短編小説
僕がどんな相手もやさしいと感じるようになったのは、半年前からだった。
それまでは、自分のような人間がやさしくされるわけがない、自分はやさしくされるに値しない人間だと思っていた。
それがあの夏の日、ぎらぎら光る太陽を眺めて、ふと視界が反転したと思ったら、何もかもをやさしく感じるようになっていた。
夏の太陽もやさしい、セミの声もやさしい、じりじり肌に感じる暑さもみんなやさしい。
僕みたいな者に何かを感じさせている全てがやさしい。それはそうだ、僕に働きかけるということは、欠陥品に働きかけるということで、全くの無駄どころかその人にとっては損になりかねない。
それをわざわざ働きかけてくれるのだ、やさしいと表現するのが一番いいだろう。
そんなわけで、嫌いな野菜もやさしいし、コンビニの前でやさぐれて僕の嫌いなタバコの煙をもくもくさせているおじさん達もやさしいし、独り暮らしの僕の家に突然やってきて書類を探すついでに色々な物を処分して帰っていく親もやさしいのだ。
やさしい。やさしい。どうして世の中はこんなにやさしい。
道を歩いていると、電柱の陰から僕をじっと見ている男性に会った。
僕はにっこり笑って会釈した。
男性は無表情で僕を見詰め続けている。
「どうしましたか?」
「道に迷って家に帰れなくてな」
「それは困りましたね。おうちはどこですか?」
「それがわからん」
「それは困りましたね」
「お前に着いていってもいいだろ?」
「えっ、僕なんかに着いてきたら、おじさんが汚れてしまいますよ」
「え?」
「僕は欠陥品です。人の気持ちがわからない。今この瞬間のおじさんの気持ちだってわからない。嫌いになられるかも、不快に思われるかもってずっと考えている。でも、嫌いになられたり不快になられたとしても、その人はきっと僕にやさしいんだと思います。だって、僕なんかについて何かを思ってくださるなんて、それは天使の所業ですから」
「ハッ」
おじさんは鼻で笑った。
「天使なんているわけないだろ」
「いたら素敵じゃないですか。僕とこんなに話してくれるおじさんはやさしいから、天使だと思ってますよ」
「天使? 俺が?」
片眉を上げるおじさん。
「天使です。やさしい。おじさんはとってもやさしい。どうしてそんなにやさしくしてくれるんですか?」
「いや……まあ……さあ。やっぱりお前に着いてくのはやめとく」
「そう、ですか」
僕は少しだけ残念な気持ちになった。でも、それすらやさしい。僕に関係する選択肢について考えてくれて、判断してくれた。そのことがもうやさしいからだ。
「やっぱりおじさんはやさしいですね」
「はあ。まあな」
それから道を通るたび、電柱の陰におじさんを見るようになった。
「こんにちは」
「よう。元気そうだな」
「おじさんはいつも通り、顔色悪いですね」
「失礼だなお前」
「はっはっは。ありがとうございます」
「まったくお前と話してると調子が狂うぜ」
「天使だ……」
「ハーン、会話が成立していない!」
おじさんは肩をすくめた。
「これから講義か、頑張れよ」
「あ、ありがとうございます!」
涙がにじむ。おじさんは本当にやさしい。
僕はおじさんに手を振ると、大学に向かった。
大学ではみんなやさしかった。僕みたいな奴を見ないように目を逸らしてくれる、自衛してくれてるんだ。とてもやさしい。
心ぽかぽかした気持ちで、帰路についた。
「よう」
「おじさん」
「ひでえ面だな」
「え?」
「俺より顔色悪いんじゃねえか?」
「そうかな……」
「気付いてないのか。お前って本当に気の毒な奴だな」
「そんなことを言ってくれるのはおじさんくらいですよ。僕なんかを心配してくれるなんて、おじさんはやっぱり天使ですね」
「ちげーよ馬鹿」
次の日も、そのまた次の日も、おじさんに挨拶をして僕は大学に向かった。
土日は眠かったので家から出ずに寝ていた。
月曜日。起きたらお昼を過ぎていた。スマホには何のメッセージも来ていない。
やさしいな。みんな僕のことを放っておいてくれるんだから。
僕は布団に潜り込んだ。
火曜日。水曜日。何の理由もないのに、なんとなく僕は起きられなくて、外に出なかった。
そして木曜日。
ノックの音で目が覚めた。
コンコン、コンコン。
「どうぞ」
「相手くらい確認しろよ、馬鹿」
「おじさん? どうして。いいですよ、入ってきてください」
身を起こそうとしたが身体が重く、布団に入ったままおじさんを招く。
「じゃ、お邪魔するぜ」
音もなく、おじさんは部屋に入ってきた。
どことなく、空気が冷えるような感覚。春とはいえ、三寒四温。外気が入って冷えたんだろうな。それもやさしい、と僕は思う。
「よう」
おじさんが僕を覗き込む。冷気がいっそう強くなった。
「どうも」
布団にくるまりながら僕は応える。
「大丈夫か、お前?」
「何がですか?」
「顔色悪いぜ。何日も食べてないんじゃねえか?」
「あ」
はっと気付く。そういえば、ここ数日何も食べていない。
「馬鹿。ほら食え」
枕元にゼリータイプの携帯食料があった。
「え、これは」
「そこの棚にあった。お前のだろ? すぐそこに食料があるのに食べないなんてどうかしてるぜ。ほら食え」
「うーん。ありがとうございます」
あまり気が進まなかったが、やさしさを無下にするのはもっと嫌だったので僕は横になったままゼリーを飲んだ。
「うまいか?」
「やさしい味ですね」
「はは。そりゃよかった」
おじさんは笑って、そして黙った。
僕もゼリーを黙々と飲んだ。
ほとんど飲み切った頃、
「なあ」
とおじさんが言った。
「お前、今幸せか?」
「え?」
「つらくないのかって訊いてんだ」
「つらいわけないじゃないですか。だって世界はこんなやさしいのに、僕がつらくなる理由がありません」
「はあ」
おじさんはため息をついた。
「やっぱりお前は馬鹿だよ」
それから僕はしばらくごろごろして暮らし、おじさんと何てことのない話をしたり、保存してあった食料を食べたりして過ごした。おじさんはずっと僕についていてくれた。
一週間経って、おじさんと一緒に買い物に出た。途中、おじさんがいつも立っていた電柱の側を通ったが、そこは暗く、なんだかすごく冷えていた。
「うわー、やっぱこうなってるよな。お前、寒くないか?」
「いえ? 仮に寒くても、それだってやさしいですからね」
「はああ。そうかあ」
色々と買い込んで、部屋に戻ってカレーを作った。
おじさんの分をお皿によそおうとしたら、俺は食べないからと言って断られた。
「そうですか、やさしいですね」
「馬鹿。俺はな、えーと……特別な身体。そう、特別な身体をしていて、食べなくても生きてけるんだよ。だがえーと……代償。そう、その代償に普通の食料は受け付けねえんだ」
「そうなんですか、それは」
「同情するなよ。結構便利なんだ、これ」
「そうなんですか。それはよかったです」
きっと話しにくいことだろうに、僕なんかに教えてくれるというのはやはりやさしい。
僕は自分の分のお皿を持ってこたつに座った。
「こたつはまだまだ必要ですね。冷えますし。いやあこたつはやさしい……」
カレーを口に入れる。
「おいしい!」
おじさんは笑っていた。
次の日、僕は大学に行った。なぜかおじさんも一緒に着いてきた。
僕から目を逸らすみんなを見て、おじさんはしきりに文句を言っていた。
みんなやさしいのに、おじさんはどうして怒っているのかな。でも、僕なんかのために怒ってくれるなんて、おじさんはやっぱりやさしいな。
休日を挟んで、僕は休まず大学に行った。おじさんも一緒に。
おじさんが一緒にいても、誰も何も言ってこなかった。みんなやさしいということだろう。僕は一人で納得した。
やさしい日々は平穏に過ぎていき、僕は幸せに講義を受けたり実習に行ったりレポートを書いたりした。
そして、ある夏の夜。
ベランダに出てアイスを食べていると、横で手すりにもたれて頬杖をついていたおじさんが話しかけてきた。
「なあ」
「ん?」
「お前、今幸せか?」
「ふふ」
「そうか……」
「おじさんって、やっぱり天使ですね」
「違うって言ってるだろ。そういうとこは相変わらずだな」
おじさんはしばらく夜空を見上げていた。
「なあ」
「はい」
「もし俺がいなくなったらどうする?」
「え」
僕は固まった。おじさんがいなくなったら。
「やさしいですね。僕は元の生活に戻るだけですから。もしおじさんが……いえ。でも、正直に言ってくださるなんて、やっぱりおじさんはやさしい」
「馬鹿」
おじさんは僕の頭をちょっと小突いた。
「いてっ」
「いなくならねーよ。当分な」
そう言って笑って見せるおじさん。
「仏さんにゃすまんが俺はまだまだジバクするぜ」
「自爆? 駄目ですよ、命を粗末にしたら」
「はっは」
おじさんは何がおかしいのか、お腹を抱えて笑った。
「大丈夫大丈夫」
涼しい風が吹いた。
(おわり)
それまでは、自分のような人間がやさしくされるわけがない、自分はやさしくされるに値しない人間だと思っていた。
それがあの夏の日、ぎらぎら光る太陽を眺めて、ふと視界が反転したと思ったら、何もかもをやさしく感じるようになっていた。
夏の太陽もやさしい、セミの声もやさしい、じりじり肌に感じる暑さもみんなやさしい。
僕みたいな者に何かを感じさせている全てがやさしい。それはそうだ、僕に働きかけるということは、欠陥品に働きかけるということで、全くの無駄どころかその人にとっては損になりかねない。
それをわざわざ働きかけてくれるのだ、やさしいと表現するのが一番いいだろう。
そんなわけで、嫌いな野菜もやさしいし、コンビニの前でやさぐれて僕の嫌いなタバコの煙をもくもくさせているおじさん達もやさしいし、独り暮らしの僕の家に突然やってきて書類を探すついでに色々な物を処分して帰っていく親もやさしいのだ。
やさしい。やさしい。どうして世の中はこんなにやさしい。
道を歩いていると、電柱の陰から僕をじっと見ている男性に会った。
僕はにっこり笑って会釈した。
男性は無表情で僕を見詰め続けている。
「どうしましたか?」
「道に迷って家に帰れなくてな」
「それは困りましたね。おうちはどこですか?」
「それがわからん」
「それは困りましたね」
「お前に着いていってもいいだろ?」
「えっ、僕なんかに着いてきたら、おじさんが汚れてしまいますよ」
「え?」
「僕は欠陥品です。人の気持ちがわからない。今この瞬間のおじさんの気持ちだってわからない。嫌いになられるかも、不快に思われるかもってずっと考えている。でも、嫌いになられたり不快になられたとしても、その人はきっと僕にやさしいんだと思います。だって、僕なんかについて何かを思ってくださるなんて、それは天使の所業ですから」
「ハッ」
おじさんは鼻で笑った。
「天使なんているわけないだろ」
「いたら素敵じゃないですか。僕とこんなに話してくれるおじさんはやさしいから、天使だと思ってますよ」
「天使? 俺が?」
片眉を上げるおじさん。
「天使です。やさしい。おじさんはとってもやさしい。どうしてそんなにやさしくしてくれるんですか?」
「いや……まあ……さあ。やっぱりお前に着いてくのはやめとく」
「そう、ですか」
僕は少しだけ残念な気持ちになった。でも、それすらやさしい。僕に関係する選択肢について考えてくれて、判断してくれた。そのことがもうやさしいからだ。
「やっぱりおじさんはやさしいですね」
「はあ。まあな」
それから道を通るたび、電柱の陰におじさんを見るようになった。
「こんにちは」
「よう。元気そうだな」
「おじさんはいつも通り、顔色悪いですね」
「失礼だなお前」
「はっはっは。ありがとうございます」
「まったくお前と話してると調子が狂うぜ」
「天使だ……」
「ハーン、会話が成立していない!」
おじさんは肩をすくめた。
「これから講義か、頑張れよ」
「あ、ありがとうございます!」
涙がにじむ。おじさんは本当にやさしい。
僕はおじさんに手を振ると、大学に向かった。
大学ではみんなやさしかった。僕みたいな奴を見ないように目を逸らしてくれる、自衛してくれてるんだ。とてもやさしい。
心ぽかぽかした気持ちで、帰路についた。
「よう」
「おじさん」
「ひでえ面だな」
「え?」
「俺より顔色悪いんじゃねえか?」
「そうかな……」
「気付いてないのか。お前って本当に気の毒な奴だな」
「そんなことを言ってくれるのはおじさんくらいですよ。僕なんかを心配してくれるなんて、おじさんはやっぱり天使ですね」
「ちげーよ馬鹿」
次の日も、そのまた次の日も、おじさんに挨拶をして僕は大学に向かった。
土日は眠かったので家から出ずに寝ていた。
月曜日。起きたらお昼を過ぎていた。スマホには何のメッセージも来ていない。
やさしいな。みんな僕のことを放っておいてくれるんだから。
僕は布団に潜り込んだ。
火曜日。水曜日。何の理由もないのに、なんとなく僕は起きられなくて、外に出なかった。
そして木曜日。
ノックの音で目が覚めた。
コンコン、コンコン。
「どうぞ」
「相手くらい確認しろよ、馬鹿」
「おじさん? どうして。いいですよ、入ってきてください」
身を起こそうとしたが身体が重く、布団に入ったままおじさんを招く。
「じゃ、お邪魔するぜ」
音もなく、おじさんは部屋に入ってきた。
どことなく、空気が冷えるような感覚。春とはいえ、三寒四温。外気が入って冷えたんだろうな。それもやさしい、と僕は思う。
「よう」
おじさんが僕を覗き込む。冷気がいっそう強くなった。
「どうも」
布団にくるまりながら僕は応える。
「大丈夫か、お前?」
「何がですか?」
「顔色悪いぜ。何日も食べてないんじゃねえか?」
「あ」
はっと気付く。そういえば、ここ数日何も食べていない。
「馬鹿。ほら食え」
枕元にゼリータイプの携帯食料があった。
「え、これは」
「そこの棚にあった。お前のだろ? すぐそこに食料があるのに食べないなんてどうかしてるぜ。ほら食え」
「うーん。ありがとうございます」
あまり気が進まなかったが、やさしさを無下にするのはもっと嫌だったので僕は横になったままゼリーを飲んだ。
「うまいか?」
「やさしい味ですね」
「はは。そりゃよかった」
おじさんは笑って、そして黙った。
僕もゼリーを黙々と飲んだ。
ほとんど飲み切った頃、
「なあ」
とおじさんが言った。
「お前、今幸せか?」
「え?」
「つらくないのかって訊いてんだ」
「つらいわけないじゃないですか。だって世界はこんなやさしいのに、僕がつらくなる理由がありません」
「はあ」
おじさんはため息をついた。
「やっぱりお前は馬鹿だよ」
それから僕はしばらくごろごろして暮らし、おじさんと何てことのない話をしたり、保存してあった食料を食べたりして過ごした。おじさんはずっと僕についていてくれた。
一週間経って、おじさんと一緒に買い物に出た。途中、おじさんがいつも立っていた電柱の側を通ったが、そこは暗く、なんだかすごく冷えていた。
「うわー、やっぱこうなってるよな。お前、寒くないか?」
「いえ? 仮に寒くても、それだってやさしいですからね」
「はああ。そうかあ」
色々と買い込んで、部屋に戻ってカレーを作った。
おじさんの分をお皿によそおうとしたら、俺は食べないからと言って断られた。
「そうですか、やさしいですね」
「馬鹿。俺はな、えーと……特別な身体。そう、特別な身体をしていて、食べなくても生きてけるんだよ。だがえーと……代償。そう、その代償に普通の食料は受け付けねえんだ」
「そうなんですか、それは」
「同情するなよ。結構便利なんだ、これ」
「そうなんですか。それはよかったです」
きっと話しにくいことだろうに、僕なんかに教えてくれるというのはやはりやさしい。
僕は自分の分のお皿を持ってこたつに座った。
「こたつはまだまだ必要ですね。冷えますし。いやあこたつはやさしい……」
カレーを口に入れる。
「おいしい!」
おじさんは笑っていた。
次の日、僕は大学に行った。なぜかおじさんも一緒に着いてきた。
僕から目を逸らすみんなを見て、おじさんはしきりに文句を言っていた。
みんなやさしいのに、おじさんはどうして怒っているのかな。でも、僕なんかのために怒ってくれるなんて、おじさんはやっぱりやさしいな。
休日を挟んで、僕は休まず大学に行った。おじさんも一緒に。
おじさんが一緒にいても、誰も何も言ってこなかった。みんなやさしいということだろう。僕は一人で納得した。
やさしい日々は平穏に過ぎていき、僕は幸せに講義を受けたり実習に行ったりレポートを書いたりした。
そして、ある夏の夜。
ベランダに出てアイスを食べていると、横で手すりにもたれて頬杖をついていたおじさんが話しかけてきた。
「なあ」
「ん?」
「お前、今幸せか?」
「ふふ」
「そうか……」
「おじさんって、やっぱり天使ですね」
「違うって言ってるだろ。そういうとこは相変わらずだな」
おじさんはしばらく夜空を見上げていた。
「なあ」
「はい」
「もし俺がいなくなったらどうする?」
「え」
僕は固まった。おじさんがいなくなったら。
「やさしいですね。僕は元の生活に戻るだけですから。もしおじさんが……いえ。でも、正直に言ってくださるなんて、やっぱりおじさんはやさしい」
「馬鹿」
おじさんは僕の頭をちょっと小突いた。
「いてっ」
「いなくならねーよ。当分な」
そう言って笑って見せるおじさん。
「仏さんにゃすまんが俺はまだまだジバクするぜ」
「自爆? 駄目ですよ、命を粗末にしたら」
「はっは」
おじさんは何がおかしいのか、お腹を抱えて笑った。
「大丈夫大丈夫」
涼しい風が吹いた。
(おわり)
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