短編小説

 ぴしぴし、と何かが窓を叩く音。
 暗い部屋、窓の外、カーテンの向こうで何かが窓に当たっている。
 どうせ木の枝か何かが風で当たっているだけだとは思うが、気になって眠れない。
 起き上がって電気を点け、窓の側まで歩いて行き、カーテンに手をやった。そのまま開け放つ。
 音は止まった。
 そのまま窓を開け、周囲を確認してみる。
 俺の部屋は二階だ。下には狭い道路。一つしかない街灯が頼りなく灯っている。
 窓に当たって音を立てそうな木なんかは特になく、風も吹いていない。
 音は気のせいだったのだろうか。
 窓を閉め、鍵をかけ、カーテンを引く。
 ベッドに戻って目を閉じる。すると、
 ぴし。
 ぴしぴし。
 再開する音。
 何が当たっているのかはわからないが、迷惑なことこの上ない。
 もう一度確認しに行くのも面倒だったので、俺は枕元で充電していたMP3プレーヤーのイヤホンを取って耳にはめた。
 俺は音楽を聴きながら寝ると寝付きが悪くなるタイプだが、うるさい音でなかなか眠れないよりは好きな音楽を聴いてなかなか眠れない方が数倍ましだろう。
 ノイズキャンセリング機能をオンにし、最近ハマっているクリエイターの音楽をかける。疾走感のある電子ロック。窓の外の音は聞こえなくなった。
 その晩は、音楽を聴いているうちに眠りに落ちた。

 次の晩。コンビニで買った晩ご飯を食べてお風呂に入って新しい楽曲をチェックしていると、壁を叩く音がした。
 音楽はイヤホンで聴いているし、壁など叩かれる要素はないと思うのだが。
 無視していると、ドンドンとなおも叩く音。ひょっとしてこれは誰かが助けを求めているのでは? 心配になった俺は隣の人の様子を見るべく廊下に出た。
 そして気付いた。
 俺の部屋は角部屋だった。そういえば壁を叩く音は窓の方からしていた。
 どうしたものか。少し悩んだが、気のせいだったのかもしれないし、とりあえず部屋に戻ることにする。
 部屋に戻ってPCの前に座り直すと、またドンドンという音がした。
 ここは二階なんだがなあ。一体何が壁を叩いているというのだろうか。鳥でもぶつかっているのかな。
 俺は今度は外に出て、階段を降りて窓側から自室を確認してみることにした。
 狭い道路。頼りない街灯。
 小さな窓からは俺の部屋の灯りが漏れている。そういえば、カーテンを引き忘れていた。
 さて問題の壁部分だが、特に何も変わったところはない。鳥がぶつかっているなどということもない。
 深夜の住宅街は静まりかえっていて、俺一人しかここにいないようだった。
 ため息をつく。
「戻るか……」
 のろのろとアパートに戻って階段を上って部屋に入る。PCがついている。
 体力のない俺は階段の上り下りだけでどっと疲れてしまった。これ以上PCをする気にもなれない。夜も遅いし、今日はもう寝よう。
 歯磨きをしてベッドに入る。
 目を閉じてしばらくすると、ぴし、ぴしという音。
 俺はイヤホンを耳に入れ、音楽をかけて目を閉じた。
 次の日の晩。
 放置していたゲームに手をつけて、ダンジョンを潜っているとみしみし何かがきしむ音。改装してあるとはいえ結構古そうなアパートだし、きしんでいてもおかしくはない。
 でも、あまりいい音ではない。俺はゲーム機にイヤホンをさし、耳に入れた。
 それでもまだ音は聞こえる。集中できなくて「まほう」と「こうげき」を選択ミスしてしまった。
 イヤホンを外し、ゲーム機を置く。
 みしみし。
 これはアパートが原因なのか、部屋が原因なのか、それとも俺が原因なのか。
 ここには数年住んでいるし、最近までは何ともなかった。では俺が原因なのだろうか。
 明日、医者に行ってみるか。
 俺はMP3プレーヤーを持ってベッドに入った。
 次の日、昼頃起きて医者に電話した。初診の方は待ってもらうことになるかもしれませんと言われたが、予約自体は夕方に入れてもらった。
 カップ麺を作ってすすり、またベッドに入る。
 鳥の声。時々車や自転車の通る音。
 夜に聞こえるあの妙な音はちっとも感じない。
 昼間は普通なのか。
 俺はアラームをかけて目を閉じた。
 夢は見なかった。
 アラームが鳴るより前に目が覚めて、着替えて身支度をし、部屋を出た。
 駅まで歩いて電車に乗って、数十分揺られて医者のある駅に着く。
 初診は待つとのことだったので、昨日やっていたゲームを持ってきている。
 受付で保険証を出して、問診票を書いて、待った。
 医者に最近起こっていることを説明すると、うんうん頷いて薬を出された。何の薬かは知らない。
 部屋に帰る頃には日が暮れていた。帰る途中に買ったスパゲティを机に置き、貯蔵していたおやつを出す。
 食べている間は何の問題も起こらなかった。
 おやつについてはスパゲティでお腹がいっぱいになってしまって、また元のところにしまった。
 みしりと音がする。「始まった」のだ。
 俺は袋から薬を出して、飲んだ。
 音はやまない。みしりみしりと鳴り続ける。まあ、そうすぐに効くわけはないだろう。
 もう一種類もらっていた薬を飲むと、急に眠くなってきた。
 そういえば薬局で、寝付きをよくするお薬ですという説明を聞いたような気もする。今飲んだのはよくなかったな。だが眠い。意識が落ちてゆく。みしりみしりと鳴る音が遠ざかる。
 はっと目が覚めると昼だった。何かの鳥が鳴いている。
 部屋の中は静かで、俺の晩ご飯の後がそのまま残っている。
 片付けなければ。
 スパゲティの空を台所にあるゴミ袋につっこんで、お腹が空いていたので昨日しまったおやつを出してきて食べた。
 そして寝た。
 夜。ぴしぴしという音で目が覚める。電気は点けっぱなし。カーテンを引いていない窓の外は不自然に暗く、街灯の明かりさえ見えなかった。
 時刻を確認すると、19時。今は5月末。夕焼けの明かりくらいは残っていてもいいものだが、窓の外は真の闇だ。
 俺は窓際まで歩いて行って、覗き込んだ。
 暗い。
 何も見えない。
 ぴしぴしと音が鳴っている。
 はあ、とため息。夕食を買いに行かなければ。
 財布をポケットに突っ込み、つっかけを履いて外に出た。
 夕焼けの残りが廊下を照らしている。
 狭い道路まで出て自分の部屋を見てみると、何か黒い靄のようなものが周囲を取り囲んでいた。それらはうねうねと対流し、空中に留まっている。
 病状が進行している。早く薬を飲んだ方がよさそうだな。しかしお腹が空いているのでご飯は食べよう。
 俺は早歩きでコンビニに向かい、豚骨ラーメンとスポーツドリンクを買って部屋に戻った。
 電気を点けると、窓の外は相変わらずの闇だった。
 床が揺れている。
 手早くラーメンを食べ、薬を飲んだ。眠くなる薬は後で飲もうと思って机の上に置く。
 ぴしぴし、みしりみしり、と音が鳴る中、ゴミを片付けて風呂に入って歯を磨いた。
 その頃には何かオオオオという声のようなものが聞こえていた。早く寝なければ。机の上に置いてあった薬を水道水で流し込み、ベッドに入った。
 色々な音が鳴っていたが、薬は無事に俺を眠りの世界へと誘った。

 同じような日々が数週間続いた。音や声は収まるどころか日に日にひどくなっていったが、薬のおかげで夜は眠れていた。やはり医者には行ってみるものである。しかし病状がひどくなっているかもしれないのでそこは次行った時にでも相談してみよう。
 カーテンを引くと日が傾いていた。夕暮れ時になるとあれが始まるが、まだ大丈夫な時間だ。今のうちに夕食を買いに行っておくか、と、
 ぴんぽーん。
 チャイムが鳴った。こんな時間に誰だろう。俺には尋ねてくるような知り合いも友人もいないし、集金だろうか。
 この部屋についているチャイムは古いので、カメラなどという高級なものはない。ドアののぞき穴から確認するしかないのだ。しかし小さいのぞき穴を確認するのは面倒だったし、俺はそのままドアを開けた。
「ちっす」
「お、おう?」
 いきなり挨拶される。ドアの前に立っていたのは金髪にピアスをいくつもつけてギターを背負った青年だった。
「隣の部屋に越してきた神崎っす。引っ越しの挨拶に来ました」
「おお」
 この個人主義の社会になんという礼儀正しい若者だろうか。
「そりゃどうも」
 俺は青年に頭を下げる。
「どもっす。これ、つまらないものですが」
 青年が俺に差し出したのは、小さな透明のジッパー付きビニール袋だった。
「ありがとう。ええと……」
「塩っす」
「塩」
「俺のばあちゃんの実家が寺で、なんかお参り? した塩とか言ってすごいらしいっす。部屋にまくといいことあるかもっすよ」
「へえ。それはありがたいな」
「なるべくすぐまくといいっすよ」
「すぐね。わかった」
「じゃ、これからよろしくっす」
 青年が片手を差し出したので、俺は青年と握手した。
 しなやかな手だった。
 ドアを閉めて、部屋に戻る。日はますます傾き、空が茜色に染まり出す。
 ぴし。
 突然窓の外が真っ黒に染まる。
 みしり、と部屋が鳴る。
 黒い何かが部屋の隅から湧いてくる。
 来たな。さっさと夕食買ってきて食べて寝よう。
 財布を取ろうとして、手に何か持っていることに気付く。
 さっきもらった塩だ。
『すぐまくといいっすよ』
 青年の言葉が蘇る。
 節分みたいで楽しそうだし、まいてみるか。
 俺はジッパーを開けて塩を取りだし、投げた。
 ざっという音とともに部屋が明るくなる。
 部屋の隅から湧いてきていた何かがかき消されるように消えた。
 もういっちょ投げる。
 みしみしと鳴っていた床が静かになった。
 まだ塩は残っている。投げる。
 ぴしぴしという音が止まった。
 最後の塩を投げると、真っ暗だった窓の外が明るくなった。
「おお、すごい。すごい塩だ」
 俺は塩の入っていた袋をプラスチックごみの袋に捨てると、財布を持って外に出た。
 狭い道路から見た俺の部屋はしごく普通で、黒い靄の気配すらない。
 コンビニに行って、そうめんセットと緑茶を買った。
 部屋に戻って日が完全に暮れても、変な音はしない。それどころか、なんだか部屋がすっきりしたような気さえする。
 久々においしく夕食を食べ、ゆっくり風呂につかって寝た。
 朝起きてから、眠くなる薬を飲み忘れたことに気付いた。
 その日から、変な音は止み、黒い何かを見ることもなくなり、俺の病状は嘘のように治まった。
 念のためということで薬はまだもらっているが、眠くなる薬は処方されなくなった。
 時々隣の部屋の青年が夕食に誘ってきたりしてお邪魔する。青年は料理がうまく、肉じゃがやらハンバーグやら手料理を食べさせてくれた。
 今度青年が出るというライブにも招待されている。
 よくわからぬうちに友人ができたということになるのだろうか。
 本当によくわからないが、夜よく眠れるようになったのはいいことだ。
 たまにもらうすごい塩を、俺は時々部屋にまいている。


(おわり)
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