短編小説

 私は電車が好きだ。
 といっても、電車そのものが好きなわけではない。電車に乗るということ、そして、電車に想いを馳せることが好きなのだ。
 電車には色々な人が乗っている。通勤ラッシュ時はスーツの人たち、昼間はラフな服を着た学生やよそ行きを着たお年寄り、外勤らしきサラリーマン。
 そういう人たちを観察するのが好きな人もいるが、私はそうではない。
 電車に乗っているときは、視界に映る人々をあ、いるなあと思いながらなるべく気に留めないようにしている。
 乗っているときは電車の音と振動、移り変わる外の景色だけを感じていたい。他の乗客の存在ははっきり言ってノイズなのだ。
 それだから、比較的乗客の少ない平日の昼間に電車に乗るのが私は好きだ。
 流れる景色を見ながら、私は電車に想いを馳せる。
 今この時間、多くの会社員は会社で仕事をしている。ひっきりなしにかかってくる電話の音、オフィスにいる人たちの喋り声にチカチカ光るディスプレイ、途切れぬ締め切りの山。
 そういうことを想起するたび、電車に想いを馳せる。
 心が浮き上がるような感覚。まるで空を飛んでいるような。
 そうして、想起してしまった記憶を飛び去る地面に沈めて、また窓の外を眺める。
 遠くに見える薄く靄がかかったような山や近くを飛び去る雑多な看板、大小様々なビル群。
 電車はいい。
 電車に乗っていると、この世に何も怖いことなどないような気になれる。
 この親愛なる機械が私をどこまでも連れて行ってくれるから、嫌な物事は後ろに置いていけばいいのだ。
 目的地に着くまでの間、私は目を瞑ったり開けたりして電車に想いを馳せる。

 降りる駅に到着してドアが開き、ホームに降りた瞬間、現実が私に追いついてくる。
 雑踏、速すぎる人の流れ、ごみごみした街の臭い、薄汚れたホーム。
 私はため息をついて、のろのろと改札に向かい、出る。
 用事を済ましている間中、暗い気分が抜けない。早く電車に乗りたい。私は電車に想いを馳せる。
 電車のこと。
 窓からの景色。
 飛び去る過去。
 帰り道、疲れはいよいよ頂点に達し、重い足で階段を一歩ずつ昇る。エスカレーターがない駅なのにホームが上に作られているので、電車に乗るには階段を昇るしかないのだ。
 やっとの思いでホームに辿り着き、目の前で入ってくる電車を待ち、ドアが開いて、乗る。
 帰りの電車はラッシュの時間で会社員がすし詰めだった。
 ぎゅうぎゅうと押し込められて、ドアが閉まる。
 窓の外を見ようとするが、人で遮られて全く見えない。
 整髪料の入り混ざった臭いがする。
 他人のスーツ越しに人の身体の温度を感じる。
 それでも電車に想いを馳せようとするが、気が散ってしまって形にならない。
 集中しようと目を閉じてみたが、頼る視界がなくなって電車の揺れに対応できなくなりそうだったのでやめた。
 ドアが開く。降りる駅はまだだ。
 ドアが開く。人がまた入ってくる。
 ドアが開く。
 ドアが開く。
 何度目かに開いたドアから私は必死の思いで転がり出た。
 降りる駅。
 人のいないホーム。
 春先、山に近いこの駅の夜は冷えており、力不足のLEDが闇を照らそうと頼りなく灯っている。
 私はため息をついた。
 それは白く煙って宙に溶ける。
 階段を上がって、改札を抜ける。星を見るには明るすぎ、周囲を見るには暗すぎる夜が私を取り巻いた。
 バスの時間までは遠い。家まで歩いて帰ることを選択した私は、電車に想いを馳せる。
 町を抜け出て、あのビルの高さを越えて、坂を越えて、山も越えて、雲も越えてあの星の向こうに辿り着けたなら。
 そんなことを考える。
 車一台通らない。
 雲と星との間の距離は天文学的な大きさだ。それでも視界に入るときは近く見えるものだから、想像はすぐ星を越えてしまう。
 ここは寒い。宇宙もきっと寒いだろう。
 電車に想いを馳せる。
 電車は遠い。それでも想いを馳せているときだけ、電車はそこにあり、行き着く先の宇宙だって暖かいような気になるのだ。
 憂鬱は遠くに、恐怖は遠くに、反省は遠くに、後悔は遠くに。
 電車はそれを叶えてくれる。
 そこで家に着いたので、思考をぱたんと閉じて私はドアの鍵を開けた。
 電車の夢は見なかった。


(おわり)
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