短編小説

 蟹。
 蟹に恋をしてしまった。

 出会いは山、仕事をサボって屋上で黄昏れていたら突然周りが山になり、その山に流れていた川で出会った。
 蟹は手のひらに収まるサイズで小さく、色はゆでてもいないのに見事な赤色で、大きな岩の上で小さなハサミを開閉させていて、そのハサミがぱち、と閉じた瞬間俺は恋に落ちていた。
 蟹、蟹のことしか考えられない。あの蟹でなくても、魚屋の蟹でも、コンビニに打っている蟹かまぼこでも、ありとあらゆる蟹の名がつくもの全てが目に入る度に俺の鼓動は高鳴った。
 蟹、俺は蟹を探した。仕事をしながら蟹かまぼこをかじり、お昼になったら食堂で蟹の色をした紅ショウガをご飯にかけ、蟹の色をしたマグカップにコンビニで買ったいちごオレを入れて飲む。
 家に帰っても蟹のこと、お風呂に入ってピンクの石けんを使いながら蟹のことを考え、赤い歯ブラシで歯を磨きながら蟹のことを考え、赤いチェックのパジャマを着ながら蟹のことを考え、蟹、蟹、蟹づくし。
 いっそ蟹を飼ってしまおうかと思ったが、日中ほとんど仕事で出ている俺に蟹の世話はできないだろうと思うし、家にいるわずかな時間しか一緒にいられないのなら下手に飼ってもつらくなるだけだと思ってやめにした。
 魚屋の蟹を見るだけならいいが生きた蟹など見てしまった日には鼓動が高鳴りすぎて心臓が破裂してしまうかもしれない。蟹は憧れ、蟹は夢。夢は現実になってはいけないのだ。
 蟹、蟹まみれ。
 そのはずだ。
 我に返るとそこまで蟹に染まっているわけでもない。ただ蟹の色をした物に執着しているだけ。ハサミを見ると胸が高鳴るだけ。魚屋に並べられている蟹にどうしようもなく鼓動を速めてしまうだけ。蟹かまぼこを見るとつい購入してしまうだけ。家の冷蔵庫が蟹かまぼこでいっぱいになりつつある、それだけ。
 蟹、蟹のことばかり。なのに俺は蟹について調べようとはしない。本を読むことはおろか、ネットで検索してみるわけでも、SNSで呟いてみるわけでも、日常会話に出してみるわけでもない。蟹のことばかり考えているのに。
 夢を現実に出してしまえば、それは夢ではなくなる。現実に出力してしまったら、蟹は蟹でなくなる。それはただの生物としてのカニであって、俺が山で会ったあの蟹ではない。蟹は蟹でいてもらわなくてはならない。そうでなければ困る。
 何に困るというのだろうか。
 わからない。
 俺は蟹に恋しているというわけではないのかもしれない。いや、恋はしているのだろうか。山で会ったあの蟹に。ずいぶん長い時間が経ったような気がする。なのに記憶は薄れない。赤い甲羅、小さい身体、輝くハサミ、思い浮かべるとそれらすべてが光を放っている。恋をしているのだ。
 もうずいぶんの間会っていない。始まりのあの日に会ってそれっきり。もう一度会いたい。でも、もう一度会うと何かが変わってしまうかもしれない。
 蟹。あの山にどうすれば再び行くことができるのだろうか。そもそも、あの山はいったい何だったのだろうか。
 ふらふらと屋上に出ていちごオレを飲んでいると、後輩がやってきて俺の隣に立った。いつも真面目でサボりなどという言葉とは無縁のような後輩が屋上に上がってくるとは珍しい。
 マグカップから口を離し、俺は後輩を見た。
「どうした、サボりか」
「いえ。ちょっと先輩の様子が気になりまして」
「へえ。それはそれは」
「先輩。大丈夫ですか? 最近何かこう、様子がおかしいような……」
「うん? 俺的にはいつもと変わらないけどな」
「そうですか?」
「そうだな……ちょっと好きな奴ができたとかそういうあれさ」
「えっ」
「恋しちゃったのさ」
「先輩……色恋などとは無縁だった先輩についに好きな人ができたとは! 俺、感激です」
「お前に感激されるいわれはないがな」
「それなら物思いに沈んでるとこを邪魔してはいけませんでしたね。俺は退散しますよ。何か相談等があればいつでもお申し付けくださいね。歓迎しますので」
 後輩は笑顔で手を振ると、そそくさと去って行った。
 あいつが笑っているところ、久々に見た気がする。近頃は業務に忙殺されて眉間にシワ寄せてばかりだったからな。
 久々の笑顔が蟹によるものだということ、幸福なんだか不幸なんだかわからないな。俺は蟹で笑顔になるのは幸せだけど、後輩は蟹で笑顔になりたいタイプなのだろうか。蟹を食べて笑顔になるのはまあ広く一般に行われている行為であるが、先輩が蟹に恋しているということを聞いて祝福の笑みを浮かべる、その行為が幸せだとは少し言い難いところがある。なぜって、おそらく後輩は誤解しているからさ。俺が好きなのは人間だとな。
 蟹なんだよ。
 俺が好きなのは。
 いや、好きなのだろうか。またその疑問に戻る。
 本当に好きなら、恋しているなら、なぜ具体的な行動をしないのだろうか。叶わない恋というのは美しいが、具体的な行動を起こさないのであれば、対象が消えるか、俺が飽きるまで終わりがないだろう。あの蟹が消えてしまうということは考えにくいので、終わるとしたら飽きたとき。飽きて終わってしまうのは悲しい。もし俺が蟹に飽きて恋が終わってしまったら、また以前と変わらぬ灰色の毎日に逆戻りではないか。そんなことになったら、俺は今度こそ生きていられるかどうか怪しくなる。
 あの山に行かなければいけない。絶対に。山に行って、蟹に告白して、叶うか振られるかしないとこの恋は終わらない。そうだ、山に行かなければ。山に、山、
 山。
 風が吹く。霧が出る。森の匂いがする。ひんやりとした空気。
 山だった。
 俺は山にいた。
 きっとここはあの山だ。妙な確信があった。
 川の流れる音。木々の奥に見えている。あの川を辿っていけば、会えるはず。
 俺は歩いた。歩いて歩いた。普段運動不足の俺だったが不思議と息は上がらず、足がだるくなったりもせず、平常状態のまま歩き続けた。
 そして、
 岩。
 の上に、
 蟹。
 小ぶりの身体、見事な赤色。身体に見合った大きさの輝くハサミ。
 やっと会えた。
 蟹。
「……」
 蟹は黙っている。俺は小さく息を吸い、
「なあ」
 と言った。
「俺はお前が好きなのだろうか」
 蟹は答えず、脚を小さく動かした。
「あの日から、俺の頭はお前のことでいっぱいだ。蟹、蟹、蟹づくし。CMに出られそうな勢いだ。それなのに、俺の想いは叶うことがない。蟹、蟹、蟹まみれなのにいざ生きた蟹を前にすると平常心ではいられないんだものな。これが恋なのかと思ってはみたが、この状態はあまりにもつらい」
 つらい? 俺はつらいと思っていたのだろうか。蟹に恋い焦がれる生活は恋い焦がれる前の灰色の生活よりはいいとか、恋い焦がれないようになったら生きる意味を失ってしまうとか、思っていたんじゃなかったか。
「蟹。俺はお前のことがわからないよ。調べるつもりもない。でも、俺はお前のことが気になって、お前のことばかり考えてしまうんだ。お前で頭がいっぱいなんだ。過去も未来もお前のことでいっぱいなんだ」
 蟹の甲羅が水を反射して光っている。
「蟹。俺は……お前のことが」
 好きだよ。嫌いだよ。
 どう言ったのかどうかは覚えていない。
 蟹がそのハサミを小さく開閉させたとき、俺の心から蟹は消え失せ俺は元の屋上に立っていた。
「先輩!」
 慌てた顔の後輩が俺を見上げている。
「どうしたんですか、最近ますます心ここにあらずではないですか」
「ああ……」
 手に持ったマグカップの中にはコーヒーが入っていて、マグカップの色は……青。
「何か悩みがあるのですか? 何かあるなら俺に相談してください。いつでもお話くらいはお聞きできますから」
「ああ、」
 俺の心から蟹は消えていた。きれいさっぱり跡形もなく。
「失恋したんだ」
「は」
「きれいさっぱりな」
「それは……」
 言いにくそうに、後輩。
「残念でしたね」
「ああ。でも何か、吹っ切れたような気もする」
「! そうですか。では今日はディナーをご一緒するなどはいかがでしょうか? お話、いくらでもお聞きしますよ」
「……そうだな」
 わからない。相変わらず蟹のことも自分のことさえもわからないし、灰色の毎日に戻るのが幸せとも不幸ともこれから俺が無事生き続けられるかどうかもわからないけれど。
 こいつに。蟹のことは話せないが、少々ぼかして好きな人風にした蟹の話くらいならしてもいいかもしれないと。
 そう思った。


(おわり)
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