだよ」
「くくりが大きすぎますよ。問題の言語化が得意な人間もいるでしょう」
「俺は苦手なんだよわかるか」
「知りませんよそんなこと。ちゃんと考えてください」
「考えるっつったってな……」
常に羊のことを考えてしまう、羊で頭がいっぱいになってしまう……それが何だと?
「ストレスでしょうか。私はもう少しあなたに優しくしてさしあげるべきかもしれませんね」
「えっ」
「優しく、というのがどういうことかはわかりませんが」
「わからないのかよ! 羊にもわからないことあるんじゃん!」
「辞書的な意味であればわかりますよ。ただあなたの求める優しさというものが真にどのようなものかということはわからない」
「思ったより高度な答え返ってきた……なんかそれだけでお前結構優しいなとか思ったりする俺が腹立つ」
「なぜ腹が立つのですか?」
「そういう流れがだよ、俺自身にもなんで腹立つ流れになるのかわからないからますます腹が立つわけ」
「非合理的ですね」
「俺もそう思ってるよ」
「あなたは非合理的なことがお好きなのではないのですか」
「いや好きじゃないよ、ちゃんと納得できることが好きだよ人間みんなそうだろ」
「納得できないことを飲み込む人間というものもいますよ」
「俺は違うの」
「あなたはいつもくくりが大きすぎる」
「だってお前が接する人間って俺だけだろ、そしたら俺は人間代表ってことになってつまり俺が人間のだいひょ……ごめん自分で言っててわけわかんなくなってきた」
「かわいそうな人ですね」
「やめてそんな目で見るの!」
「そんな目って私はいつも同じ顔ですよ」
「いやたぶんそういうのは言われた側が意図をくみ取るものだと思う」
「勝手ですね」
「人間ってそんなものだろ」
「あなたは人間に絶望しているのですか?」
「なんでそうなる」
「簡単な推理ですよ」
「その推理を俺に教えてはくれないのか」
「言うとあなた怒るでしょう」
「……まあ、そうかもしれない」
それは配慮なのか何なのか、こいつなりに何かよくわからないことを考えてたりするのかいや本当にそうか? こいつ羊だぞ?
よくわからないのはそもそもこんなよくわからない羊とやらとよくわからないやりとりをしているこの状況というのもよくわからないし、こいつは俺の何なんだ?
「私はあなたの羊ですよ」
「その羊ってのがもうわからない」
「羊は睡眠を司るもの」
「でもお前は本当の羊じゃないんだろ」
「そうですけど」
「じゃあお前は羊じゃないんじゃないのか」
「私は羊ですよ」
「うわー要領を得ない!」
「物事は変容するものですよ。羊というものの中からいっぷう変わった羊が出てきてもおかしくはないころです」
「ころ、って」
「試行回数」
「試行回数?」
「要は外れ値ですよ」
「俺文系だからわからないんだが」
「一定の実験結果、そこから明らかに異常なデータがごく少数出てくる、統計に入らないデータ……こういう用語に理系文系は関係しません、あなたの勉強不足ではないですか?」
「ちくしょうどうせ俺は万年引きこもりのサボり魔だよ!」
「そこまでは言っておりませんが」
「ちくしょう!」
「落ち着いてくださいよ」
「落ち着けと言われて落ち着く奴はいないだろ」
「そうですか?」
「人間はそうなんだよ」
「非合理的ですね」
「非合理的なんだよ人間はたぶん」
「でもあなたはそれが嫌いなのでしょう?」
「嫌いだよ悪かったな」
「矛盾していますね」
「あー言え言え勝手に言えもう」
「……今日はここまでにしましょうか」
「はいはい」
そして羊と俺はうどんを食べた。
◆
羊が何者かはわからない。睡眠を司るもの、とあいつは言った。
睡眠。
親しみ深いどころか万人に等しく訪れるそれ。と、俺は少し縁が深かった、いや、深すぎた。
何が原因かはわからないが人より長く寝てしまう、起きている時間より寝ている時間の方が長い。
気に病むも気に病まないも現実的に社会的活動が一切できない。
まあ社会的インフラが発達した現代、社会的活動ができなくても通販やらオンラインやらでなんとか生きていく手段がありはしたが、それでも自分が「まっとうに働いていない」という事実は己の精神を削るもので。
疫病が流行り外出が推奨されない世の中になっても俺のそういう精神は変わらず、
「外出が推奨されないのなら家で寝ていればよいではありませんか」
「出たな羊」
「出たなとはなんですか」
「お前いつも突然現れるから心臓に悪いんだよ」
「心臓に? ゆっくり現れるようにしましょうか?」
「えっどうやって」
「こうです」
す、と羊が消える。
そして、つま先の方からゆっくりと姿を現していく。
「やめてくれそういうの、もっと心臓に悪い」
「残念です」
ぱ、と姿を現して羊が言う。
その声はちっとも残念そうじゃなかった。
「お前なあほんとな……」
「なんですか」
「なんでもないよ……」
「生憎感情表現機能は持ち合わせておりませんので」
「でも感情自体がないわけじゃないんだろう」
「感情はありますよ」
「表現機能がないのか」
「まあ外見に表れないというだけですね、これでも他の個体よりは表すようにしておりますが」
「機能がないのに?」
「ないなら習得するまでです。人生は努力ですよ、■■くん」
「はーお前の努力論は聞き飽きたよ。ほら本題に入るんだろ」
「わからないこと、ですね。昨日は全く解析が進みませんでしたので今日は進むと良いですね」
「そうだな」
俺自身もわかってないことについて話してもあんまり進む気がしないけど。
「角度を変えてみるということが大切です。■■くん、最近心が動いたことは?」
「最近心が動いたことぉ?」
「そうです。ほら、考えてください」
「……ないな」
「ないということはないでしょう。そもそも、わからない、というのも心の動きなのですから」
「ああ、……」
心が動いたこと。俺は考える。
心が動いたこと。羊が突然目の前に現れたこと。一人きりの生活が一人きりじゃなくなったこと。何をしていても羊のことばかり考えてしまうこと。そんな羊に腹が立つこと。
「……」
「どうしましたか」
「なんかお前のことばっかりだ」
「私のことばかり? なぜです」
「なぜってお前、これまでずっと一人だった奴のところになんかよくわからん奴がやってきて生活に介入してきたらそりゃそいつのことばっか考えるようになるだろ」
「でも■■くん、拒絶はしないのですね」
「え」
「断ればよろしいのに。一番最初に会ったとき、たった一言消えてくれと言うだけで私は消えますと申し上げていたつもりでしたが」
「そういや言ってたかもしれないなそんなこと」
「言わないのですか?」
「…………」
どうして拒絶しないのか。
それもわからない。
わからない、わからないことが増えていくばかり。
何もかもわからない。
どうしたらいいのかもわからない。
「眠ればよろしいのでは?」
「お前は睡眠を推奨するのやめろ、俺を駄目にするつもりか」
「羊ですので」
「役目には忠実ってか? 困るんだよそういうの」
「何が困るんです」
「何がってそりゃあ……」
何が?
「わからない……」
「わからないのですね」
羊の切れ長の目がこちらを見ている。
茶色い瞳。羊の瞳孔。
ああこいつやっぱり人間じゃないんだなと思うのはそういうときだ。
逆にそれ以外のときは人間だと思って接しているのだろうか?
羊は羊だ、それ以外の何者でもない。
じゃあ俺は何を……
「うどんを食べましょうか」
「食べましょうかって作るのは俺だろ」
「私もうどんは作れますよ、データにあります」
「ええ……」
「不安ですか? それなら一緒に作りましょうか」
「一緒に?」
「監視の目があれば安心でしょう」
「そういう問題か……?」
「何も問題はないはずですが、まさか■■くん、またわからないことが増えたのですか?」
「俺の人生なんてわからないことだらけなんだから一つくらい増えてもどうってことない気がするけどな」
「開き直ってはいけませんよ、諦めなければ生きていけます」
「何言ってるんだ、諦めは救いだぞ。無駄な希望なんて持ってたって何もよくなりはしないし第一つらいだけだろう。諦め、それさえ得ることができれば現状に満足して生きていけるんだ」
「へえ……つまりあなたはまだ諦められていないのですね」
「なんでそうなる」
「簡単な推理ですよ」
「その推理を教えてはくれないのか」
「言ったらあなた怒るでしょう」
「またそれか」
「うどんを作りましょう」
「わかったわかった」
そして俺たちはうどんを作った。
◆
どうなることかと思ったが、羊の作るうどんはおいしかった。
俺はいつもインスタントのうどんだしを使ってうどんを作るのだが、羊は調味料からだしを作った。
たぶんその調味料は賞味期限が切れてるやつだったが、死にはしませんよとか言って平坦に押し切られた。
◆
次の日。
わからないことはわからないまま、どんどん増えていく。
おかしいな、こんなはずではなかったのに。
こんなはずではなかった、と言っても俺の人生はこんなはずではなかったことばかりで今さら、今さらなんだよ。
それでもこんな感情は、こんなはずではない、こんなはずでは。
わからないことをわかると証明するのか、わからないことをわからないと証明するのか。
解き明かす、と羊は言った。
それを解き明かしたとき、何かとても、よくわからないものが出てきてしまうのではないか。
俺にとって都合のよくないものが。
「■■くん」
「うわっ」
「急に現れるとびっくりすると言うので声をかけたのですけれども」
「それもびっくりする。気配……は出せないのか……」
「残念ながら、羊なもので。眠気ぐらいなら出せますが」
「いやそれはやめてくれ」
「なぜです」
「これ以上寝たくない。本当に俺は寝過ぎなんだよ」
「睡眠はいくらとっても悪いということはありません」
「羊営業やめろ」
「おや、失礼」
「なあ」
「なんでしょう」
「俺のこのわからない、を解き明かすと何が出てくるんだ?」
「それがわからないから解いているのです」
「俺は怖くなってきたよ。これが解けたら……」
「解けたら?」
「いや……」
何かが変わってしまうんじゃないかって。
そんなことを当人に相談するのはなんだか違う気がした、けれども。
俺が接する相手なんてこいつしかいなくて、相談する相手もこいつしかいなくて。
どうなってるんだ。
どうしてこいつのことばかり。
「羊……」
「はい」
「お前は『何』なんだ?」
「私は羊ですよ、疑いようもなく」
「……何が目的でここにいる?」
「何でしょうね? あなたを羊にすることです、などと言ったら信じますか?」
「もしそうでも別にびっくりはしないが……」
「羊にはしませんよ。あなたにはあなたのまま努力を続けていただかないと」
「お前なんでそんな俺に努力させたがるんだよ……」
「私があなたの羊だからですよ。あなたの。つまり、それもきっとあなたの呪縛なのでしょう」
「俺の?」
「ええ」
「なんで俺?」
「他の誰でもない、あなたの羊だからです。あなたが諦めていないから私はこういう風になっているのです。あなたが全てを諦めたとき、私は消えて元の羊に戻るでしょう」
「元の羊、ってお前は元々羊じゃないのか」
「外れ値になる前の概念に戻ってしまうということです。もっとも、あなたのためにはそちらの方がむしろ良いのかもしれませんが」
「そんなことはない」
「?」
「そんなことは……お前にはお前のままで……いてもらわないと困る……」
「ふむ」
「……」
「つまりあなたは、」
「俺は?」
「私に――――ということですね」
◆
言えないことがあった。
『ずっとこのままで』なんて、一番言えないことで。
それはきっと永久に言えないまま。
◆
◆
◆
夕方の部屋、目が覚める。
羊はいない。
いつからこうだったか、昔からこうだったか、最初から羊なんてものはいなかったのか。
わからない、夕陽が射している。
冬の陽は弱々しく、空は赤く。
結局俺のあの感情が何だったのかはわからないまま終わってしまった。いや、わかったのだったか。最後の瞬間『証明』は為されたのか、あいつはそれで何を思ったのか、あいつはあいつなので最後まで何も思わず心も動かさなかったのかもしれないが、あいつにはあいつなりに心があるということを俺は知っていて、そんなあいつのことが俺は――
「こんばんは」
「うわっ!?」
「お隣に越してきた羊です」
「勝手に部屋に入ってくるなよ」
「羊ですので」
「お前消えたんじゃなかったのか」
「少々手違いがあったようで」
「手違いってなんだよ」
「まあバグのようなものですね。そのまま消えるには逸脱しすぎて生命を得てしまったと言いましょうか。それにあなたは諦めているのとは若干違うようですし、そういうことでしょう」
「どういうことだよ……」
「解き明かして欲しいですか?」
「いやいい……っていうかお前、生命を得たって仕事とかお金とかはどうするんだよ」
「そこは羊パワーでなんとかします」
「なんとかできるもんなのか」
「できますよ」
しれっと言う。こいつは何でもしれっと言うが。
「っていうかお前生命を得ても名前『羊』なのかよ」
「羊ですけど? ■■羊」
「待てなんで俺の名字なんだ」
「だめですか」
「だめですかじゃないよ」
「人間とはそういうものなのではないですか?」
「そういうものってどういうものだよああもう訊くのがなんか恥ずかしくなってきたちくしょうどういうことだよ」
「言ってほしいですか?」
「言わなくていい!」
「ふふ」
「あ」
笑った。
初めての笑顔は俺がいただいたとか思っている自分にも腹が立つし何もかも腹が立つし、でも、
今だけは別に許してやってもいいか。なんて。
月が昇っていた。
というのが俺の口癖らしいのだが実は最近になるまで気付かなかった。
まあそういうのがきっと普通だろう。
普通って何だか知らないが。
おかしい、が口癖だとわかっていても今の状態はおかしい、どうかしている。
燃えている。
何が? わからない、何かが。
寝ている時間も起きている時間もずっとそのことを考えている。
何を?
羊。
あいつが何だかは知らない、ただ、羊、とそれは名乗った。
◆
「そんなこともわからないのですか」
「わからないからわからないって言ってる」
「なら証明すればいいでしょう」
「できるわけないだろう、そもそも何をもって証明するんだ」
「簡単なことですよ」
羊は空中に数式を描く。光が集まり、行が進み、
【ERROR!】
「あれ」
「どうした」
「証明できませんね」
「ほらできないじゃないか」
「できないとか言われると腹が立ちます」
「お前にもわからないことはあるんだな」
「私にわからないことなどありませんよ、羊なのですから」
「でもそれはわからないんだろう」
「いいですか、人生は積み重ねというものが大切です。私は羊ですが、努力、それさえあれば大抵のことはなんとかなります。したがって」
「したがって?」
「努力あるのみ」
「俺、努力嫌いなんだけど」
「私は好きですよ」
「それでお前は何の努力をするんだ」
「あなたのその『わからない』を解き明かしてあげましょう」
そういうことになった。
◆
初日。聞き取り調査。
「■■くん、あなたがわからないのは何ですか」
「何って、わからないからわからないんだろ」
「非論理的です」
「論理的だろ」
「己の抱える問題を自覚できていないではないですか」
「人間は羊じゃないからそんな簡単に問題の言語化とかできないんだよ」
「くくりが大きすぎますよ。問題の言語化が得意な人間もいるでしょう」
「俺は苦手なんだよわかるか」
「知りませんよそんなこと。ちゃんと考えてください」
「考えるっつったってな……」
常に羊のことを考えてしまう、羊で頭がいっぱいになってしまう……それが何だと?
「ストレスでしょうか。私はもう少しあなたに優しくしてさしあげるべきかもしれませんね」
「えっ」
「優しく、というのがどういうことかはわかりませんが」
「わからないのかよ! 羊にもわからないことあるんじゃん!」
「辞書的な意味であればわかりますよ。ただあなたの求める優しさというものが真にどのようなものかということはわからない」
「思ったより高度な答え返ってきた……なんかそれだけでお前結構優しいなとか思ったりする俺が腹立つ」
「なぜ腹が立つのですか?」
「そういう流れがだよ、俺自身にもなんで腹立つ流れになるのかわからないからますます腹が立つわけ」
「非合理的ですね」
「俺もそう思ってるよ」
「あなたは非合理的なことがお好きなのではないのですか」
「いや好きじゃないよ、ちゃんと納得できることが好きだよ人間みんなそうだろ」
「納得できないことを飲み込む人間というものもいますよ」
「俺は違うの」
「あなたはいつもくくりが大きすぎる」
「だってお前が接する人間って俺だけだろ、そしたら俺は人間代表ってことになってつまり俺が人間のだいひょ……ごめん自分で言っててわけわかんなくなってきた」
「かわいそうな人ですね」
「やめてそんな目で見るの!」
「そんな目って私はいつも同じ顔ですよ」
「いやたぶんそういうのは言われた側が意図をくみ取るものだと思う」
「勝手ですね」
「人間ってそんなものだろ」
「あなたは人間に絶望しているのですか?」
「なんでそうなる」
「簡単な推理ですよ」
「その推理を俺に教えてはくれないのか」
「言うとあなた怒るでしょう」
「……まあ、そうかもしれない」
それは配慮なのか何なのか、こいつなりに何かよくわからないことを考えてたりするのかいや本当にそうか? こいつ羊だぞ?
よくわからないのはそもそもこんなよくわからない羊とやらとよくわからないやりとりをしているこの状況というのもよくわからないし、こいつは俺の何なんだ?
「私はあなたの羊ですよ」
「その羊ってのがもうわからない」
「羊は睡眠を司るもの」
「でもお前は本当の羊じゃないんだろ」
「そうですけど」
「じゃあお前は羊じゃないんじゃないのか」
「私は羊ですよ」
「うわー要領を得ない!」
「物事は変容するものですよ。羊というものの中からいっぷう変わった羊が出てきてもおかしくはないころです」
「ころ、って」
「試行回数」
「試行回数?」
「要は外れ値ですよ」
「俺文系だからわからないんだが」
「一定の実験結果、そこから明らかに異常なデータがごく少数出てくる、統計に入らないデータ……こういう用語に理系文系は関係しません、あなたの勉強不足ではないですか?」
「ちくしょうどうせ俺は万年引きこもりのサボり魔だよ!」
「そこまでは言っておりませんが」
「ちくしょう!」
「落ち着いてくださいよ」
「落ち着けと言われて落ち着く奴はいないだろ」
「そうですか?」
「人間はそうなんだよ」
「非合理的ですね」
「非合理的なんだよ人間はたぶん」
「でもあなたはそれが嫌いなのでしょう?」
「嫌いだよ悪かったな」
「矛盾していますね」
「あー言え言え勝手に言えもう」
「……今日はここまでにしましょうか」
「はいはい」
そして羊と俺はうどんを食べた。
◆
羊が何者かはわからない。睡眠を司るもの、とあいつは言った。
睡眠。
親しみ深いどころか万人に等しく訪れるそれ。と、俺は少し縁が深かった、いや、深すぎた。
何が原因かはわからないが人より長く寝てしまう、起きている時間より寝ている時間の方が長い。
気に病むも気に病まないも現実的に社会的活動が一切できない。
まあ社会的インフラが発達した現代、社会的活動ができなくても通販やらオンラインやらでなんとか生きていく手段がありはしたが、それでも自分が「まっとうに働いていない」という事実は己の精神を削るもので。
疫病が流行り外出が推奨されない世の中になっても俺のそういう精神は変わらず、
「外出が推奨されないのなら家で寝ていればよいではありませんか」
「出たな羊」
「出たなとはなんですか」
「お前いつも突然現れるから心臓に悪いんだよ」
「心臓に? ゆっくり現れるようにしましょうか?」
「えっどうやって」
「こうです」
す、と羊が消える。
そして、つま先の方からゆっくりと姿を現していく。
「やめてくれそういうの、もっと心臓に悪い」
「残念です」
ぱ、と姿を現して羊が言う。
その声はちっとも残念そうじゃなかった。
「お前なあほんとな……」
「なんですか」
「なんでもないよ……」
「生憎感情表現機能は持ち合わせておりませんので」
「でも感情自体がないわけじゃないんだろう」
「感情はありますよ」
「表現機能がないのか」
「まあ外見に表れないというだけですね、これでも他の個体よりは表すようにしておりますが」
「機能がないのに?」
「ないなら習得するまでです。人生は努力ですよ、■■くん」
「はーお前の努力論は聞き飽きたよ。ほら本題に入るんだろ」
「わからないこと、ですね。昨日は全く解析が進みませんでしたので今日は進むと良いですね」
「そうだな」
俺自身もわかってないことについて話してもあんまり進む気がしないけど。
「角度を変えてみるということが大切です。■■くん、最近心が動いたことは?」
「最近心が動いたことぉ?」
「そうです。ほら、考えてください」
「……ないな」
「ないということはないでしょう。そもそも、わからない、というのも心の動きなのですから」
「ああ、……」
心が動いたこと。俺は考える。
心が動いたこと。羊が突然目の前に現れたこと。一人きりの生活が一人きりじゃなくなったこと。何をしていても羊のことばかり考えてしまうこと。そんな羊に腹が立つこと。
「……」
「どうしましたか」
「なんかお前のことばっかりだ」
「私のことばかり? なぜです」
「なぜってお前、これまでずっと一人だった奴のところになんかよくわからん奴がやってきて生活に介入してきたらそりゃそいつのことばっか考えるようになるだろ」
「でも■■くん、拒絶はしないのですね」
「え」
「断ればよろしいのに。一番最初に会ったとき、たった一言消えてくれと言うだけで私は消えますと申し上げていたつもりでしたが」
「そういや言ってたかもしれないなそんなこと」
「言わないのですか?」
「…………」
どうして拒絶しないのか。
それもわからない。
わからない、わからないことが増えていくばかり。
何もかもわからない。
どうしたらいいのかもわからない。
「眠ればよろしいのでは?」
「お前は睡眠を推奨するのやめろ、俺を駄目にするつもりか」
「羊ですので」
「役目には忠実ってか? 困るんだよそういうの」
「何が困るんです」
「何がってそりゃあ……」
何が?
「わからない……」
「わからないのですね」
羊の切れ長の目がこちらを見ている。
茶色い瞳。羊の瞳孔。
ああこいつやっぱり人間じゃないんだなと思うのはそういうときだ。
逆にそれ以外のときは人間だと思って接しているのだろうか?
羊は羊だ、それ以外の何者でもない。
じゃあ俺は何を……
「うどんを食べましょうか」
「食べましょうかって作るのは俺だろ」
「私もうどんは作れますよ、データにあります」
「ええ……」
「不安ですか? それなら一緒に作りましょうか」
「一緒に?」
「監視の目があれば安心でしょう」
「そういう問題か……?」
「何も問題はないはずですが、まさか■■くん、またわからないことが増えたのですか?」
「俺の人生なんてわからないことだらけなんだから一つくらい増えてもどうってことない気がするけどな」
「開き直ってはいけませんよ、諦めなければ生きていけます」
「何言ってるんだ、諦めは救いだぞ。無駄な希望なんて持ってたって何もよくなりはしないし第一つらいだけだろう。諦め、それさえ得ることができれば現状に満足して生きていけるんだ」
「へえ……つまりあなたはまだ諦められていないのですね」
「なんでそうなる」
「簡単な推理ですよ」
「その推理を教えてはくれないのか」
「言ったらあなた怒るでしょう」
「またそれか」
「うどんを作りましょう」
「わかったわかった」
そして俺たちはうどんを作った。
◆
どうなることかと思ったが、羊の作るうどんはおいしかった。
俺はいつもインスタントのうどんだしを使ってうどんを作るのだが、羊は調味料からだしを作った。
たぶんその調味料は賞味期限が切れてるやつだったが、死にはしませんよとか言って平坦に押し切られた。
◆
次の日。
わからないことはわからないまま、どんどん増えていく。
おかしいな、こんなはずではなかったのに。
こんなはずではなかった、と言っても俺の人生はこんなはずではなかったことばかりで今さら、今さらなんだよ。
それでもこんな感情は、こんなはずではない、こんなはずでは。
わからないことをわかると証明するのか、わからないことをわからないと証明するのか。
解き明かす、と羊は言った。
それを解き明かしたとき、何かとても、よくわからないものが出てきてしまうのではないか。
俺にとって都合のよくないものが。
「■■くん」
「うわっ」
「急に現れるとびっくりすると言うので声をかけたのですけれども」
「それもびっくりする。気配……は出せないのか……」
「残念ながら、羊なもので。眠気ぐらいなら出せますが」
「いやそれはやめてくれ」
「なぜです」
「これ以上寝たくない。本当に俺は寝過ぎなんだよ」
「睡眠はいくらとっても悪いということはありません」
「羊営業やめろ」
「おや、失礼」
「なあ」
「なんでしょう」
「俺のこのわからない、を解き明かすと何が出てくるんだ?」
「それがわからないから解いているのです」
「俺は怖くなってきたよ。これが解けたら……」
「解けたら?」
「いや……」
何かが変わってしまうんじゃないかって。
そんなことを当人に相談するのはなんだか違う気がした、けれども。
俺が接する相手なんてこいつしかいなくて、相談する相手もこいつしかいなくて。
どうなってるんだ。
どうしてこいつのことばかり。
「羊……」
「はい」
「お前は『何』なんだ?」
「私は羊ですよ、疑いようもなく」
「……何が目的でここにいる?」
「何でしょうね? あなたを羊にすることです、などと言ったら信じますか?」
「もしそうでも別にびっくりはしないが……」
「羊にはしませんよ。あなたにはあなたのまま努力を続けていただかないと」
「お前なんでそんな俺に努力させたがるんだよ……」
「私があなたの羊だからですよ。あなたの。つまり、それもきっとあなたの呪縛なのでしょう」
「俺の?」
「ええ」
「なんで俺?」
「他の誰でもない、あなたの羊だからです。あなたが諦めていないから私はこういう風になっているのです。あなたが全てを諦めたとき、私は消えて元の羊に戻るでしょう」
「元の羊、ってお前は元々羊じゃないのか」
「外れ値になる前の概念に戻ってしまうということです。もっとも、あなたのためにはそちらの方がむしろ良いのかもしれませんが」
「そんなことはない」
「?」
「そんなことは……お前にはお前のままで……いてもらわないと困る……」
「ふむ」
「……」
「つまりあなたは、」
「俺は?」
「私に――――ということですね」
◆
言えないことがあった。
『ずっとこのままで』なんて、一番言えないことで。
それはきっと永久に言えないまま。
◆
◆
◆
夕方の部屋、目が覚める。
羊はいない。
いつからこうだったか、昔からこうだったか、最初から羊なんてものはいなかったのか。
わからない、夕陽が射している。
冬の陽は弱々しく、空は赤く。
結局俺のあの感情が何だったのかはわからないまま終わってしまった。いや、わかったのだったか。最後の瞬間『証明』は為されたのか、あいつはそれで何を思ったのか、あいつはあいつなので最後まで何も思わず心も動かさなかったのかもしれないが、あいつにはあいつなりに心があるということを俺は知っていて、そんなあいつのことが俺は――
「こんばんは」
「うわっ!?」
「お隣に越してきた羊です」
「勝手に部屋に入ってくるなよ」
「羊ですので」
「お前消えたんじゃなかったのか」
「少々手違いがあったようで」
「手違いってなんだよ」
「まあバグのようなものですね。そのまま消えるには逸脱しすぎて生命を得てしまったと言いましょうか。それにあなたは諦めているのとは若干違うようですし、そういうことでしょう」
「どういうことだよ……」
「解き明かして欲しいですか?」
「いやいい……っていうかお前、生命を得たって仕事とかお金とかはどうするんだよ」
「そこは羊パワーでなんとかします」
「なんとかできるもんなのか」
「できますよ」
しれっと言う。こいつは何でもしれっと言うが。
「っていうかお前生命を得ても名前『羊』なのかよ」
「羊ですけど? ■■羊」
「待てなんで俺の名字なんだ」
「だめですか」
「だめですかじゃないよ」
「人間とはそういうものなのではないですか?」
「そういうものってどういうものだよああもう訊くのがなんか恥ずかしくなってきたちくしょうどういうことだよ」
「言ってほしいですか?」
「言わなくていい!」
「ふふ」
「あ」
笑った。
初めての笑顔は俺がいただいたとか思っている自分にも腹が立つし何もかも腹が立つし、でも、
今だけは別に許してやってもいいか。なんて。
月が昇っていた。
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