即興小説まとめ(全37作品)

「身の程をわきまえなさいよね」
 彼女はよくそう言った。身の程という言葉の意味すらよくわからない俺には、彼女のそのセリフがただ壁のように思えた。
 帰り道、俺は彼女をよく見かけた。朝は時間帯が違うのか全くその姿を見ることはないのに、帰りは必ずと言っていいほどよく見かける。
 彼女を見かけたとき、俺は声をかけることもあればかけないこともあった。
 向こうが気づいているときには声をかけ、気づいていなさそうなときには黙っている。
 気づかれていないようで気づかれていたときは、後でしっかりと文句を言われる。
「気づかない振りとはやるじゃない。挨拶ぐらいしなさいよね」
 そう言われても、あまり踏み込みすぎると「身の程」の話になるのでなかなか俺だって気をつかっているのだ。
 その日も帰り道で彼女を見かけた。空はだんだん秋めいて、夕方は少し冷え込む。長袖の彼女は歩きながら薄曇りの空をぼんやりと眺めていた。
 俺は声をかけずに歩いた。
 歩道の反対側、彼女はまだ空を見上げている。
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