即興小説まとめ(全37作品)

 かの人を思うだけで、底冷えのするような感覚に襲われる。
 心臓が大きな音をたて、体中の血の気が引いてゆくような。背筋がぞくりと震えるような。そんな思い出、だった。
 写真は極力捨ててしまった。けれども、時々見つけてしまう。しまいこんだ衣類の隙間。放ってあった本の間。どうしてそんなところに、と自分でも首をかしげるような場所で、彼女は見つかる。
 妻というにはあまりにも希薄な関係だった。周りからは妻だとか嫁だとか言われていたけれど、肝心の彼女の方には全くその気がないようだった。
 写真をそのまま捨てるとゴミ袋から透けてしまうので、新聞に挟んで捨てる。新聞はかさばるので、近頃ゴミ袋の消費が激しい。
 ずっと視界に入れていたいと思っていた時期もあった。一時期はそうしていた。時間が経つにつれ、彼女を見るたびに苦しくなるようになった。
 彼女はよくわからない人だった。心に暗い何かを隠してなんでもないようにふるまう人だった。俺はそれをわかった気になって、しかし、それを誰にも言わなかった。
 彼女を妻と嫁と呼ぶ人はたくさんいた。探せばいくらでもいるのではないかと思うほど。
 彼女はしかし、その誰に向かっても振り向くことはなかった。その誰をも知る事はなかった。彼女はただ、虚構の中で生きて死んだ。
 彼女がいなくなったのはその世界だけだ。いなくなっても、存在は残り続ける。生きているのか死んでいるのかわからないような状態で、彼女はあちこちを流布され続ける。笑顔。泣き顔。怒った顔。無数の彼女が量産され続ける。耐え難いことだ。
 彼女を見るたび、血の気が引く。見ないように、思い出さないように毎日を過ごす。
 いつになれば開放されるのか、俺にはわからない。終わる事を願って思い出さないように日々生きているだけだ。
 淡々と。次は。


  (おわり)
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