短編小説

 一度動いてしまうと元には戻らない動きがある。不可逆な動き。
 私はそれに執着している。
 鳩を追いかける子供をじっと見るのは、飛び立つ瞬間が見たいから。
 公園で猫に餌をやる人の向かいのベンチに座るのは、猫が餌を食べる様子が見たいから。
 フェリーに乗ったとき、カモメにスナック菓子を与えている人の横に立って海を見るふりをするのも、カモメが餌をさらう様子が見たいから。
 日常の隙間で、そういうことをして過ごしている。

 春。暖かかったり寒かったりする日が続く。
 テレビでは桜の開花を伝える声。
 毎年桜の時期は些末な物事に忙殺されて、見ようと思ったときには葉桜になってしまっている。
 今年こそは桜を見ておきたいなと思って散歩がてらカフェに出かけることにした。
 玄関を出たらさっそくフェンスにヒヨドリがとまっていたので観察する。じっと見つめていたら飛び立った。上下に揺れる特有の飛び方。これを見られただけでも散歩に出た価値はある。
 だがまだ玄関を出たところだ。目的は桜を見ること。
「よし」
 私は気を新たにして道に出た。
 空はほどよく曇っており、陽光に照らされた雲が山の向こうにグラデーションを作っている。
 住宅街の中をぶらぶらと歩く。家々の庭に名前のよくわからない木がぽつぽつ植わっている。
 鳥はいないかと目をこらしてみたが、ウグイスの声が聞こえるばかりで姿は見えなかった。
 曲がり角を曲がろうとして、コンクリートの隙間からスミレの仲間が花を咲かせているのを見つける。少し立ち止まってじっと見た。
 特に専門的な知識があるわけでもないので、きれいだなと思う程度だ。
 スミレは風にゆるく揺れているだけで特に動きもなかったので私はすぐに歩き出した。
 住宅街から出て車通りの多い道路を渡ると、また住宅街に入る。
 前から車が来たので溝の側に寄る。流れている水の中に、見覚えのあるハート型の花びら。
 私は辺りを見回した。そして見つけた。
 さっき通り過ぎた家の庭に一本、桜が植わっている。
 私は桜のところまで歩いて戻った。見上げると二分咲きといったところで、満開にはまだ遠そうだ。
 ゆるい風が桜の花びらを揺らしている。
 はらり、と一枚散った。
 そこで思いつく。
 このままここで桜を見ていたら、散る瞬間が観察できるんじゃないか?
「よし」
 私は姿勢を整えて桜の下で立ち止まった。
 ウグイスが鳴いている。
 散歩をする人が数人、車が二、三台脇を通った。
 日が差してきた。
 桜の花はまだ散らない。
 あまりにも動きがないのでだんだん頭が暇になってきた。
 カフェで何を頼もうか。コーヒーは絶対頼むとして、ケーキかホットケーキ……ワッフルでもいい。今日は暖かいからアイスクリームもいいな。でもアイスはケーキにもついてくるからやっぱりケーキだろうか。でもあの店のケーキあんまりおいしくないんだよな。
 ふむ、とあごに手を当てたその目の前を、桜の花びらが通り過ぎていった。
 私は目を上げる。
 はらり、ともう一枚。
 散ったのだ。
 じわじわと熱いものがこみ上げてくる。今、目の前で桜が散ったのだ。散った桜は二度と戻ることはない。不可逆な動き。今しか見られない貴重な瞬間。
「やった……」
 小さくガッツポーズをする。
 もう一度桜を見上げてから、私は歩き出した。
 今日はパフェにしよう。桜祝いだ。豪勢にいこう。

 カフェの前まで行って今日が定休日だったことに気付いた私は、駅前の別のカフェであんみつを食べて帰った。
 まだ寒いし、あんみつでも季節外れじゃないと思う。
「よしよし」
 今年の桜はまだまだ続いている。


(おわり)
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