短編小説

 カーテンの隙間から薄明かりが差している。
 ぼんやりした頭の中で、遠い記憶が回り出す。
 遠い記憶は遠くて、はっきりと思い出すことはできない。
 ただぼんやりと、恐ろしかったこと、それだけがはっきりしている。
 何を言われたかは覚えていない。ただ、何かは言われていた。夢の中ではない、現実で、毎日。
 記憶は靄のようで、それなのに俺を責めてくる。
 何だかわからないものなら無色、無関係でいてくればいいのに、そうもいかないなんて理不尽だと思う。
 とげとげしたものだったような気がする。毎日針で刺されているような。他責と自責で気が狂いそうだった。のかどうかはわからないが、よく正気でいられたと思う。幻想を見ていたから耐えられたのかもしれない。
 幻想の国はもうない。ぼんやりとした靄が残るだけ。夢見る歳ではなくなった。許されなくなった。のだろうか。
 とにかく、夢の国にアクセスしようとしても俺にはもうできなくなった。捉えようとしても散り散りになってしまう。何一つまとまらないのだ。
 いつからそうなったのかはわからない。ずっと前かもしれないし、そもそも夢を見ていたつもりで本当は見ていなかった可能性もある。よくわからない。たぶん、夢は見ていた、はずなのだが。
 ぼんやりと、夢の記憶はまだある。空を飛ぶ夢、冒険する夢、幻獣と遊ぶ夢、そんな夢の数々が、遠くの方に薄ぼんやりと、浮いている。
 入ろうとすると拒まれる。空間がずれているかのようで、俺とその記憶が重なり合ってくれないのだ。
 どこかで聞いた人のように、俺もまた、空想を信じられなくなってしまったのかもしれない。
 どうせ毎日空想の中で生きているようなものなのに、それを信じていないなんてとんだ皮肉だ。神を信じぬ神父のようなもの。
 本当は信じたい。夢を信じていたあの頃のように、幻想の中で、何も心配することなく過ごしたい。だけどできない。幻想が幻想だとわかってしまったから。
 ぼうっとしながら道を歩くことが危険なのと同じように、幻想を見ながら生きることは危険だ。落とし穴はそこここに空いていて、気を抜かなくても落ちてしまう。そして這い上がれなくなる。そうなったのが俺だ。たぶん、気付くのが遅かった。
 きっと、俺みたいになった同類もたくさんいることだろう。でも俺にはそんな知り合いはいない。なぜって、そうなった奴らは皆落ちきってしまって、表舞台、ひどいと現世そのものからいなくなってしまうからだ。
 俺がいなくなる日も近いのかもしれない。いや、近いのだろう。この■■が■■したらすぐにでも、明日にでも、一瞬後にでも、見えない人になってしまう。
 裏側の人。
 裏側はかろうじてまだ幻想の中だ。しかしそれがリアルな暗闇となって迫ってくる日も近い。
 地獄から逃げることはできない。地獄は必ず側にあり、足を踏み外した俺たちが落ちてくるのを待っている。
 そうならないためにできることは、しかし、もうない。
 人間は■■がなければ何もできない。
 出かけることも。
 食べることも。
 暖まることも。
 ゼロになって落ちるのを待つだけ。
 今になって遠い記憶が回り出したのも、落ちる間際に見ている走馬燈にすぎないのかもしれない。
 そうやって落ちるまで走馬燈を見て、裏側の暗闇の地獄に着いたらどうなるのだろう。
 地獄に着いてもたぶん俺は死なない。生きている。
 それが今は一番怖いのだ。
 カーテンをしっかり閉め直し、ただ一つ残った幻想、眠りの中に入ろうと俺は布団を被った。


(おわり)
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