短編小説
もう尻尾なんて振りたくない。尻尾を振るのには疲れてしまった。
それなのに、私は尻尾を振っている。
小さい頃に、お前はネズミだと言われたことがある。
相手の意図はわからなかったが、おそらくネズミのように万物に怯えて生きている、とかそういうことだったのだと思う。
今の私は犬だ。ネズミなところは変わっていない。怯える対象に尻尾を振ることを覚えただけ。人はそれを「社会性を身につけた」と言うのかもしれないが、私としては愚かになっただけだと思う。
「おはよう!」
冬の日、私は彼女に挨拶をする。返ってくることはない。
「お疲れ」
帰宅する彼女に挨拶をする。これも返ってくることはない。
同じ学科、同じ学年でカーストの頂点にいる彼女は気まぐれだ。私を無視することもあれば、愛想良く挨拶を返してくれることもある。それは私の行動に依っているのかもしれないし、単に彼女の機嫌の問題なだけかもしれないし、両方なのかもしれない。
挨拶をして返してもらえないのは悲しいが、挨拶をしないと無視どころか悪口を言われてしまうかもしれないので、私は愛想を押しつける。
突発的に開催される飲み会やこの前の忘年会でもなるべく近くの席に座ったが、会話ができたのは一言二言数えるほどで、何も進展はなかった。
もっと頑張らないと。
帰りに買った山のようなコンビニスイーツを頬張りながら、そう思う。
今日は夕方近くまで寝ていて夜に大学に行った。廊下で帰っていく彼女とすれ違って挨拶したが、何の反応もなく無視されただけだった。
そのまま深夜まで作業をしていたが、皆が帰っていくので、私もそろそろ帰った方がいいなと思って帰路につき、お腹が空いていたのでコンビニに入ってスイーツを買い込み今に至る。
本当は野菜などを買い夕食を作った方がいいのだろうが、今はこれを食べていたかった。ケーキやムースを食べていると甘さで頭が痺れ、疲れていることや怯えていることがどうでもいいような気になってくるのだ。それが心地よくて、私は甘い物が好きだった。
最後の生クリーム乗せプリンを食べようとして、明日の朝食がないことに気付く。
私はのろのろとプリンを冷蔵庫に入れ、一連の寝る準備をして布団に入った。
胃がぐるぐるして吐き気もしていたが、眠気はすぐにやってきた。
うなされて目が覚める。時刻は朝6時。
家で寝過ごし単位を落とす夢を見ていた。
今は冬休み。授業はない。いくら寝過ごしても一応問題はない。
私はふうと息をつくと再び布団に潜り込んだ。
次に目を覚ましたのは15時だった。今日は18時から新年会があるので、そろそろ起きて何か胃に入れておいた方がいい。
私は布団からずるずると這い出し、冷蔵庫のところまで行って昨日のプリンを取り出した。
お腹が空きすぎて吐き気がしていた。
スプーンを取って、プリンを口に入れる。
甘い。
私はそのまま一気にプリンを食べ尽くした。
重たい胃を抱えて私は飲み会に向かった。
「私がもっと頑張った方がいいところって何だと思う? アンケートを取ろうと思って」
メモ帳片手に心にもないことを言う。本心からそうした方がいいと思ってはいるのだが、それと同時に、尻尾を振る愚かな行動だと思ったり、馬鹿のすることだと思ったり、そんなことを考えながら訊いている。
彼女は呆れたように笑って、答えてくれなかった。彼女の取り巻きたちは、もっと人の目を見た方がいい、とか、難しいことを考えすぎないようにした方がいいと思う、とか、そのようなことを言ってきた。
それらを全てメモに取る。
アンケートを取ると言った以上、全員に訊いて回った方がいい。私はメモ帳を握り締めて各テーブルを回った。
皆それぞれの話題に忙しそうで、ほとんどが私のことを相手にしなかった。
そして三つ目のテーブルに差し掛かる。
「私がもっと頑張った方がいいことって何だと思う?」
「君はもう充分頑張ってるよ、これ以上頑張らなくてもいいと思う」
なんでもない風に言った相手に、息が止まる。
頑張らなくてもいいなら、どうすればいいんだ。頑張りが足りないからこういうことになっているのに、頑張らなければ何も変われないままじゃないか。
反射的にそう思う。だが、これ以上頑張りたくないのも本当だった。尻尾も振りたくない。頑張った方がいいことを問いかける、などという心が圧迫されるような行動だってしたくない。やりたくないけど、やらないと許されないかもしれないと思っているから、追い立てられるようにやっている。阿呆だ。馬鹿だ。私は何をやっているのだろう。
「頑張らなくていい……」
やっとの思いでオウム返しのように繰り返す。その頃には相手はもうテーブルにいる人たちとの会話に戻っていた。
私はそのまま会が終わるまでテーブルの隅でえびせんを囓っていた。
彼女のところに行って媚を売っておいた方がいい。そう思うのに、身体がうまく動かなかった。
会がお開きになって、二次会に行く人たちが固まり移動し始める。その中には彼女もいた。
私はマフラーを巻き直して、帰路についた。
頑張る。頑張るとはいったい何なのだろう。つらいことを我慢して続けることだろうか。
つらいことを我慢して続けるのは、苦しい。続けていても何も変わることはない。だが、続けないと私は人間になれない。私は出来損ないだから、犬のようにネズミのように走り続けないと、まっとうな「人間」の扱いをしてもらえない。
頑張るとは。
わからない。
それから冬休みが終わるまで寝たり起きたりして過ごし、新年最初の授業を私は寝過ごして休んだ。
(おわり)
それなのに、私は尻尾を振っている。
小さい頃に、お前はネズミだと言われたことがある。
相手の意図はわからなかったが、おそらくネズミのように万物に怯えて生きている、とかそういうことだったのだと思う。
今の私は犬だ。ネズミなところは変わっていない。怯える対象に尻尾を振ることを覚えただけ。人はそれを「社会性を身につけた」と言うのかもしれないが、私としては愚かになっただけだと思う。
「おはよう!」
冬の日、私は彼女に挨拶をする。返ってくることはない。
「お疲れ」
帰宅する彼女に挨拶をする。これも返ってくることはない。
同じ学科、同じ学年でカーストの頂点にいる彼女は気まぐれだ。私を無視することもあれば、愛想良く挨拶を返してくれることもある。それは私の行動に依っているのかもしれないし、単に彼女の機嫌の問題なだけかもしれないし、両方なのかもしれない。
挨拶をして返してもらえないのは悲しいが、挨拶をしないと無視どころか悪口を言われてしまうかもしれないので、私は愛想を押しつける。
突発的に開催される飲み会やこの前の忘年会でもなるべく近くの席に座ったが、会話ができたのは一言二言数えるほどで、何も進展はなかった。
もっと頑張らないと。
帰りに買った山のようなコンビニスイーツを頬張りながら、そう思う。
今日は夕方近くまで寝ていて夜に大学に行った。廊下で帰っていく彼女とすれ違って挨拶したが、何の反応もなく無視されただけだった。
そのまま深夜まで作業をしていたが、皆が帰っていくので、私もそろそろ帰った方がいいなと思って帰路につき、お腹が空いていたのでコンビニに入ってスイーツを買い込み今に至る。
本当は野菜などを買い夕食を作った方がいいのだろうが、今はこれを食べていたかった。ケーキやムースを食べていると甘さで頭が痺れ、疲れていることや怯えていることがどうでもいいような気になってくるのだ。それが心地よくて、私は甘い物が好きだった。
最後の生クリーム乗せプリンを食べようとして、明日の朝食がないことに気付く。
私はのろのろとプリンを冷蔵庫に入れ、一連の寝る準備をして布団に入った。
胃がぐるぐるして吐き気もしていたが、眠気はすぐにやってきた。
うなされて目が覚める。時刻は朝6時。
家で寝過ごし単位を落とす夢を見ていた。
今は冬休み。授業はない。いくら寝過ごしても一応問題はない。
私はふうと息をつくと再び布団に潜り込んだ。
次に目を覚ましたのは15時だった。今日は18時から新年会があるので、そろそろ起きて何か胃に入れておいた方がいい。
私は布団からずるずると這い出し、冷蔵庫のところまで行って昨日のプリンを取り出した。
お腹が空きすぎて吐き気がしていた。
スプーンを取って、プリンを口に入れる。
甘い。
私はそのまま一気にプリンを食べ尽くした。
重たい胃を抱えて私は飲み会に向かった。
「私がもっと頑張った方がいいところって何だと思う? アンケートを取ろうと思って」
メモ帳片手に心にもないことを言う。本心からそうした方がいいと思ってはいるのだが、それと同時に、尻尾を振る愚かな行動だと思ったり、馬鹿のすることだと思ったり、そんなことを考えながら訊いている。
彼女は呆れたように笑って、答えてくれなかった。彼女の取り巻きたちは、もっと人の目を見た方がいい、とか、難しいことを考えすぎないようにした方がいいと思う、とか、そのようなことを言ってきた。
それらを全てメモに取る。
アンケートを取ると言った以上、全員に訊いて回った方がいい。私はメモ帳を握り締めて各テーブルを回った。
皆それぞれの話題に忙しそうで、ほとんどが私のことを相手にしなかった。
そして三つ目のテーブルに差し掛かる。
「私がもっと頑張った方がいいことって何だと思う?」
「君はもう充分頑張ってるよ、これ以上頑張らなくてもいいと思う」
なんでもない風に言った相手に、息が止まる。
頑張らなくてもいいなら、どうすればいいんだ。頑張りが足りないからこういうことになっているのに、頑張らなければ何も変われないままじゃないか。
反射的にそう思う。だが、これ以上頑張りたくないのも本当だった。尻尾も振りたくない。頑張った方がいいことを問いかける、などという心が圧迫されるような行動だってしたくない。やりたくないけど、やらないと許されないかもしれないと思っているから、追い立てられるようにやっている。阿呆だ。馬鹿だ。私は何をやっているのだろう。
「頑張らなくていい……」
やっとの思いでオウム返しのように繰り返す。その頃には相手はもうテーブルにいる人たちとの会話に戻っていた。
私はそのまま会が終わるまでテーブルの隅でえびせんを囓っていた。
彼女のところに行って媚を売っておいた方がいい。そう思うのに、身体がうまく動かなかった。
会がお開きになって、二次会に行く人たちが固まり移動し始める。その中には彼女もいた。
私はマフラーを巻き直して、帰路についた。
頑張る。頑張るとはいったい何なのだろう。つらいことを我慢して続けることだろうか。
つらいことを我慢して続けるのは、苦しい。続けていても何も変わることはない。だが、続けないと私は人間になれない。私は出来損ないだから、犬のようにネズミのように走り続けないと、まっとうな「人間」の扱いをしてもらえない。
頑張るとは。
わからない。
それから冬休みが終わるまで寝たり起きたりして過ごし、新年最初の授業を私は寝過ごして休んだ。
(おわり)
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