短編小説

「好きです」
「ごめん」
「じゃあせめてキスしてください」
「え、無理」
「どうして無理なんですか?」
「いや常識的に考えて無理でしょ…何考えてるの」
「思い出として! 1回でいいですから」
「ちょっと……近付かないでよ」
 ずい、と踏み出した相手にまずいな、と思ったとき、
 しゃきん。
「うひゃあ」
 尻餅をつく相手の前髪がすっぱり切断されている。足元には……蟹。
「君、彼女は僕の大切な同僚なんだよ。そういう風に……というか、業務妨害とは思わないのかな? 明らかに仕事の途中だろう」
 そういう問題か、と思ったが、相手はなぜか妙に怯えており、蟹がもう一度ハサミを鳴らすと這うようにして逃げ出した。
「ごめんともすまんとも言わない、最近の若者には困ったものですね」
 蟹はしゃきしゃきとハサミを鳴らしている。
「あ、うん……まあ、そうだね……」
「大丈夫ですか?」
「なんとか」
「帰ってくれてもいいんですよ?」
「ううん、帰るとそのことばっかり考えちゃいそうだし戻って仕事する」
 そうか、と短く答えた蟹は、私が歩く速度に合わせてしゃかしゃかと横を歩き、会社に戻ってデスクに座るまで並走していた。
 私がPCを開けると蟹はいつもの定位置、机の下に収まる。
 ようこそ、の文字。起動にはしばらく時間がかかる。
「あの」
「なんでしょう」
「ありがとう」
「……」
 蟹はハサミを開閉させようとしたようだがやめて小さく振った。
「何でも相談してください、同僚なんだから」
「……うん」
 PCが立ち上がる。私は仕事に戻る。
 おやつの時間に蟹がどこから仕入れてきたのか差し出してきた故郷のお菓子とやらはもちもちしていて懐かしい味で、今日は家まで送りますよと言う蟹に送りたいならそうすれば? と返す。
 蟹はぴし、とハサミで敬礼し、お任せあれと言った。


(おわり)
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