洋琴抄
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
いつも1人で、食堂に居ても教室に居ても、用が終わったらすぐに逃げるように移動しているノーメイクの子、というのが第一印象だった。
入学式の日に──ポムフィオーレに選ばれたっていうのにノーメイクだったから、叱ってしまったことを思い出したのは──そこの子、と呼び止めたのにすみませんと謝罪しながら足速に逃げられた時。
何か理由がある、と勘付いて教室まで行って、逃げるから教室の隅まで追い詰めてメイクをしない理由を問い詰めた。わかりやすく耳がイカみたいになるから、素直な子、と。
してる時としてない時の違いがわからないし手順通りにやってみたら間違ってたみたいで笑われてしまったことがあるんです──と。ぷるぷる震えながら言う姿に、かわいいじゃない、と思った。
いいわ。教えてあげる、とマンツーマンでレッスンを繰り返してあげた。多少難航するのは想定していたけれど、予想以上に──驚くほど覚えが悪くて、少し苛ついてしまった、と思う。アタシの声に耳を下げるのを見て、ああ、今少し苛ついてたわ、と自省し、レッスンを続けてあげた。でも、ルイは頑張っている気配はあるものの──結局頑張っている気配、それだけだった。それしかなかった。
ルイはまたアタシを避け始めた。顔の造形が捉えられない代わりに何か別の部分で人を判別しているのかしら、影を見た気がする時にはもう居ないような隠れぶりで、アタシは再度ルイの教室まで赴き、追いかけ回してルイを隅に追い詰め捕まえた。
すみませんごめんなさいと震え、全力で小さくなりながら謝罪されて思わず溜め息が出る。
「……仕方ないわ。アタシも大人気なくてごめんなさい」
続けて、式典の時にはアタシがメイクやってあげるから、ちゃんと顔出すのよ、と言ったら──またわかりやすく瞳孔がぎゅうと縮んで、口を少し開いて、心から驚愕した表情をしていて。思わずくすりと笑ってしまった。
そういえばこの子のことなんにも知らなかったわね、と思って、大食堂で食事をしているところをまた捕まえて、親とは仲がいいかとか、趣味は何かとか、当たり障りのないことを訊いた。
ルイは最初は戸惑っているようで居心地が悪そうだったけれど、幾度か繰り返すうちに食堂でアタシを見つけるとおずおずと寄ってくるようになって、また、かわいいじゃない、と思わされ。
悪い子じゃないのはわかっていたし、不器用で怖がりで頼れる人も居なさそうだったから、どこか放っておけないような心地がした。
叱らないように、怯えさせないようにしながら、少しずつ質問を繰り返して、楽器が趣味だというからピアノを弾かせてみたら──その腕前の見事なこと!
何故か悔しいような、どこか納得いくような気持ちになりながら、それでも拍手をしてやると、驚いた表情をした後に、嬉しそうにそれはそれはかわいい顔で微笑むルイ。
知らない曲だった。なんて曲なの、素敵じゃない。と問うと、恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに、自慢げに、──自分で作った曲です、と。
その瞬間、この子はアタシが磨き上げないと、という──使命感にも似たものが確信として現れた。
流石アタシ、そういうの無意識に嗅ぎ分けてたのね。とルイの才能をどこかで見抜いていたらしい自分に関心を覚えながら、連絡先を交換して、試しに仕事を一つ振ってやった。その日のうちにとりあえず雰囲気だけですがこんなのはいかがでしょう、とピアノだけで何曲か送られてきて、──必要ならばピアノだけではなくギターや他の楽器もいくつか入れられます、とまで付け加えられて。アタシは興奮を押し隠して尚も指示を送って、いくつか楽器を入れた曲を一曲完成させた。
そして──音楽のプロデューサーに、何も言わずルイの曲を聴かせた。「これは何に使う曲?」と──生音みたいだし録音環境があまり良くないけど──次のドラマか舞台かの劇伴かい、アガるね──と、彼はプロが作ったこと前提で話を進めたので、アタシはアタシの審美眼が、間違っていなかったことを確信の段階まで上げて。
──アンタ将来、音楽関係の仕事するの?
それなら現場経験今からでも学校の合間に積んでおいてもいいかもしれないわね、それにデビューは若い方がいいわ。と言うと、ルイは──なりたいのは山々なんですが、両親が反対するんです、と。
アンタ親に自分の曲を聴かせたことがないの!?と驚いてアタシが叫ぶと、ルイは口を歪めて、歪めて、何か言いたげにして心底嬉しそうに。
でも、もじもじするだけでいくら待っても何も出てこないから、アタシが痺れを切らして──実績を作ってしまえば反対もされなくなるわ、実績を作るわよ。アンタを売り込む。良い?とルイの顔を覗き込んで許可をとってやった。
ルイはこくこくこくと小刻みに頷いて、頬を染めて瞳を揺らして、何も言えないまま。なにアンタ随分可愛げあるじゃない、と耳の先端を指でふにふにと弄ると、嬉しさと楽しさの視線をこちらに向けたまま──ルイはぴぴぴとアタシの指に摘まれている方の耳を小刻みに動かして、まるで嫌がっているみたいにして戯れてきて。
思わず溜め息が出た。なんだか、この子とは長い付き合いになりそうね、と。
その予感は的中し、今現在こんな関係にまでなっている訳だけれど──やっぱり何度見ても美しいわね、と思う。ルイのピアノを弾く姿は。姿に見惚れていても、音が耳に入らないなんてことはなく、ただ美しい音と辻褄の合う動きが美しくて、美しくて。
「……まずこれがこのシーンの1曲目で」
「ええ」
相槌を打つと、また別の曲が始まる。同じ場面の用途の劇伴だから勿論雰囲気は似ているけれど、メロディーは違う。どちらも忌憚なく良いと思えてしまって、素敵、と口に出た。ルイの耳が片方こちらに向くので聞こえたのだろうけれど、手は止まらない。
なんて贅沢なのかしら、と溜め息が出る。まるで高級な入浴剤でも使って入浴した後にオイルマッサージでも受けているような気分。浸透圧の大きい質の良い幸福が勝手に流れ込んでくるような心地。ソファーの肘掛けに腕を両方置いて、その上に側頭部を置いてルイを見つめる。綺麗。
このまま時間が止まればいいのに、だなんて使い古したようなことを考えてしまって溜め息を吐いた。自分がすごくリラックスできているのがわかる。幸せ、だなんて。いつぶりかわからないけど、もう一度考えることができて。もう無理なんじゃないかと考えていたのに。──嬉しいわ。ありがとう、ルイ、好きよ、って。
休憩にサンドイッチを食べて水筒から水を飲みはじめたルイの耳の根本を指でふにふに弄りながら言うと、それはそれは嬉しそうにこの後輩は微笑みをこちらへ向ける。本当いつまで経ってもかわいいわね、と頭を撫でてやるとくすくす笑っているので、搔き抱いてやりたいような気分になったけれど、なんとなく頭を撫でてやるだけに留めておいた。