短編小説
ハサミを開閉させながら、僕は人々を見ていた。
通り過ぎる人、人、こちらを見る者はなく。
たった一匹で街を歩いた。
「運命」を回している。
川にいた頃は蟹だけで、魚を追ってみたり課題に苦しんでみたり、それら全てを馬鹿みたいに楽しんだ。
あの頃はよかった、などと言うつもりはない。
だけど、ラメでベタ塗りされたように輝く記憶は確かにそこできらめいて、一匹の街角に影を落とす。
僕たちは人間を選ばなければならない。絶望している人間。救いを求める人間を。
そんな人間たちに蟹は救いを与える。
そういう生物。そういう概念。そういう怪異。
ならば僕は?
皆と一緒に育ち、学び、一匹立ちして街に出て、立派な蟹として「運命」を選ぶ。
昔はそう思っていた。
だが現実はどうだ。僕は。蟹が人間を選べないなんて聞いたことがない。
川から出た蟹に戻ってきた者はいなかった。皆、人間を選んで、役目を果たしながら暮らしているのだと。
そう思っていた。
ところがどうだ。
僕は一匹で、こんなところで。
選べない蟹。僕以外にもいるかもしれない彼等は、川から出て、その後いったいどうなったのだろう。
人を選べなかった蟹がどうなるかなんて考えもしなかった。
無邪気に未来を信じていた。
いや、正確には、暗い懸念を押し込めていた。
運命が見つからなかったらどうしよう。
その不安は心の水面下で、僕の奥深くで、言語化せぬまま暗く暗くわだかまっていた。
見ないようにして、感じないようにして、未来は絶対明るいからと信じて、絶対に大丈夫だと言い聞かせて、馬鹿みたいに騒いで、街に出て——
昔から、言葉にできぬ違和感があった。
蟹であること。蟹という存在。自分の身体。意識。ハサミ。足。腹甲。頭から爪の先まで、ぴったりくるということがなかった。
常にこの世からずれているような感覚。歩いていても、黙っていても、喋っていても、笑っていても、何か、わからないけれど何かが、1ドットほどずれているような違和感があった。
周囲に馴染めなかったわけでも能力が劣っていたわけでもない。蟹は人間ではないから、そんなことは起こりえない。
ただ少し、違う感じ。違和感。言語化できないそれが常に、僕の足を、気付かないくらいの力で、引っ張っていた。
そのことが原因なのか、それともたまたま運が悪かっただけなのか、僕は今日も街角で立ち尽くしている。誰にも見られず、会わず、運命を見つけられないまま。
理不尽ではない。誰のせいでもない。強いて言うなら僕のせい。
不幸でもない。ただの現実。確かにここにある僕一匹の現実。
それはのっぺりと平坦で、昔習った「海」に起こるという凪のような状態だった。
蟹は蟹だ。
概念の存在。
病気にはならない。一匹である限り、死ぬことも消滅することもない。そういう存在。
そう教わった。
運命が見つからないことを現実としながら、心のどこかで見つかるはずと思っている。起こるかどうかすらわからない夢を見て、形を持たぬ理想を信じている。そうでなければ生きられないから。そうでなければ――してしまうから。
いや。
蟹は蟹だ。病むことも狂うこともない。
何を考えていても、感じていても、そこにあるのは徹頭徹尾、冷たく静かで平坦な「正気」。
だから続けることができる。
先の見えぬ行為も。
人間とは違って。
今日も街角に立つ。
誰にも見られず、会わず、一匹。
(おわり)
通り過ぎる人、人、こちらを見る者はなく。
たった一匹で街を歩いた。
「運命」を回している。
川にいた頃は蟹だけで、魚を追ってみたり課題に苦しんでみたり、それら全てを馬鹿みたいに楽しんだ。
あの頃はよかった、などと言うつもりはない。
だけど、ラメでベタ塗りされたように輝く記憶は確かにそこできらめいて、一匹の街角に影を落とす。
僕たちは人間を選ばなければならない。絶望している人間。救いを求める人間を。
そんな人間たちに蟹は救いを与える。
そういう生物。そういう概念。そういう怪異。
ならば僕は?
皆と一緒に育ち、学び、一匹立ちして街に出て、立派な蟹として「運命」を選ぶ。
昔はそう思っていた。
だが現実はどうだ。僕は。蟹が人間を選べないなんて聞いたことがない。
川から出た蟹に戻ってきた者はいなかった。皆、人間を選んで、役目を果たしながら暮らしているのだと。
そう思っていた。
ところがどうだ。
僕は一匹で、こんなところで。
選べない蟹。僕以外にもいるかもしれない彼等は、川から出て、その後いったいどうなったのだろう。
人を選べなかった蟹がどうなるかなんて考えもしなかった。
無邪気に未来を信じていた。
いや、正確には、暗い懸念を押し込めていた。
運命が見つからなかったらどうしよう。
その不安は心の水面下で、僕の奥深くで、言語化せぬまま暗く暗くわだかまっていた。
見ないようにして、感じないようにして、未来は絶対明るいからと信じて、絶対に大丈夫だと言い聞かせて、馬鹿みたいに騒いで、街に出て——
昔から、言葉にできぬ違和感があった。
蟹であること。蟹という存在。自分の身体。意識。ハサミ。足。腹甲。頭から爪の先まで、ぴったりくるということがなかった。
常にこの世からずれているような感覚。歩いていても、黙っていても、喋っていても、笑っていても、何か、わからないけれど何かが、1ドットほどずれているような違和感があった。
周囲に馴染めなかったわけでも能力が劣っていたわけでもない。蟹は人間ではないから、そんなことは起こりえない。
ただ少し、違う感じ。違和感。言語化できないそれが常に、僕の足を、気付かないくらいの力で、引っ張っていた。
そのことが原因なのか、それともたまたま運が悪かっただけなのか、僕は今日も街角で立ち尽くしている。誰にも見られず、会わず、運命を見つけられないまま。
理不尽ではない。誰のせいでもない。強いて言うなら僕のせい。
不幸でもない。ただの現実。確かにここにある僕一匹の現実。
それはのっぺりと平坦で、昔習った「海」に起こるという凪のような状態だった。
蟹は蟹だ。
概念の存在。
病気にはならない。一匹である限り、死ぬことも消滅することもない。そういう存在。
そう教わった。
運命が見つからないことを現実としながら、心のどこかで見つかるはずと思っている。起こるかどうかすらわからない夢を見て、形を持たぬ理想を信じている。そうでなければ生きられないから。そうでなければ――してしまうから。
いや。
蟹は蟹だ。病むことも狂うこともない。
何を考えていても、感じていても、そこにあるのは徹頭徹尾、冷たく静かで平坦な「正気」。
だから続けることができる。
先の見えぬ行為も。
人間とは違って。
今日も街角に立つ。
誰にも見られず、会わず、一匹。
(おわり)
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