短編小説
「──たい」
そう言うと、面倒をかけるのはやめろと言われた。
だから私は駅に行って、通り過ぎる電車を見ていた。
面倒をかけるなと言われたので、決定的なことはせずに見るだけ。一度入ってしまったら戻れない。入った駅と同じ駅で出ようとすると改札で引っかかることは経験上知っていた。
終電が終わる前に、どこか他の駅に行って、出て、入って、ここに戻ってこなければいけない。
そう思うだけでやることが多すぎて、だったら──しまった方が楽なようにも思われた。
だが、それをすると面倒をかけることになる。だからできない。
誰にも面倒をかけずに──することはできないのだろうか。たぶん、できない。そんな仕組みはどこにもない。
虚無が続く。絶望でも苦しみでもつらさでもない、無。何もない。何も感じない。ただただ、無。
絶望を感じることと虚無を感じることとどちらがつらいのだろうか。
虚無を感じるということはつらさも何もないということなのだから、つらいという概念も存在しないのだろうか。
わからない。
つらくはない。ただ、虚無のままで生きることはひたすら億劫だ。
こんな状態になっても私は億劫なことをしたくない。
何か希望が、この際絶望でもいいから、何か戻ってきてくれたらと思って、億劫さを我慢しながら生活を続けたがいつまでたっても何もない。
楽しくもない。悲しくもない。つらくもない。億劫。胸の中に広がる灰色の砂漠。
灰色の砂漠でも旅ができればまだよかった。
想像力を働かせる余地すらない。入り込めない、見ることもできない、感じることしかできない砂漠。
いや、そんなことはどうでもいい。砂漠なんて表現をしてしまったからこうして弁解する羽目になるのだ。砂漠なんてない。灰色だ。灰色。ただ灰色。灰色があるだけ。
何もない。呪詛もない。浸食もない。泥も私の中を素通りするだけ。
どうしたらいいのかわからないなんて思いも消え失せた。
ここで時間を止めて、ずっと同じ場所で、何もせず、動かず、食事せず、呼吸もせず、停滞していたい。存在を消すことはできないから、せめて何もしないでいたかった。
だけどできない。
「面倒をかけるのはやめろ」
それが、私に刺さる最後の言葉。
生きても面倒。──でも面倒。
何をしても私は面倒をかけることしかできない。だがそれが何だというのだ?
もういいじゃないか。生きて、生きて、一生停滞すればいいじゃないか。
家に帰りたかった。別の駅なんかには行きたくなかった。同じ改札から出て、家に帰って、布団の中で寝たかった。そしてそのまま目を覚まさずにずっとずっと眠り続けたかった。
だが泥は私に起きていて欲しいらしい。
別の駅には行きたくない。
でも電車が来たので私は乗った。
暗闇。電灯。森。街。山。
降りて、階段も下って、改札を出て。
暗闇。
こんなところをどこかに向かって歩いたら、きっと危ない目に遭うだろう。
それは嫌だった。
存在し続けるためには苦痛はなるべく避けて生きたい。こんな空虚になってしまっても、苦しむことだけは嫌だった。
どこかでまだ希望が戻ることを信じていたからかもしれない。
実体のない希望を。
私は口角を上げた。
そんなもの、あるはずがないのにな。
気持ちが平坦に戻る。目を閉じて、開ける。
灰色。無だ。
暗闇は暗闇。暖かくも冷たくもない。そこに意味を求めることは無駄だ。ただの暗闇なのだから。
暗闇が私を守ってくれることはない。長い経験からそれはわかっていた。
暗闇という環境は私を脅かすものを呼ぶ。だから昼間の方がまだましなのだ。
こんなところからは早く離れて、家に帰ろう。
私は回れ右をして、改札をくぐった。
古い電灯の明かりが目を刺す。
駅のベンチに座り、黙って線路を見た。
虫の声。秋だ。大気はまだ暑い。湿気が不快だった。
こうやって外に出ていると色々なことを考える。考えたって無駄なのに、色々なことを考える。不快だ。
いくら考えたって何にもならない。暗闇の危険性とか、電灯が眩しいとか、電車がまだ来ないとか、無為なことを考えるだけで、前に進む手がかりも無から抜け出す手がかりもそういうことに繋がることは何一つ考えない。これまで散々考えて無駄だったし、どうにもならなかった。
そもそも考える気力がない。自発的に考える力は失われ、外から与えられる刺激に反応して何か思うだけ。
もういい。疲れた。投げ出したい。そう思ってもそうすることはできない。だから何も終わらない。それもわかっている。
電灯がじじじと鳴っている。
遠くから騒音が聞こえてきた。夜を裂くライト。
電車だ。うるさい。
ドアが開く。
私は乗った。
暗闇。山。街。森。電灯。
元の駅で私は降りる。
改札を出ると、暗闇。
何事もなく家に帰って、泥の怒鳴り声を無視して私は布団に入った。
灰色。
(おわり)
そう言うと、面倒をかけるのはやめろと言われた。
だから私は駅に行って、通り過ぎる電車を見ていた。
面倒をかけるなと言われたので、決定的なことはせずに見るだけ。一度入ってしまったら戻れない。入った駅と同じ駅で出ようとすると改札で引っかかることは経験上知っていた。
終電が終わる前に、どこか他の駅に行って、出て、入って、ここに戻ってこなければいけない。
そう思うだけでやることが多すぎて、だったら──しまった方が楽なようにも思われた。
だが、それをすると面倒をかけることになる。だからできない。
誰にも面倒をかけずに──することはできないのだろうか。たぶん、できない。そんな仕組みはどこにもない。
虚無が続く。絶望でも苦しみでもつらさでもない、無。何もない。何も感じない。ただただ、無。
絶望を感じることと虚無を感じることとどちらがつらいのだろうか。
虚無を感じるということはつらさも何もないということなのだから、つらいという概念も存在しないのだろうか。
わからない。
つらくはない。ただ、虚無のままで生きることはひたすら億劫だ。
こんな状態になっても私は億劫なことをしたくない。
何か希望が、この際絶望でもいいから、何か戻ってきてくれたらと思って、億劫さを我慢しながら生活を続けたがいつまでたっても何もない。
楽しくもない。悲しくもない。つらくもない。億劫。胸の中に広がる灰色の砂漠。
灰色の砂漠でも旅ができればまだよかった。
想像力を働かせる余地すらない。入り込めない、見ることもできない、感じることしかできない砂漠。
いや、そんなことはどうでもいい。砂漠なんて表現をしてしまったからこうして弁解する羽目になるのだ。砂漠なんてない。灰色だ。灰色。ただ灰色。灰色があるだけ。
何もない。呪詛もない。浸食もない。泥も私の中を素通りするだけ。
どうしたらいいのかわからないなんて思いも消え失せた。
ここで時間を止めて、ずっと同じ場所で、何もせず、動かず、食事せず、呼吸もせず、停滞していたい。存在を消すことはできないから、せめて何もしないでいたかった。
だけどできない。
「面倒をかけるのはやめろ」
それが、私に刺さる最後の言葉。
生きても面倒。──でも面倒。
何をしても私は面倒をかけることしかできない。だがそれが何だというのだ?
もういいじゃないか。生きて、生きて、一生停滞すればいいじゃないか。
家に帰りたかった。別の駅なんかには行きたくなかった。同じ改札から出て、家に帰って、布団の中で寝たかった。そしてそのまま目を覚まさずにずっとずっと眠り続けたかった。
だが泥は私に起きていて欲しいらしい。
別の駅には行きたくない。
でも電車が来たので私は乗った。
暗闇。電灯。森。街。山。
降りて、階段も下って、改札を出て。
暗闇。
こんなところをどこかに向かって歩いたら、きっと危ない目に遭うだろう。
それは嫌だった。
存在し続けるためには苦痛はなるべく避けて生きたい。こんな空虚になってしまっても、苦しむことだけは嫌だった。
どこかでまだ希望が戻ることを信じていたからかもしれない。
実体のない希望を。
私は口角を上げた。
そんなもの、あるはずがないのにな。
気持ちが平坦に戻る。目を閉じて、開ける。
灰色。無だ。
暗闇は暗闇。暖かくも冷たくもない。そこに意味を求めることは無駄だ。ただの暗闇なのだから。
暗闇が私を守ってくれることはない。長い経験からそれはわかっていた。
暗闇という環境は私を脅かすものを呼ぶ。だから昼間の方がまだましなのだ。
こんなところからは早く離れて、家に帰ろう。
私は回れ右をして、改札をくぐった。
古い電灯の明かりが目を刺す。
駅のベンチに座り、黙って線路を見た。
虫の声。秋だ。大気はまだ暑い。湿気が不快だった。
こうやって外に出ていると色々なことを考える。考えたって無駄なのに、色々なことを考える。不快だ。
いくら考えたって何にもならない。暗闇の危険性とか、電灯が眩しいとか、電車がまだ来ないとか、無為なことを考えるだけで、前に進む手がかりも無から抜け出す手がかりもそういうことに繋がることは何一つ考えない。これまで散々考えて無駄だったし、どうにもならなかった。
そもそも考える気力がない。自発的に考える力は失われ、外から与えられる刺激に反応して何か思うだけ。
もういい。疲れた。投げ出したい。そう思ってもそうすることはできない。だから何も終わらない。それもわかっている。
電灯がじじじと鳴っている。
遠くから騒音が聞こえてきた。夜を裂くライト。
電車だ。うるさい。
ドアが開く。
私は乗った。
暗闇。山。街。森。電灯。
元の駅で私は降りる。
改札を出ると、暗闇。
何事もなく家に帰って、泥の怒鳴り声を無視して私は布団に入った。
灰色。
(おわり)
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