短編小説

 心臓が破裂しそうなのが恋であればまだよかった。
 メールソフトを前にして、未読のメールを前にして、弾けそうに打つ心臓を押さえている。
 メールの中身はおそらくなんということもない。ただの事務的な返信、そのはずだ。しかし、心に潜んだ化け物が、あれは罵倒の言葉だと、お前を殺す言葉だと叫んで暴れまわるので、胸がぎゅうぎゅう痛くなる。
 苦しい。逃げ出したい。けれど仕事が終わらない。対応すべきメールがまだ何通も残っている。書きかけのメール。丁寧に書こうと思ったら冗長になりすぎて、どこを削ればよいのかわからずにっちもさっちもいかなくなったメール。ミスしたメール。添付ファイルの内容に間違いがあり謝罪と訂正をしなければならないメール。
 それだけではない。リスト、書類、文書に報告、仕事はまだまだ残っている。
 どれから手をつければよいのやら、皆目検討つかずにメールソフトをただ眺めている。苦しい胸を押さえて眺めている。
 一つクリックするだけ、その勇気が湧いてこない。並んでいるのは自分がCcしたメールの山。悩んでいる間にも次々メールが届いている。通知音が鳴る度、心臓が跳ねている。恋ならどんなによかったか。
 画面を睨む。ポップアップ。心の中の化け物がうるさい。あれらは皆罵倒の言葉。お前を謗る言葉。皆、お前のことを嫌っている。お前のメールで心証を悪くしたのだ。怒っているぞ。お前を許さない。お前が許されることはない。
 鼓動がどんどん速くなる。冷や汗が止まらない。吐き気がしてくる。体が震える。山。山。メールの山。罵倒の山。弾劾の山。私はここにふさわしくない。私はここにいてはいけない。消えてしまいたいのに消えられない。山になった仕事が残っている。
 山。
 風が吹いた。

 瞬き。いつの間にか私は立ち上がっていて、周囲の温度はやけに下がっていて、PCが壊れでもしたのか靄のようなものが辺りに立ち込めていた。
 これはいけないという気持ちと、PCが壊れたならしばらく仕事はしなくてもいいのだろうかという疑問が心の中でせめぎ合う。
 とりあえず椅子に座り直そうと辺りを探ると、何か乾いた手触りのものが手に触れた。かさりという音。細い。枝分かれしている。触るとゆさゆさと揺れる。
 私は目を細めた。そちらに近づく。靄が晴れる。それは、
 木だった。
「あれ?」
 辺りを見回す。木々の群れ。落ちかけた太陽が橙色の木漏れ日を地面に落としている。流れる川には大きな石がごろごろと転がっている。
 山。
 私は息を吐いた。
 日が暮れかけている。あれが落ちきるより前に下山するかどこか眠れそうな場所を見つけなければ、初夏とはいえ山の夜は冷える。凍えて死んでしまいかねない。
 かといって山にそう詳しいわけではないのでどこへ向かえばいいのかもわからず、なんとなく川に沿って歩き出した。
 舗装されているわけでもないのに、山は歩きやすかった。木の根に引っ掛かることもなく、岩に躓くこともなく、斜面を登って行く。
 登っては休憩し、登っては休憩し、途中岩に座ってうとうとしたりもして、かなり歩いた気がするのに太陽は沈まない。それどころか、さっきの位置から全く動いていないような気さえする。
 初夏だし日が長いのかもしれない。そう思って川の先を見ると、先は細くなっていて川はそこで尽きていた。
「……」
 困った。当てがなくなってしまった。しかしとりあえず尽きるところまで行ってみようと腰を上げて、歩いて、歩いて、辿り着いた。
 大きな岩たちがどすんとそびえ立っている。その岩の隙間から、水が沁み出していた。
 なるほど、源流ってやつか。
 私は感心してしばらく眺めていた。
 と、
「ねえ」
 呼び掛ける声。
 こんな山奥で、誰だろう。
 辺りを見回すも、人の気配はない。
「こっちだよこっち」
 声のする方を探す。
「あ、そこそこ」
 じっと見る。
「そう、僕」
 声が返る。
「ええと」
 褐色。小さい。脚。ハサミ。
「蟹?」
「蟹だよ。どうも」
「あ、どうも」
 私は頭を下げた。蟹も小さなハサミを開閉させる。
「遠路はるばるどうもね」
「ええと?」
「あれ、僕に会いに来たわけではない?」
「ではないですね」
「そうなんだ。じゃあどうしてここに?」
「仕事をしていて、気がついたらここに」
「ふうん。それなら選ばせてあげよう」
「何を?」
「仕事場に戻るか、ここで永遠に時を止めるか」
「永遠に時を止めるって死ぬってことですか?」
「直載だね。そうはならない。時を止めて永遠にその状態のまま静止するだけだよ」
「嫌なんですけど……」
「なら帰る?」
「それも嫌なんですけど……」
「わがままだね。これまでずっと逃げてきたとかよく言われなかった?」
「ええと」
 言われた。言われたが、こんなところまで来てよく知りもしない蟹にそんなことを言われる筋合いはない。
「ええと……」
「はあ。決心がつかないならしばらく滞在してくれてもいいけどさあ」
「はい……ええと、やっぱり帰……」
「君さあ。ほんとは帰りたくないのにそういうこと言うのよくないよ」
「はい……でも仕事がいっぱい溜まっていますし、食料も防寒着もない状態で山に留まるのは得策とは言えないかと」
「食料も防寒着もいらないんだよ。お腹が空かない、気温はちょっと涼しいくらいのがずっと続いて、仮に体温が下がりきっても死ぬことはない、そういう山だから」
「へえ……でも何もないと嫌なことを延々考え続けてしまってつらくなるのでやっぱり帰ります」
「まあまあ、しばらく留まっていきなよ。山は癒されるし、いいところだよ」
「はあ……」
 そういえば、帰り方もわからない。唯一それを知っていそうなのはこの蟹だけだ。
 私が帰ると言おうが帰らないと言おうが、それが実現するかは蟹次第なのだ。となれば、蟹の意向に従うより他はない。
「じゃあ、留まります」
「うんうん」
 蟹はハサミをカチカチと鳴らした。
「夜も近いみたいですし、私は寝ますね」
「おやすみ」
 横になって目を閉じる。地面の落ち葉が毛布のようで寝心地はいいが、目を瞑った途端に浮かんでくる後悔や自責はここでも私を逃してはくれなかった。
 仮に癒しの力が山にあろうが、私のこの記憶たちには勝てないということだろう。なるべく記憶に集中しないよう焦点をぼやかしながら、川のせせらぎで頭を埋めるようにしていたら、だんだん意識がぼんやりしてきた。
「はっ」
「はっ?」
「……まだ夕方ですか」
 すごくよく寝た気がするから、24時間寝てしまったのだろうか。
「また夜が来ますね」
「夜は来ないよ」
「どこにいても夜はやってくるものでしょう。私は……」
「この山はずうっと夕方なんだよ。二十四時間四六時中、夕方」
「へえ……」
 なんとも現実的でない。お腹が空かない、寒くても死ぬことはないということだから、現実ではないのだろうと薄々思ってはいたが。
 しかしこんなところにずっといたのでは時間感覚が狂ってしまう。
 狂う?
「時を止める気になった?」
「いえ」
「そっかあ、残念。もう寝たら?」
「ええと」
 確かに特にすることもないし、蟹の言う通り寝てもいいかもしれない。
「じゃあ」
 私は目を閉じた。途端に襲う後悔、自責。あの時こう言っていれば、ああ言っていれば、嫌われたかもしれない、そういえば放置したメールはどうなって、電話に出ないと怒られる、
「……」
 私は目を開けた。
 山、川。そして霧。
 私を責める記憶たちとはまるで違う、現世から隔絶されたかの光景。
「どうしたの?」
「眠れないんです」
「ははは、そりゃ困ったね」
 蟹が横歩きでこちらに近付いてくる。ちょん、と何かが頬に触れた気がした。


◆◆◆


「は」
「は?」
 いつの間にか、眠っていたらしい。
「まだ夕方ですか」
「ずっと夕方だってば。まあ、もうすぐ夜だけど」
「え?」
「世界が一つ終わったんだよ」
「へえ……」
「言っとくけど、もう君を責めるものは何もないからね」
「ええと……」
「また寝るといい。いつまででも時間はある。ここは永遠だからね。君も疲れているだろ?」
 確かに、少し疲れているかもしれない。
「眠っていれば何も感じない。全て忘れてお休みよ」
 確かに、頭がぼんやりとしていて、いつものようなつらさも後悔も自責も遠く、まるで止まっているかのようだ。
「……そうですね」
 目を閉じる。川のせせらぎが聞こえる。
 頬に何かが触れたような気がした。
「……表現が違うだけなんだけどね」
 眠りに落ちる寸前、蟹が何かを言ったような気がしたが、それもするすると意識から抜け、そして何もかも白くなった。


(おわり)
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