the Goblet of Fire
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ラインは西日の眩しさに目を細めながら、大広間へ続く廊下を歩いていた。寝不足の頭はガンガンとしているけれど、気分は晴れやかだった。先程、学年末試験が無事に終了したからだ。呪文学の試験中にフリットウィック先生を天井まで飛ばしたりもしたけれど……ベストは尽くした。後悔は無い。あとは、今夜行われる第三の課題を観戦して、友人をねぎらうだけだ。そうしたら、やっと、長い1年が終わる。
美味しそうな匂いが立ち込める大広間に入ると、ラインはいつもと様子が違うことに気が付いた。大人の魔法使い達が何人か、生徒達と一緒に夕食を食べている。
「おーい、ライン!ちょっと来いよ」
自分を呼ぶ声に振り向くと、ジョージがこちらに手を振っているのが見えた。彼の隣の席にはフレッドとハリーが座っている。ラインは緩み切った頬を隠しながら、皆のところへ急いだ。いつもより、食事のメニューの品数も多い気がする。美味しそうな料理に目移りしながらグリフィンドールのテーブルに辿り着くと、そこには見慣れない2人が座っていた。ラインは彼らが誰なのか、すぐに気が付いた。彼らの髪が燃えるような赤毛だったからだ。
「ママ、ビル!」
後ろから、驚いたような声が聞こえた。振り向くと、ロンとハーマイオニーが大広間に入ってくるところだった。
「2人とも、どうしてこんなところにいるの?」
「ハリーの勇姿を見届けに来たのよ」
ウィーズリーおばさんがにっこりした。
「ママ、この子がラインだよ。ほら、前に話した、ロンの新しい友達」
ジョージの言葉を聞いて、ラインはようやく自分のするべき事に気が付いた。
「初めまして。ライン・マーリンです」
「この子、甘いものに目がないんだ。ママの糖蜜プディングを食べてみたいって」
「あら、まあ──嬉しいわ。じゃあ、今度のお休みに家に食べに来なさいな」
「"みんな"待ってるよ」
ビルがニヤリと笑った。
夕焼けのオレンジ色から日暮れの紫色に移ろう天井を眺めながら、ラインは食後のデザートを楽しんでいた。いつもより豪華なメニュー、絶対に後悔するわけにはいかない。プリン・アラモードで締めようと思ったけれど、やっぱりもう1度、マルカルポーネのチーズケーキも食べておこう──
「紳士、淑女のみなさん」
ラインは顔を上げた。教職員テーブルでダンブルドア先生が立ち上がっている。なんとなく目が合った気がして、ラインは残りのチーズケーキをまとめて口に押し込んだ。
「今から15分後──三大魔法学校対抗試合、最後の課題が開始される。代表選手はバグマン氏に従って、すぐに控え室へ向かうのじゃ」
ハリーが立ち上がると、グリフィンドールのテーブルから一斉に拍手が起こった。彼は緊張した顔をしていたけれど、皆に微笑み返す余裕はあるようだったので、ラインは感心してしまった。やっぱり、何度も修羅場を乗り越えてきた人間は強い。自分の方がよほど、緊張しているみたいだ。ただ、競技を見守るだけなのに──友人の背中を見送った後、ラインはハーマイオニーに耳打ちした。
「私、お手洗いに行ってから競技場へ向かおうかな」
「分かったわ。じゃあ、競技場の入口で落ち合いましょう」
大広間と同じ階の女子トイレには、ライン以外、誰も利用者がいなかった。皆は観戦の前にトイレに行かなくても大丈夫なんだろうか?もしかすると、自分が知らないだけで、競技場の中にもトイレがあるのかもしれない……そんな考え事をしていたのに、廊下へ続く扉を開けた途端、ラインははっきりと違和感を感じた。先ほどまでとは明らかに違う、ピンと張り詰めた、恐ろしく冷たい空気が辺りに漂っている。何故だか、大広間の喧騒も一切聞こえない。それに、誰かに見張られているような感覚がある。ラインはこの感覚に覚えがあった。とにかく、このままここにいるのはまずい。ラインは震える足で廊下へ踏み出した。
「おい──おい、ライン!」
数メートルも進まないうちに、誰かに呼び止められた。振り向くと、競技用ユニフォームの鮮やかな色が目に飛び込んできた。
「こんなところで、どうしたの?」
動転しながら聞くと、セドリックは困ったように笑った。
「トイレに行っていたんだ。緊張しちゃって」
「そっか……これからだものね」
そうだった。彼はこれから、最後の課題に挑むのだ。緊張しないわけがない。そして、そんな彼を自分の問題に巻き込むわけにはいかない。
「じゃあ、頑張ってね!応援してる」
ラインは精一杯の笑顔を作り、セドリックに手を振った。しかし、彼はその場から動こうとしなかった。
「君……分かりやすいって言われないか?」
セドリックが苦笑いした。
「どうして走ってたんだ?もしかして、また、あの気配を感じた?」
「ううん、何ともないわ。セドリック、本当に急がないと」
ラインが言うと、セドリックはますます眉尻を下げた。
「分かった。じゃあ、僕を控え室まで送ってくれ。1人じゃ不安なんだ」
返す言葉が思い付かず、ラインは呆気なく舌戦に敗北した。きっと、何を言おうと、彼は1人でここから立ち去ったりしないだろう。そういう人だから、彼は代表選手なのだ。
「……ありがとう」
小さな声でお礼を言うと、セドリックは満足そうに微笑んだ。彼は杖を取り出して、周囲を睨み付けてくれたけれど、恐ろしい気配は消えなかった。しかし、彼が隣を歩いてくれることで、言葉では言い表せないほど、ラインは勇気付けられた。
──いいかい、ライン。不審者に遭遇した時は、とにかく、広いところや人のいるところに逃げるんだ──
いつだったか、父に言われた言葉を思い出す。でも、もし、その不審者が空間の広さを変化させたり、人を寄せ付けないように出来るとしたら、どうすればいいんだろう?
……セドリックは気が付いているだろうか?自分達のものでは無い、衣擦れの音が後を追って来ることに。石を打つ音のような、特徴的な足音が近付いてくることに。もはや、その気配は隠れるつもりも無いようだった。
「ライン、止まるんだ」
セドリックが廊下の奥に目を凝らした。
「君が怯えている理由が分かったよ。これは、もう、ここではっきりさせた方がいい」
セドリックはラインを近くに引き寄せると、胸の前に杖を構えた。
「姿を見せろ。お前の目的は何だ?」
静まり返った廊下で、セドリックの声はよく響いた。しかし……何者も姿を現さない。何事も起こらない。
「ホメナムレベリオ、人現れよ」
セドリックが呪文を唱えると、丸い光のようなものが彼の杖先から飛び出して、廊下の奥にすーっと飛んで行った。そして、次の瞬間──
「セドリック!」
ラインは悲鳴を上げた。セドリックは赤い閃光をまともに顔に受けて、ドサリと床に崩れ落ちた。ラインは倒れた友人の前に踏み出して、無我夢中で呪文を唱えた。
「プロテゴ、護れ!」
ラインに向かって飛んできた白い閃光が、壁の一部とともに吹き飛んだ。しかし、次の呪文を唱える間もなく、ラインの視界はひっくり返った。全身を固い床に打ち付けて、鈍い痛みを感じた。杖が手から離れて、床をコロコロと転がっていく。杖を拾おうとして、ラインはようやく気が付いた。魔法の縄で、両腕が拘束されている。
コツッ、コツッ
特徴的な足音が、すぐ側で聞こえた。首だけを上げて、辺りを見回すと、使い込まれた革靴と歩行杖が視界に入った。アラスター・ムーディがそこに立っていた。
「……先生?」
ムーディ先生はラインを一瞥すると、杖を一振りした。すると、セドリックの身体が床から浮き上がり、空中を動き出した。セドリックはそのまま近くの空き教室まで運ばれていき──ドサリという音がして、教室の扉が閉まった。ラインは床に転がったまま、ただ呆然と、扉に鍵がかけられるのを見つめていた。
「……先生、彼は今から試合です」
ラインは掠れた声で言った。そんな言葉しか出てこなかった。ムーディ先生がどうしてそんなことをしたのか、全く理解出来なかった。
「こやつには、競技が終わるまで、ここにいてもらう」
ムーディ先生はそう言うと、驚くほど強い力でラインの腕を引っ張り、立ち上がらせた。
「なんとしても、今日はポッターに優勝して貰わなければならん。敵は少ない方が良い」
────
個人授業のために毎週通った部屋で、ラインは床に転がって、ムーディ先生を見上げていた。
「……先生、どうして」
「わしはお前の先生では無い」
ムーディ先生は吐き捨てるように言うと、杖で真っ直ぐにラインの心臓を指した。
「俺の仕事は2つ。1つは、あのお方の元へハリーポッターを連れていくこと。そして、もう1つは、お前がこちら側の人間として使い物になるかどうか、見定めること──」
魔法の目で部屋の外を見張りながら、ムーディ先生は溜め息をついた。
「しかし、見定めるまでも無かった。お前は己の価値を理解していなかった。お前は己の力を何に活かすべきなのか、全く理解していなかった。あのお方の元で"支配する側"になれるのに、あまりにもくだらないものに心を惑わされ、時間を無駄にしている。その愚かさゆえに、服従の呪文にもかかりにくい……」
ラインはその話の意味が全く分からなかった。どうして、ダンブルドア先生の友人で、有名な闇払いのこの人が、そんなことを……?
「つまり、俺はこれからお前を殺さねばならない。これ以上、お前が魔法を覚える前に」
ムーディ先生の普通の目が、ラインをじっと見つめた。"殺す"という言葉を聞いた途端、ラインの身体は恐怖に震え出した。思い返してみれば、あの特徴的な足音はムーディ先生のものだ。どうして、今まで気が付かなかったんだろう?こういうところが、愚かなのだろうか……
ムーディ先生が時計をチラリと見た。
「俺がポッターの手助けをしている間、そこで待っていろ。今までの人生を振り返る時間をくれてやる」
ムーディ先生が杖を振ると、部屋の隅に置かれたトランクの蓋がパッと開いた。トランクの中に、小さな部屋のような空間が広がっているのが見えた。叫び声を上げる間もなく、ラインはその中へ転がり落ちた。数メートル落下したにも関わらず、大きな衝撃は感じなかった。クッションとなるもの、いや、人がいたからだ。ラインは今度こそ、叫び声を上げた。まさか、死んでいる?いや……生きている。体温がある。ラインは雷に打たれたかのように、まじまじとその人を見つめた。
「……ムーディ先生?」
呼びかけても、返事はない。彼は眠っているようだった。いつもの義足は履いておらず、ズボンが途中から平たくなっている。彼の白髪まじりの髪が不自然に切り取られているのを見て、ラインは友人達の武勇伝を思い出した。これはきっと、ポリジュース薬だ。そうだとしたら……今、ここに眠っている人が本物のアラスター・ムーディだとしたら……自分が今まで教わってきたあの人は、一体誰なんだろう?
それから、何十分経ったのか、何時間経ったのか分からない。喉がカラカラに乾き、狭い密室で酸素が足りず、意識が朦朧としてきた時だった。
「先生、あいつが復活したんです。ホグワーツに、死喰い人がいる──」
トランクの外から声が聞こえてきた。その声を聞いた途端、ラインは覚醒した。
「ハリー!」
ラインは何度も友人の名前を叫んだ。ハリーはまだ、あの男をムーディ先生だと思い込んでいる。なんとしても、ハリーに危険を知らせなければならない。
「闇の帝王の望みはただ1つ、お前を殺すこと。それなのに、ポッター、お前は再び逃げおおせた──」
あの男の声が聞こえてきた。もう、彼は正体を隠そうとしていないようだった。だとしたら、きっと、これが最後のチャンスだ。ハリーにとっても、自分にとっても。ラインは力の限り、友人の名前を叫び続けた。
「あり得ない、お前は狂ってる!」
ラインの声を掻き消すように、ハリーの叫び声が聞こえた。信じたくない──外に声が届かないなんて、信じたくない。
「自らの定めを受け入れるのだ、ハリー・ポッター……あのお方の代わりに──俺がやり遂げる!」
その言葉とともに、バリバリ、メキメキと、何かが吹き飛ばされたかのような轟音が聞こえた。ラインの頭は真っ白になった。
「ふむ、わしの友人ではないのう」
世界の終わりのような静寂の中で、誰かが言った。その声が誰のものか認識した途端、ラインは全身にビリビリと電気が流れるような気がした──助かった。
「セブルス、『真実薬』が必要なようじゃ」
もう、自分は何もしなくて良い。床に寝転がっているだけで良い……そう思うと、全身から力が抜けていった。頭上で、カチャカチャという音が聞こえた。しばらくすると、鍵が開く音とともに、トランクの中に光が差し込んだ。数時間ぶりの眩しさに、ラインは思わず目を覆った。
トランクの外に出ると、一番最初に目に飛び込んできたのは、ダンブルドア先生の足元で失神している若い男だった。知らない人だけれど、なんとなく見たことがある気がする。そして、その隣に立っているのは──
「ハリー!」
ラインは友人に抱きついた。良かった、生きている。でも、腕に怪我をしているようだ。彼は自分を抱き止めるのに、片手しか使えなかった。それに、身体がひどく震えている。何があったんだろう……
「ミス・マーリン、もう少しだけ、休息を先延ばしに出来るかの?君もその目で見て、納得する必要があるじゃろう」
ラインは頷いた。今、ベッドに潜り込んだところで、眠れる気がしなかったからだ。身体は疲れ切っているのに、脳はひどく興奮していた。
それから1分も経たないうちに、廊下を急ぎ足でやってくる足音がした。スネイプ先生が真実薬を持って、部屋に戻ってきたのだ。扉を開けた途端、スネイプ先生はその場に立ちすくんだ。
「……バーティ・クラウチ」
絞り出すような声だった。床に横たわる男の名前がそれなのだと、ラインは理解した。そして、既視感の正体にも気が付いた。男のだらしなく開いた口に、ダンブルドア先生が真実薬を流し込んだ。
「目を開けるのじゃ」
男が瞼をピクピクさせた。顔が緩み、焦点の合わない目をしている。男はゆっくりと首を動かして、その瞳にラインを映した。
「……悪くなかった」
男が呟いた。
「何が悪くなかったのかね?」
「盾の呪文。相手が俺でなければ、完全に防げていた」
ダンブルドア先生がラインを見た。この男が何を言っているのか、自分にしか分からないだろうとラインは思った。
「お前は愚かだが、素直だった。お前のような奴を教えるのは楽しかった」
男の言葉を聞いて、ラインは複雑極まりない感情になった。さっきまで、自分を殺すとか言っていたくせに……
「君がどうやってここに来たのか、教えてくれるかの?」
ダンブルドア先生が男に聞いた。
「アズカバンから逃げおおせた理由を知りたいのう」
「俺を助けるために、母が父を説き伏せた。母は自らの寿命を悟っていた──」
男が平坦な声で話しはじめた。父親との確執、クィディッチワールドカップで闇の印を打ち上げたこと、ハリーの名前をゴブレットに入れたこと……男の話を聞きながら、ラインは背筋が冷たくなるのを感じた。弱体化したヴォルデモートに、いまだに彼のような狂信的な配下がいる事が恐ろしかった。
男が全てを話し終えると、ダンブルドア先生はハリーを連れて部屋を出て行った。ラインはスネイプ先生と一緒に、男の目の前に取り残された。マダム・ポンフリーが迎えに来てくれるまで、ラインは一切、男の顔を見ないようにした。この男に対して、恐怖や憎しみ以外の、何か別の感情が湧いてくるのが怖かったからだ。
────
「──ライン!」
医務室に足を踏み入れた途端、誰かに名前を呼ばれた。周囲を見回すと、部屋の中ほどのベッドで、セドリックが今にも立ち上がろうとしているところを、彼の両親に押し戻されているのが見えた。
「ごめん!僕、君を残して失神するなんて──」
「セドリック」
ラインは彼の言葉を遮った。
「……死喰い人だったの。あの時、私たちを追ってきた人。もし貴方が時間稼ぎをしてくれなければ、私、今頃死んでいたと思う」
ラインは話しながら、自分の手が震えていることに気が付いた。今になって、死がすぐそこにあった実感が湧いてきたのだ。セドリックの目を見開いて固まった表情が、事実の恐ろしさを語っていた。
「巻き込んでしまって、ごめんなさい。それに、試合も──」
「試合なんて、どうだっていい」
今度はセドリックがラインの言葉を遮った。
「あの時、判断を間違えなくて良かった。今──君が生きていることが全てだ」
セドリックはラインを見つめて、きっぱりと言った。マダム・ポンフリーが先に進むように促したので、ラインはその言葉に頷くことしか出来なかった。振り返ると、セドリックの父親が青白い顔で、しかし誇らしげな表情で、息子の頭をくしゃくしゃと撫でているのが見えた。
「魔法睡眠薬です。夢を見ずに眠ることが出来ます。すぐに飲んで、お眠りなさい」
マダム・ポンフリーがベッドの周りのカーテンを閉めながら言った。ラインは曖昧に頷くと、パジャマに着替えてから、よろよろとベッドに潜り込んだ。疲れすぎて、頭も身体も上手く動かなかった。なんだか、学年末試験を受けたのが遠い昔のことのように思える。マダン・ポンフリーが置いていった魔法睡眠薬は、毒々しい紫色の液体だった。効果はありそうだけれど、とても美味しそうには思えない。ラインがしげしげとそれを眺めていると、カーテンの外から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「本当です。私たち、お休みを言ったらすぐに帰りますから──」
「仕方がありませんね。少しだけですよ」
マダム・ポンフリーがそう言った後、足音が2つ、こちらに向かって駆けてきた。
「私、貴方がトイレへ行くのに付いていけば良かった」
ハーマイオニーがカーテンの中に飛び込んできて、ラインを抱きしめた。シャンプーの香りと、日向ぼっこをしたばかりの猫の香りがラインの鼻腔を満たした。彼女の温もりに包まれて、ラインはようやく、安全なところに帰ってきた気がした。視界が栗色に覆われて、姿は見えなかったけれど、ロンもそこにいると分かった。
「僕たち、試合中もずっと、君のこと探してたんだ。そしたら、空き教室でセドリックが倒れてるのを見つけてさ──」
何があったのか2人に話したかったけれど、口を開けば安堵の涙まで一緒に出てきてしまいそうで、ラインは何も言うことが出来なかった。ロンが何か聞きたそうな顔で口を開いたけれど、ラインの顔を見たハーマイオニーが、すぐに彼の足を踏ん付けた。それを見て、ラインはほんの少しだけ、笑顔を取り戻した。
しばらくすると、医務室がガヤガヤとし始めた。何人もの足音が聞こえる。ダンブルドア先生やウィーズリーおばさん、それに、おそらく魔法大臣の声まで聞こえる。
「校長先生、医務室では──」
マダム・ポンフリーの怪訝そうな声が聞こえた。
「今、ハリーに最も必要な存在なのじゃ。問題はなかろう。たいそう行儀の良い犬じゃよ」
どうやら、シリウスもいるようだ。ハリーが医務室に到着したのだと、ラインはすぐに分かった。
「私たち、ハリーの様子を見てくる」
突然、ハーマイオニーが立ち上がった。
「迷路の中で何があったのか、何も分からないの。でも……きっと何か大変な事が起きてしまったんだわ」
ラインは慌てて頷いた。ハーマイオニーは最後にもう一度ラインを抱きしめると、ロンの手を引いて、カーテンの外へ出て行ってしまった。友人の温もりが消えないうちに、ラインは毛布を肩まで引っ張り上げた。本当は、2人にずっと側にいて欲しかった。でも、それは自分勝手な願いだと分かっていた。ハリーだって……いや、ハリーの方がずっと、大変な目に遭ったのだから。
ラインは再び、毒々しい紫色の睡眠薬と睨めっこを始めた。飲まなければいけない。飲めば楽になる。それは分かっていた。でも、眠ってしまうのが怖かった。もし、目が覚めた時、またあのトランクの中だったら……眠っている間に、誰かが自分を殺しに来たら……そんな嫌な想像が頭の中を埋め尽くした。
その時、ベッドの周りのカーテンが揺れた。すぐそこに、誰かがいると感じた。ラインは息を潜めて、サイドテーブルに置いてある杖へ手を伸ばした。
「……薬、ちゃんと飲むんだぞ」
その声を聞いた途端、今まで堪えていたものが決壊した。ラインは声を抑えることも忘れて、肩を震わせながらしゃくりあげた。
シャッとカーテンが開く音がした。かつてないほど青白い顔をしたジョージが、そこに立っていた。ジョージは何か言おうと口を開けたり閉じたりした後、結局、何も言わずにラインを抱きしめた。ハーマイオニーより、もっと力強くて、温かい腕だった。
「怖かった。私、まだ死にたくない」
ラインはうわ言のように繰り返した。
「君はおばあちゃんになっても、甘いもんばっかり食ってる。だから、晩年は血糖値のコントロールに苦労する。こないだ、トレローニーがそう言ってた」
ラインは思わず笑ってしまった。信憑性は無いけれど、妙に真実味のある予言だ。ジョージはラインが落ち着くまで、優しく背中をさすってくれた。そうして貰っていると、ラインは幼い頃を思い出した。確か、こうすると、父の鼓動が聞こえるんだっけ……広い背中に腕を回して、胸に頭を預けると、記憶よりも少し早い鼓動が聞こえた。
しばらくして、ラインが涙を拭くために、彼に縋り付いていた腕を離した時、ジョージの顔にはすっかり血色が戻っていた。
「さあ、これを飲むんだ」
ジョージは紫色の液体をゴブレットに注いで、ラインに差し出した。
「……私が眠るまで、側にいてくれる?」
「当たり前だろ」
それを聞くと、ラインは覚悟を決めて、一気に睡眠薬を飲み干した。たちまち効果が現れて、周りのもの全てがぼやけてきた。ベッドに潜り込み、肩まで毛布を引っ張り上げると、何か温かいものが手に触れた。しかし、それがジョージの手だと気がつく前に、ラインの瞼は閉じていた。
眠りに落ちる瞬間、ラインは優しい声を聞いた気がした。
「俺がずっと、側にいてやるからな」
美味しそうな匂いが立ち込める大広間に入ると、ラインはいつもと様子が違うことに気が付いた。大人の魔法使い達が何人か、生徒達と一緒に夕食を食べている。
「おーい、ライン!ちょっと来いよ」
自分を呼ぶ声に振り向くと、ジョージがこちらに手を振っているのが見えた。彼の隣の席にはフレッドとハリーが座っている。ラインは緩み切った頬を隠しながら、皆のところへ急いだ。いつもより、食事のメニューの品数も多い気がする。美味しそうな料理に目移りしながらグリフィンドールのテーブルに辿り着くと、そこには見慣れない2人が座っていた。ラインは彼らが誰なのか、すぐに気が付いた。彼らの髪が燃えるような赤毛だったからだ。
「ママ、ビル!」
後ろから、驚いたような声が聞こえた。振り向くと、ロンとハーマイオニーが大広間に入ってくるところだった。
「2人とも、どうしてこんなところにいるの?」
「ハリーの勇姿を見届けに来たのよ」
ウィーズリーおばさんがにっこりした。
「ママ、この子がラインだよ。ほら、前に話した、ロンの新しい友達」
ジョージの言葉を聞いて、ラインはようやく自分のするべき事に気が付いた。
「初めまして。ライン・マーリンです」
「この子、甘いものに目がないんだ。ママの糖蜜プディングを食べてみたいって」
「あら、まあ──嬉しいわ。じゃあ、今度のお休みに家に食べに来なさいな」
「"みんな"待ってるよ」
ビルがニヤリと笑った。
夕焼けのオレンジ色から日暮れの紫色に移ろう天井を眺めながら、ラインは食後のデザートを楽しんでいた。いつもより豪華なメニュー、絶対に後悔するわけにはいかない。プリン・アラモードで締めようと思ったけれど、やっぱりもう1度、マルカルポーネのチーズケーキも食べておこう──
「紳士、淑女のみなさん」
ラインは顔を上げた。教職員テーブルでダンブルドア先生が立ち上がっている。なんとなく目が合った気がして、ラインは残りのチーズケーキをまとめて口に押し込んだ。
「今から15分後──三大魔法学校対抗試合、最後の課題が開始される。代表選手はバグマン氏に従って、すぐに控え室へ向かうのじゃ」
ハリーが立ち上がると、グリフィンドールのテーブルから一斉に拍手が起こった。彼は緊張した顔をしていたけれど、皆に微笑み返す余裕はあるようだったので、ラインは感心してしまった。やっぱり、何度も修羅場を乗り越えてきた人間は強い。自分の方がよほど、緊張しているみたいだ。ただ、競技を見守るだけなのに──友人の背中を見送った後、ラインはハーマイオニーに耳打ちした。
「私、お手洗いに行ってから競技場へ向かおうかな」
「分かったわ。じゃあ、競技場の入口で落ち合いましょう」
大広間と同じ階の女子トイレには、ライン以外、誰も利用者がいなかった。皆は観戦の前にトイレに行かなくても大丈夫なんだろうか?もしかすると、自分が知らないだけで、競技場の中にもトイレがあるのかもしれない……そんな考え事をしていたのに、廊下へ続く扉を開けた途端、ラインははっきりと違和感を感じた。先ほどまでとは明らかに違う、ピンと張り詰めた、恐ろしく冷たい空気が辺りに漂っている。何故だか、大広間の喧騒も一切聞こえない。それに、誰かに見張られているような感覚がある。ラインはこの感覚に覚えがあった。とにかく、このままここにいるのはまずい。ラインは震える足で廊下へ踏み出した。
「おい──おい、ライン!」
数メートルも進まないうちに、誰かに呼び止められた。振り向くと、競技用ユニフォームの鮮やかな色が目に飛び込んできた。
「こんなところで、どうしたの?」
動転しながら聞くと、セドリックは困ったように笑った。
「トイレに行っていたんだ。緊張しちゃって」
「そっか……これからだものね」
そうだった。彼はこれから、最後の課題に挑むのだ。緊張しないわけがない。そして、そんな彼を自分の問題に巻き込むわけにはいかない。
「じゃあ、頑張ってね!応援してる」
ラインは精一杯の笑顔を作り、セドリックに手を振った。しかし、彼はその場から動こうとしなかった。
「君……分かりやすいって言われないか?」
セドリックが苦笑いした。
「どうして走ってたんだ?もしかして、また、あの気配を感じた?」
「ううん、何ともないわ。セドリック、本当に急がないと」
ラインが言うと、セドリックはますます眉尻を下げた。
「分かった。じゃあ、僕を控え室まで送ってくれ。1人じゃ不安なんだ」
返す言葉が思い付かず、ラインは呆気なく舌戦に敗北した。きっと、何を言おうと、彼は1人でここから立ち去ったりしないだろう。そういう人だから、彼は代表選手なのだ。
「……ありがとう」
小さな声でお礼を言うと、セドリックは満足そうに微笑んだ。彼は杖を取り出して、周囲を睨み付けてくれたけれど、恐ろしい気配は消えなかった。しかし、彼が隣を歩いてくれることで、言葉では言い表せないほど、ラインは勇気付けられた。
──いいかい、ライン。不審者に遭遇した時は、とにかく、広いところや人のいるところに逃げるんだ──
いつだったか、父に言われた言葉を思い出す。でも、もし、その不審者が空間の広さを変化させたり、人を寄せ付けないように出来るとしたら、どうすればいいんだろう?
……セドリックは気が付いているだろうか?自分達のものでは無い、衣擦れの音が後を追って来ることに。石を打つ音のような、特徴的な足音が近付いてくることに。もはや、その気配は隠れるつもりも無いようだった。
「ライン、止まるんだ」
セドリックが廊下の奥に目を凝らした。
「君が怯えている理由が分かったよ。これは、もう、ここではっきりさせた方がいい」
セドリックはラインを近くに引き寄せると、胸の前に杖を構えた。
「姿を見せろ。お前の目的は何だ?」
静まり返った廊下で、セドリックの声はよく響いた。しかし……何者も姿を現さない。何事も起こらない。
「ホメナムレベリオ、人現れよ」
セドリックが呪文を唱えると、丸い光のようなものが彼の杖先から飛び出して、廊下の奥にすーっと飛んで行った。そして、次の瞬間──
「セドリック!」
ラインは悲鳴を上げた。セドリックは赤い閃光をまともに顔に受けて、ドサリと床に崩れ落ちた。ラインは倒れた友人の前に踏み出して、無我夢中で呪文を唱えた。
「プロテゴ、護れ!」
ラインに向かって飛んできた白い閃光が、壁の一部とともに吹き飛んだ。しかし、次の呪文を唱える間もなく、ラインの視界はひっくり返った。全身を固い床に打ち付けて、鈍い痛みを感じた。杖が手から離れて、床をコロコロと転がっていく。杖を拾おうとして、ラインはようやく気が付いた。魔法の縄で、両腕が拘束されている。
コツッ、コツッ
特徴的な足音が、すぐ側で聞こえた。首だけを上げて、辺りを見回すと、使い込まれた革靴と歩行杖が視界に入った。アラスター・ムーディがそこに立っていた。
「……先生?」
ムーディ先生はラインを一瞥すると、杖を一振りした。すると、セドリックの身体が床から浮き上がり、空中を動き出した。セドリックはそのまま近くの空き教室まで運ばれていき──ドサリという音がして、教室の扉が閉まった。ラインは床に転がったまま、ただ呆然と、扉に鍵がかけられるのを見つめていた。
「……先生、彼は今から試合です」
ラインは掠れた声で言った。そんな言葉しか出てこなかった。ムーディ先生がどうしてそんなことをしたのか、全く理解出来なかった。
「こやつには、競技が終わるまで、ここにいてもらう」
ムーディ先生はそう言うと、驚くほど強い力でラインの腕を引っ張り、立ち上がらせた。
「なんとしても、今日はポッターに優勝して貰わなければならん。敵は少ない方が良い」
────
個人授業のために毎週通った部屋で、ラインは床に転がって、ムーディ先生を見上げていた。
「……先生、どうして」
「わしはお前の先生では無い」
ムーディ先生は吐き捨てるように言うと、杖で真っ直ぐにラインの心臓を指した。
「俺の仕事は2つ。1つは、あのお方の元へハリーポッターを連れていくこと。そして、もう1つは、お前がこちら側の人間として使い物になるかどうか、見定めること──」
魔法の目で部屋の外を見張りながら、ムーディ先生は溜め息をついた。
「しかし、見定めるまでも無かった。お前は己の価値を理解していなかった。お前は己の力を何に活かすべきなのか、全く理解していなかった。あのお方の元で"支配する側"になれるのに、あまりにもくだらないものに心を惑わされ、時間を無駄にしている。その愚かさゆえに、服従の呪文にもかかりにくい……」
ラインはその話の意味が全く分からなかった。どうして、ダンブルドア先生の友人で、有名な闇払いのこの人が、そんなことを……?
「つまり、俺はこれからお前を殺さねばならない。これ以上、お前が魔法を覚える前に」
ムーディ先生の普通の目が、ラインをじっと見つめた。"殺す"という言葉を聞いた途端、ラインの身体は恐怖に震え出した。思い返してみれば、あの特徴的な足音はムーディ先生のものだ。どうして、今まで気が付かなかったんだろう?こういうところが、愚かなのだろうか……
ムーディ先生が時計をチラリと見た。
「俺がポッターの手助けをしている間、そこで待っていろ。今までの人生を振り返る時間をくれてやる」
ムーディ先生が杖を振ると、部屋の隅に置かれたトランクの蓋がパッと開いた。トランクの中に、小さな部屋のような空間が広がっているのが見えた。叫び声を上げる間もなく、ラインはその中へ転がり落ちた。数メートル落下したにも関わらず、大きな衝撃は感じなかった。クッションとなるもの、いや、人がいたからだ。ラインは今度こそ、叫び声を上げた。まさか、死んでいる?いや……生きている。体温がある。ラインは雷に打たれたかのように、まじまじとその人を見つめた。
「……ムーディ先生?」
呼びかけても、返事はない。彼は眠っているようだった。いつもの義足は履いておらず、ズボンが途中から平たくなっている。彼の白髪まじりの髪が不自然に切り取られているのを見て、ラインは友人達の武勇伝を思い出した。これはきっと、ポリジュース薬だ。そうだとしたら……今、ここに眠っている人が本物のアラスター・ムーディだとしたら……自分が今まで教わってきたあの人は、一体誰なんだろう?
それから、何十分経ったのか、何時間経ったのか分からない。喉がカラカラに乾き、狭い密室で酸素が足りず、意識が朦朧としてきた時だった。
「先生、あいつが復活したんです。ホグワーツに、死喰い人がいる──」
トランクの外から声が聞こえてきた。その声を聞いた途端、ラインは覚醒した。
「ハリー!」
ラインは何度も友人の名前を叫んだ。ハリーはまだ、あの男をムーディ先生だと思い込んでいる。なんとしても、ハリーに危険を知らせなければならない。
「闇の帝王の望みはただ1つ、お前を殺すこと。それなのに、ポッター、お前は再び逃げおおせた──」
あの男の声が聞こえてきた。もう、彼は正体を隠そうとしていないようだった。だとしたら、きっと、これが最後のチャンスだ。ハリーにとっても、自分にとっても。ラインは力の限り、友人の名前を叫び続けた。
「あり得ない、お前は狂ってる!」
ラインの声を掻き消すように、ハリーの叫び声が聞こえた。信じたくない──外に声が届かないなんて、信じたくない。
「自らの定めを受け入れるのだ、ハリー・ポッター……あのお方の代わりに──俺がやり遂げる!」
その言葉とともに、バリバリ、メキメキと、何かが吹き飛ばされたかのような轟音が聞こえた。ラインの頭は真っ白になった。
「ふむ、わしの友人ではないのう」
世界の終わりのような静寂の中で、誰かが言った。その声が誰のものか認識した途端、ラインは全身にビリビリと電気が流れるような気がした──助かった。
「セブルス、『真実薬』が必要なようじゃ」
もう、自分は何もしなくて良い。床に寝転がっているだけで良い……そう思うと、全身から力が抜けていった。頭上で、カチャカチャという音が聞こえた。しばらくすると、鍵が開く音とともに、トランクの中に光が差し込んだ。数時間ぶりの眩しさに、ラインは思わず目を覆った。
トランクの外に出ると、一番最初に目に飛び込んできたのは、ダンブルドア先生の足元で失神している若い男だった。知らない人だけれど、なんとなく見たことがある気がする。そして、その隣に立っているのは──
「ハリー!」
ラインは友人に抱きついた。良かった、生きている。でも、腕に怪我をしているようだ。彼は自分を抱き止めるのに、片手しか使えなかった。それに、身体がひどく震えている。何があったんだろう……
「ミス・マーリン、もう少しだけ、休息を先延ばしに出来るかの?君もその目で見て、納得する必要があるじゃろう」
ラインは頷いた。今、ベッドに潜り込んだところで、眠れる気がしなかったからだ。身体は疲れ切っているのに、脳はひどく興奮していた。
それから1分も経たないうちに、廊下を急ぎ足でやってくる足音がした。スネイプ先生が真実薬を持って、部屋に戻ってきたのだ。扉を開けた途端、スネイプ先生はその場に立ちすくんだ。
「……バーティ・クラウチ」
絞り出すような声だった。床に横たわる男の名前がそれなのだと、ラインは理解した。そして、既視感の正体にも気が付いた。男のだらしなく開いた口に、ダンブルドア先生が真実薬を流し込んだ。
「目を開けるのじゃ」
男が瞼をピクピクさせた。顔が緩み、焦点の合わない目をしている。男はゆっくりと首を動かして、その瞳にラインを映した。
「……悪くなかった」
男が呟いた。
「何が悪くなかったのかね?」
「盾の呪文。相手が俺でなければ、完全に防げていた」
ダンブルドア先生がラインを見た。この男が何を言っているのか、自分にしか分からないだろうとラインは思った。
「お前は愚かだが、素直だった。お前のような奴を教えるのは楽しかった」
男の言葉を聞いて、ラインは複雑極まりない感情になった。さっきまで、自分を殺すとか言っていたくせに……
「君がどうやってここに来たのか、教えてくれるかの?」
ダンブルドア先生が男に聞いた。
「アズカバンから逃げおおせた理由を知りたいのう」
「俺を助けるために、母が父を説き伏せた。母は自らの寿命を悟っていた──」
男が平坦な声で話しはじめた。父親との確執、クィディッチワールドカップで闇の印を打ち上げたこと、ハリーの名前をゴブレットに入れたこと……男の話を聞きながら、ラインは背筋が冷たくなるのを感じた。弱体化したヴォルデモートに、いまだに彼のような狂信的な配下がいる事が恐ろしかった。
男が全てを話し終えると、ダンブルドア先生はハリーを連れて部屋を出て行った。ラインはスネイプ先生と一緒に、男の目の前に取り残された。マダム・ポンフリーが迎えに来てくれるまで、ラインは一切、男の顔を見ないようにした。この男に対して、恐怖や憎しみ以外の、何か別の感情が湧いてくるのが怖かったからだ。
────
「──ライン!」
医務室に足を踏み入れた途端、誰かに名前を呼ばれた。周囲を見回すと、部屋の中ほどのベッドで、セドリックが今にも立ち上がろうとしているところを、彼の両親に押し戻されているのが見えた。
「ごめん!僕、君を残して失神するなんて──」
「セドリック」
ラインは彼の言葉を遮った。
「……死喰い人だったの。あの時、私たちを追ってきた人。もし貴方が時間稼ぎをしてくれなければ、私、今頃死んでいたと思う」
ラインは話しながら、自分の手が震えていることに気が付いた。今になって、死がすぐそこにあった実感が湧いてきたのだ。セドリックの目を見開いて固まった表情が、事実の恐ろしさを語っていた。
「巻き込んでしまって、ごめんなさい。それに、試合も──」
「試合なんて、どうだっていい」
今度はセドリックがラインの言葉を遮った。
「あの時、判断を間違えなくて良かった。今──君が生きていることが全てだ」
セドリックはラインを見つめて、きっぱりと言った。マダム・ポンフリーが先に進むように促したので、ラインはその言葉に頷くことしか出来なかった。振り返ると、セドリックの父親が青白い顔で、しかし誇らしげな表情で、息子の頭をくしゃくしゃと撫でているのが見えた。
「魔法睡眠薬です。夢を見ずに眠ることが出来ます。すぐに飲んで、お眠りなさい」
マダム・ポンフリーがベッドの周りのカーテンを閉めながら言った。ラインは曖昧に頷くと、パジャマに着替えてから、よろよろとベッドに潜り込んだ。疲れすぎて、頭も身体も上手く動かなかった。なんだか、学年末試験を受けたのが遠い昔のことのように思える。マダン・ポンフリーが置いていった魔法睡眠薬は、毒々しい紫色の液体だった。効果はありそうだけれど、とても美味しそうには思えない。ラインがしげしげとそれを眺めていると、カーテンの外から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「本当です。私たち、お休みを言ったらすぐに帰りますから──」
「仕方がありませんね。少しだけですよ」
マダム・ポンフリーがそう言った後、足音が2つ、こちらに向かって駆けてきた。
「私、貴方がトイレへ行くのに付いていけば良かった」
ハーマイオニーがカーテンの中に飛び込んできて、ラインを抱きしめた。シャンプーの香りと、日向ぼっこをしたばかりの猫の香りがラインの鼻腔を満たした。彼女の温もりに包まれて、ラインはようやく、安全なところに帰ってきた気がした。視界が栗色に覆われて、姿は見えなかったけれど、ロンもそこにいると分かった。
「僕たち、試合中もずっと、君のこと探してたんだ。そしたら、空き教室でセドリックが倒れてるのを見つけてさ──」
何があったのか2人に話したかったけれど、口を開けば安堵の涙まで一緒に出てきてしまいそうで、ラインは何も言うことが出来なかった。ロンが何か聞きたそうな顔で口を開いたけれど、ラインの顔を見たハーマイオニーが、すぐに彼の足を踏ん付けた。それを見て、ラインはほんの少しだけ、笑顔を取り戻した。
しばらくすると、医務室がガヤガヤとし始めた。何人もの足音が聞こえる。ダンブルドア先生やウィーズリーおばさん、それに、おそらく魔法大臣の声まで聞こえる。
「校長先生、医務室では──」
マダム・ポンフリーの怪訝そうな声が聞こえた。
「今、ハリーに最も必要な存在なのじゃ。問題はなかろう。たいそう行儀の良い犬じゃよ」
どうやら、シリウスもいるようだ。ハリーが医務室に到着したのだと、ラインはすぐに分かった。
「私たち、ハリーの様子を見てくる」
突然、ハーマイオニーが立ち上がった。
「迷路の中で何があったのか、何も分からないの。でも……きっと何か大変な事が起きてしまったんだわ」
ラインは慌てて頷いた。ハーマイオニーは最後にもう一度ラインを抱きしめると、ロンの手を引いて、カーテンの外へ出て行ってしまった。友人の温もりが消えないうちに、ラインは毛布を肩まで引っ張り上げた。本当は、2人にずっと側にいて欲しかった。でも、それは自分勝手な願いだと分かっていた。ハリーだって……いや、ハリーの方がずっと、大変な目に遭ったのだから。
ラインは再び、毒々しい紫色の睡眠薬と睨めっこを始めた。飲まなければいけない。飲めば楽になる。それは分かっていた。でも、眠ってしまうのが怖かった。もし、目が覚めた時、またあのトランクの中だったら……眠っている間に、誰かが自分を殺しに来たら……そんな嫌な想像が頭の中を埋め尽くした。
その時、ベッドの周りのカーテンが揺れた。すぐそこに、誰かがいると感じた。ラインは息を潜めて、サイドテーブルに置いてある杖へ手を伸ばした。
「……薬、ちゃんと飲むんだぞ」
その声を聞いた途端、今まで堪えていたものが決壊した。ラインは声を抑えることも忘れて、肩を震わせながらしゃくりあげた。
シャッとカーテンが開く音がした。かつてないほど青白い顔をしたジョージが、そこに立っていた。ジョージは何か言おうと口を開けたり閉じたりした後、結局、何も言わずにラインを抱きしめた。ハーマイオニーより、もっと力強くて、温かい腕だった。
「怖かった。私、まだ死にたくない」
ラインはうわ言のように繰り返した。
「君はおばあちゃんになっても、甘いもんばっかり食ってる。だから、晩年は血糖値のコントロールに苦労する。こないだ、トレローニーがそう言ってた」
ラインは思わず笑ってしまった。信憑性は無いけれど、妙に真実味のある予言だ。ジョージはラインが落ち着くまで、優しく背中をさすってくれた。そうして貰っていると、ラインは幼い頃を思い出した。確か、こうすると、父の鼓動が聞こえるんだっけ……広い背中に腕を回して、胸に頭を預けると、記憶よりも少し早い鼓動が聞こえた。
しばらくして、ラインが涙を拭くために、彼に縋り付いていた腕を離した時、ジョージの顔にはすっかり血色が戻っていた。
「さあ、これを飲むんだ」
ジョージは紫色の液体をゴブレットに注いで、ラインに差し出した。
「……私が眠るまで、側にいてくれる?」
「当たり前だろ」
それを聞くと、ラインは覚悟を決めて、一気に睡眠薬を飲み干した。たちまち効果が現れて、周りのもの全てがぼやけてきた。ベッドに潜り込み、肩まで毛布を引っ張り上げると、何か温かいものが手に触れた。しかし、それがジョージの手だと気がつく前に、ラインの瞼は閉じていた。
眠りに落ちる瞬間、ラインは優しい声を聞いた気がした。
「俺がずっと、側にいてやるからな」