即興小説まとめ(全37作品)

 塩壷をひっくり返した。端的に言うとそういうことだ。
 天気図には前線、空は曇天、俺はしゃがみこんでいた。右手にスプーン、もう片方の手は空いている。足元にはひっくり返った塩の壷があった。
 庭で見つけたナメクジに塩をかけるのが俺の趣味だ。まず塩で周りを囲い、出られなくした後に、上から塩をふりかける。そうすると、ナメクジはもだえながら縮んでゆく。粘液が染み出し、塩がしめって溶ける。俺は溶けた部分に塩を追加し、ナメクジを観察し続け、完全に動かなくなったらそのまま放置する。
 動かなくなったナメクジはしばらく庭に残り続けるが、雨が降った次の日にはだいたいなくなっている。
 ナメクジがなくなってからそのことを忘れかけたくらいの時期に、再びナメクジは現れる。俺は塩壷を取り出してきて塩をかける。
 そのようなサイクルが俺の生活の中にはあった。
 いつかはやってしまうと思ってはいた。左手に持った塩壷を落としかけたことが何度もあったからだ。なんとかしようと考えるも考えるだけで、俺は暮らしの中でナメクジのことを忘れてしまう。こんなわけで、今回塩壷をひっくり返した事件は起こるべくして起こったとも言える。
 ひっくり帰った塩壷を持ち上げると、塩の山ができた。この山の下に、今回のナメクジが埋まっている。赤いレンガにぽつんとできた白い小山は、まるでナメクジの墓標のようだった。俺が葬ってきたナメクジたちすべての墓標とするには、この山は小さすぎる。今回のナメクジ一匹の墓標とするには立派すぎる。そんな大きさだった。
 俺は塩壷にふたをした。そして、墓標に背を向ける。次の雨が来れば、この山もきっとなくなっているだろう。その日まで、俺の庭にはナメクジ数匹分の大きさしかない墓標が立ち続けるのだ。
家に入ってから、塩の在庫がもうないことに気付いた。俺は玄関に立つ。
 雨が降り出した。
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