短編小説
「蟹だ……」
呟いた幼馴染みの顔を見て気付いた、ああこいつはもう戻ってくることはない。次の瞬間、そう思った自分をぶん殴る。ここまでずっと一緒に生きてきたのに、ほんの一瞬取り憑かれたような顔を見せただけで諦めるなんてあんまりじゃないか。
「おい」
声をかける。幼馴染みは気付かない。
「おいってば!」
揺さぶると、夢から覚めたみたいにこちらを見た。
「大丈夫か」
「蟹が……」
「蟹が、どうした」
本当はわかっている。こいつは蟹に魅入られた。わかっているけど、それでも声をかけないと、
「蟹がいるんだよ……」
「ああ、いるな」
「紅くて、きらきらしていて、見たか? あの蟹……世界の全てを映したような……」
「なあ」
「何?」
「お前はさ、世界を見ているのか」
「な……知るかよ、そんなこと」
「蟹は……蟹はお前の何も叶えてはくれない」
「そんなことわからないだろ! だってあの蟹は、俺は蟹と、蟹と一緒に生きれば、心配事も何も見えなくなって」
「でも俺はまだお前と一緒にいたいんだ。一緒に学食行ったり、帰ったり、休みの日にゲームしたり、そんな日常を失いたくない」
「……」
「なあ」
幼馴染みは答えない。わかっている。一人の人間が他の人間にしてやれることなんかたかがしれている。しかも、まだ親の保護下にある者が同じ保護下にある者に対してしてやれることなぞ。
「……」
再び蟹の方を向こうとする幼馴染みの肩をつかむ。
「なあ、俺はさ、お前に何もしてやれないけど、でも……違うな、俺は、蟹なんかにお前を渡したくないんだ」
「え?」
そのとき初めて幼馴染みは俺と目を合わせた。
「なんで?」
「それは……」
「理由がないじゃん」
「大事な友達だから、じゃダメか」
「友達?」
「友達だろう。俺はお前と一緒にいたいよ」
「……はは」
笑う幼馴染み。視界の端で蟹が薄れてゆく。
「はは、なんだよそれ。おっかしい」
目が、戻っている。
蟹に魅入られた人間は蟹と一対となり、別世界を生きる者となる。都市伝説の類だが、こいつは確かにそうなりかけた。
しかし、
「まあいいよ。一緒にいてほしいっつうんならいてやる、俺は優しいからな」
「……助かる」
たぶん、まだ、大丈夫だろうこいつは。
いつか蟹に取られるとしても、今は独占していたい。その気持ちが俺にとって、こいつにとって、いいのか悪いのかもわからないが、そう、ただのエゴ。
「変な気分だぜ」
「そうだろうな」
「腹減った」
「たこ焼きでどうだ」
「いいね、行こ行こ」
先に立って歩き始める幼馴染み。俺は蟹のいた路地裏をちらりと見て、何味にする~? という幼馴染みの声で前を向き、ポン酢かな、と答えながら小走りで追い付いた。
(おわり)
呟いた幼馴染みの顔を見て気付いた、ああこいつはもう戻ってくることはない。次の瞬間、そう思った自分をぶん殴る。ここまでずっと一緒に生きてきたのに、ほんの一瞬取り憑かれたような顔を見せただけで諦めるなんてあんまりじゃないか。
「おい」
声をかける。幼馴染みは気付かない。
「おいってば!」
揺さぶると、夢から覚めたみたいにこちらを見た。
「大丈夫か」
「蟹が……」
「蟹が、どうした」
本当はわかっている。こいつは蟹に魅入られた。わかっているけど、それでも声をかけないと、
「蟹がいるんだよ……」
「ああ、いるな」
「紅くて、きらきらしていて、見たか? あの蟹……世界の全てを映したような……」
「なあ」
「何?」
「お前はさ、世界を見ているのか」
「な……知るかよ、そんなこと」
「蟹は……蟹はお前の何も叶えてはくれない」
「そんなことわからないだろ! だってあの蟹は、俺は蟹と、蟹と一緒に生きれば、心配事も何も見えなくなって」
「でも俺はまだお前と一緒にいたいんだ。一緒に学食行ったり、帰ったり、休みの日にゲームしたり、そんな日常を失いたくない」
「……」
「なあ」
幼馴染みは答えない。わかっている。一人の人間が他の人間にしてやれることなんかたかがしれている。しかも、まだ親の保護下にある者が同じ保護下にある者に対してしてやれることなぞ。
「……」
再び蟹の方を向こうとする幼馴染みの肩をつかむ。
「なあ、俺はさ、お前に何もしてやれないけど、でも……違うな、俺は、蟹なんかにお前を渡したくないんだ」
「え?」
そのとき初めて幼馴染みは俺と目を合わせた。
「なんで?」
「それは……」
「理由がないじゃん」
「大事な友達だから、じゃダメか」
「友達?」
「友達だろう。俺はお前と一緒にいたいよ」
「……はは」
笑う幼馴染み。視界の端で蟹が薄れてゆく。
「はは、なんだよそれ。おっかしい」
目が、戻っている。
蟹に魅入られた人間は蟹と一対となり、別世界を生きる者となる。都市伝説の類だが、こいつは確かにそうなりかけた。
しかし、
「まあいいよ。一緒にいてほしいっつうんならいてやる、俺は優しいからな」
「……助かる」
たぶん、まだ、大丈夫だろうこいつは。
いつか蟹に取られるとしても、今は独占していたい。その気持ちが俺にとって、こいつにとって、いいのか悪いのかもわからないが、そう、ただのエゴ。
「変な気分だぜ」
「そうだろうな」
「腹減った」
「たこ焼きでどうだ」
「いいね、行こ行こ」
先に立って歩き始める幼馴染み。俺は蟹のいた路地裏をちらりと見て、何味にする~? という幼馴染みの声で前を向き、ポン酢かな、と答えながら小走りで追い付いた。
(おわり)
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