短編小説
彼の四畳半にきのこが生えた。どこに生えたかというと、彼から生えた。
「そもそも、きのこはなぜ生えたのだろう」
闇に閉ざされた室内で、彼はそっとつぶやいた。
机の上に携帯電話が置いてある。傷だらけのその液晶には、三日前のメールが表示されていた。
『昨日、社長にプロポーズされました。社長はあなたなんかよりも自分の方がわたしを幸せにできると言いました。最近、あなたはいつもわたしに冷たい態度をとりますね。きっとあなたもわたしに飽きてきたのでしょう?ふられる前に、わたしはもっとわたしを愛してくれるひとのところへ行くことにします。あなたもこれでせいせいすることでしょう。いつかわたしではなくもっと愛情をそそげる女性に出会えるといいですね。はっきり言うと、わたしはあまりあなたを好きではありませんでした。あなたがわたしを愛していると言ったから、ずっと今まで一緒にいただけです。さようなら さえこ』
「ふられたのは仕方がないとして、社長に抗議なぞするのじゃあなかったなあ」
暗い目に涙をためて、彼はひざをかかえた。
四畳半の畳の上にも、冷蔵庫にも、脱ぎっぱなしのスーツや靴にも、ほこりが積もっていた。閉め切った窓にはカーテンがかかっていて、虫一匹、風一筋さえ通さない。
「どうせ俺なんて、俺なんて。社長に及ばないのはわかってた。だけど、高校時代から六年間も付き合った仲だっていうのに。せめて直接会って別れを言って欲しかった。メールだよ?メール。ふざけるにも程がある。社長も社長だ。俺の彼女だって知ってて狙うか、普通。ああもうみんな嫌いだ、大嫌いだ。こんな世の中に誰がした。俺は完璧な人生を歩んできたのに、これは断じて俺のせいなんかではないぞ、断じて」
彼がひざをかかえたまま床に転がった途端、額が机にぶつかった。
「痛い」
机の脚にうつる泣きそうな自分の顔を、彼は見た。そして、机の脚にうつる自分の頭に生えている、雑多なきのこを彼は見た。
「あああ、本当に何なんだこりゃあ」
彼の頭の頂上には黄色いきのこに白いきのこ、大きいきのこに小さいきのこ、崩れそうなきのこにしっかりしたきのこ、しめじのようなきのこや松茸のようなきのこまである。
「俺の頭はきのこ栽培に向いているのかもしれん。などと言っている場合ではないのだ。さえこ、戻ってきてくれ、さえこ。いや、いいんだ。もういいんだ。会社も首になった俺に頼れるものはない。しまいにゃあきのこまで生えてくる始末。おしまいだ。うんざりだ」
彼の独り言を聞く者はいない。沈黙の訪れた部屋で、お腹のなる音だけが大きく響いた。
「きのこ、お前はわかってくれるか?俺の苦しみを。なあ、きのこ。お前、とても美味しそうだなあ。毒はないよな。俺の頭から生えるきのこに毒があるはずないよな。生でもいけるかなあ」
一番小さく白く崩れそうなきのこに、彼は手を伸ばして摘み取った。そのまま口に放り込む。きのこは彼の舌の上でほろりと溶けた。
ほこりひとつない四畳半に香ばしい香りとじゅうじゅういう音がただよっている。きれいにたたまれたスーツが部屋のすみに置いてある。机の上には塩やらコショウやらオリーブオイルやら、様々な調味料。それに、トマトやピーマン、にんにくなどの野菜が乗っている。
「さて、次は松茸を焼いて、と」
三角巾を巻いた彼は鼻歌を歌いながら台所を飛び回っている。
「今夜は試験前だから、これこれ料理のおさらいおさらい。お皿じゃないよ、おさらいだよ。きのこきのこはもんじゃ焼き、ぽんと出たのはほら、しめじ、よし。できたあ」
彼がお皿に料理を盛り付けていた時、電話が鳴った。彼は慌ててスピーカーホンのボタンを押した。
「もう、冷めちゃうじゃあないか、もしもし?」
『まっちゃんなの?』
「あ、母さん」
『会社、首になってひきこもってる、って哲夫から聞いたわよ。あんた、大丈夫なの。ずっと部屋の中にいるんでしょ?しんどかったらうちに帰ってきてもいいのよ』
「いや、いいよ。一時期落ち込んでたけど、もうすっかり元気になったから、気にしないで。もう外にも出てるし、俺は大丈夫だからさ。それよか母さん、家にもう使わなくなった鱗取り機あったよね」
『鱗取り機?どうしてそんなものがいるの?』
「秘密。とにかくそれ送ってよ。お願い」
『まあ、鱗取り機ぐらいならいいけど、あんた、これからどうするつもりなのよ。お金だってないでしょうし、それに』
「ありがとう母さん。明日試験だから準備しないと。母さんも元気でね。それじゃ」
彼は受話器を上げて、下ろした。電話はぷつっと音をたてて切れた。いそいそとフライパンから料理を盛り付けると、彼はいつか自分が頭をぶつけたあのテーブルに座った。
「さあてと、食べるとするかな」
何枚もの紙が散らばる部屋の中で、彼が電話をかけている。
「もしもし母さん?試験、合格したよ。うん。うん。大丈夫。落ち着いたら、母さんと父さんと哲夫も招待するから。楽しみにしてて。じゃあね」
かえでの木が立ち並び、日の当たる小道を、制服の女子が二人歩いている。
「ねえ、知ってる?マロン街道に新しいお店がオープンしたらしいよ」
「うそお、今度はなんの料理店かなあ?」
話を切り出した方の女子は一呼吸おいてもう一人を見つめてから、言った。
「実はね、きのこだってさ」
「きのこ」
「そう、きのこ。それがすごく美味しいって評判でさあ」
テレビカメラの前で、眼鏡をかけたタレントが言った。
「ここのきのこはどうしてこんなに美味しいのかあ、美味しい、そう、美味しいと表現するのが一番ふさわしい程です。料理長、きのこ料理のポイントをひとつ、わたしたちに教えて頂けませんかあ?」
にこにこ笑う彼、料理長はコック帽を深くかぶりなおしながら答えた。
「どんなきのこであろうと、勇気を出して味見してみること、ですね」
[完]
「そもそも、きのこはなぜ生えたのだろう」
闇に閉ざされた室内で、彼はそっとつぶやいた。
机の上に携帯電話が置いてある。傷だらけのその液晶には、三日前のメールが表示されていた。
『昨日、社長にプロポーズされました。社長はあなたなんかよりも自分の方がわたしを幸せにできると言いました。最近、あなたはいつもわたしに冷たい態度をとりますね。きっとあなたもわたしに飽きてきたのでしょう?ふられる前に、わたしはもっとわたしを愛してくれるひとのところへ行くことにします。あなたもこれでせいせいすることでしょう。いつかわたしではなくもっと愛情をそそげる女性に出会えるといいですね。はっきり言うと、わたしはあまりあなたを好きではありませんでした。あなたがわたしを愛していると言ったから、ずっと今まで一緒にいただけです。さようなら さえこ』
「ふられたのは仕方がないとして、社長に抗議なぞするのじゃあなかったなあ」
暗い目に涙をためて、彼はひざをかかえた。
四畳半の畳の上にも、冷蔵庫にも、脱ぎっぱなしのスーツや靴にも、ほこりが積もっていた。閉め切った窓にはカーテンがかかっていて、虫一匹、風一筋さえ通さない。
「どうせ俺なんて、俺なんて。社長に及ばないのはわかってた。だけど、高校時代から六年間も付き合った仲だっていうのに。せめて直接会って別れを言って欲しかった。メールだよ?メール。ふざけるにも程がある。社長も社長だ。俺の彼女だって知ってて狙うか、普通。ああもうみんな嫌いだ、大嫌いだ。こんな世の中に誰がした。俺は完璧な人生を歩んできたのに、これは断じて俺のせいなんかではないぞ、断じて」
彼がひざをかかえたまま床に転がった途端、額が机にぶつかった。
「痛い」
机の脚にうつる泣きそうな自分の顔を、彼は見た。そして、机の脚にうつる自分の頭に生えている、雑多なきのこを彼は見た。
「あああ、本当に何なんだこりゃあ」
彼の頭の頂上には黄色いきのこに白いきのこ、大きいきのこに小さいきのこ、崩れそうなきのこにしっかりしたきのこ、しめじのようなきのこや松茸のようなきのこまである。
「俺の頭はきのこ栽培に向いているのかもしれん。などと言っている場合ではないのだ。さえこ、戻ってきてくれ、さえこ。いや、いいんだ。もういいんだ。会社も首になった俺に頼れるものはない。しまいにゃあきのこまで生えてくる始末。おしまいだ。うんざりだ」
彼の独り言を聞く者はいない。沈黙の訪れた部屋で、お腹のなる音だけが大きく響いた。
「きのこ、お前はわかってくれるか?俺の苦しみを。なあ、きのこ。お前、とても美味しそうだなあ。毒はないよな。俺の頭から生えるきのこに毒があるはずないよな。生でもいけるかなあ」
一番小さく白く崩れそうなきのこに、彼は手を伸ばして摘み取った。そのまま口に放り込む。きのこは彼の舌の上でほろりと溶けた。
ほこりひとつない四畳半に香ばしい香りとじゅうじゅういう音がただよっている。きれいにたたまれたスーツが部屋のすみに置いてある。机の上には塩やらコショウやらオリーブオイルやら、様々な調味料。それに、トマトやピーマン、にんにくなどの野菜が乗っている。
「さて、次は松茸を焼いて、と」
三角巾を巻いた彼は鼻歌を歌いながら台所を飛び回っている。
「今夜は試験前だから、これこれ料理のおさらいおさらい。お皿じゃないよ、おさらいだよ。きのこきのこはもんじゃ焼き、ぽんと出たのはほら、しめじ、よし。できたあ」
彼がお皿に料理を盛り付けていた時、電話が鳴った。彼は慌ててスピーカーホンのボタンを押した。
「もう、冷めちゃうじゃあないか、もしもし?」
『まっちゃんなの?』
「あ、母さん」
『会社、首になってひきこもってる、って哲夫から聞いたわよ。あんた、大丈夫なの。ずっと部屋の中にいるんでしょ?しんどかったらうちに帰ってきてもいいのよ』
「いや、いいよ。一時期落ち込んでたけど、もうすっかり元気になったから、気にしないで。もう外にも出てるし、俺は大丈夫だからさ。それよか母さん、家にもう使わなくなった鱗取り機あったよね」
『鱗取り機?どうしてそんなものがいるの?』
「秘密。とにかくそれ送ってよ。お願い」
『まあ、鱗取り機ぐらいならいいけど、あんた、これからどうするつもりなのよ。お金だってないでしょうし、それに』
「ありがとう母さん。明日試験だから準備しないと。母さんも元気でね。それじゃ」
彼は受話器を上げて、下ろした。電話はぷつっと音をたてて切れた。いそいそとフライパンから料理を盛り付けると、彼はいつか自分が頭をぶつけたあのテーブルに座った。
「さあてと、食べるとするかな」
何枚もの紙が散らばる部屋の中で、彼が電話をかけている。
「もしもし母さん?試験、合格したよ。うん。うん。大丈夫。落ち着いたら、母さんと父さんと哲夫も招待するから。楽しみにしてて。じゃあね」
かえでの木が立ち並び、日の当たる小道を、制服の女子が二人歩いている。
「ねえ、知ってる?マロン街道に新しいお店がオープンしたらしいよ」
「うそお、今度はなんの料理店かなあ?」
話を切り出した方の女子は一呼吸おいてもう一人を見つめてから、言った。
「実はね、きのこだってさ」
「きのこ」
「そう、きのこ。それがすごく美味しいって評判でさあ」
テレビカメラの前で、眼鏡をかけたタレントが言った。
「ここのきのこはどうしてこんなに美味しいのかあ、美味しい、そう、美味しいと表現するのが一番ふさわしい程です。料理長、きのこ料理のポイントをひとつ、わたしたちに教えて頂けませんかあ?」
にこにこ笑う彼、料理長はコック帽を深くかぶりなおしながら答えた。
「どんなきのこであろうと、勇気を出して味見してみること、ですね」
[完]
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