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それでもあなたの痛みが美味しい




「あなた、最近距離が近くないですか」


書類を読んでいるアズールさんの隣に腰をおろして一緒に書類を見ていると、そんなことを言われる。


「キスもお嫌ではないのでしたら、このくらいはお嫌ではないかなと言う判断です。無論いやでしたらすぐにやめます」

「別に……どうでもいいです」


ふん、と鼻を鳴らすアズールさんがその話題を選んで欲しくないのは一目瞭然で、先日のキスは彼としても少々恥ずかしい行為であったのだろう。


「ところで、今年もやるのですね、アレ」

「温室育ちの馬鹿に契約の恐ろしさを知らしめてやるのです」

「何事も学生のうちに経験しておいた方がよいのです。本当にあなたは慈悲深い……今度は学園長に何を要求するのですか?」

「学食とモストロ・ラウンジの連携及びモストロラウンジの今後の営業にてNRCのブランドを使用する許可です」

「なるほど。学食とモストロラウンジの連携とは具体的に何をするのですか?」

「NRCには歴史がありますからね。学食と連携すれば、仕入れ先などから自ずと古くから関係を築いている家々を見ることが出来る…これは今後の店の展開方法の参考になりますし、学園として仕入れた食材をモストロラウンジに使用することも出来るとなれば、料理の幅が広がります」

「良いですね。流石はアズールさんです」

「あなた、褒めておけば良いと思っているでしょう」

「あなたに褒める部分しかないのが悪いのですよ」


アズールさんは案外わかりやすくて、純粋な愛情表現が好きだ。ただ自分がいることで安楽を感じて欲しかったぼくは、日々愛を囁き続けていた。

畏怖を込めた賞賛しか味わったことがなかったのだろう、彼はぼくのそれに畏怖を込めてやろうとぼくに酷く当たることも茶飯事だったが、ぼくは生憎とマゾヒストだった。

根比べになっている自覚はなかったが、実際そうなっていたのだろう。好意を足蹴にされても尚懐いてくるぼくを見て情が湧いたのか、彼はぼくの好意を多少の嫌味と共に受け入れてくれるようになった。


「愛しています、アズールさん」

「あなたは本当にそればかりだ」

「あなたに伝えるべきことが、もうこれしかないのです」

「言っておきますが、僕はあなたと交際をする気はありませんよ」

「交際……?ああ、そんなことまるで考えていませんでした。わざわざそんな関係を結ばずとも、ぼくがアズールさんを愛していると言うだけでよいじゃないですか」

「何を企んでいるのですか」

「何も企んでいませんよ。好きな人にくっ付いて好きだと言えるのは、最高の贅沢ですね」

「はやく飽きなさい」

「自分に酸素を与えることに飽きる人が居ますか?そう言うことなのですけれどね」

「おまえの言うことはわからない」

「アズールさんを食べてしまったので、ぼくもアズールさんに、中途半端ですがなってしまったと言うことですよ」


じとりと胡乱げな瞳を向けられる。


「あなたの幸せを願っています。ぼくはあなたの一部だからです」

「気色の悪い……」

「ぼくはあなたの一部ですが、あなたがぼくだとはちっとも思いませんので、気味悪がらないでください」

「おまえ、前に似たようなことを言っていましたね」

「愛の話ですか?そうです。この話は愛の話と同一です。ぼくはあなたを愛しているのであなたの一部ですが、あなたはぼくを愛していないのでぼくの一部ではありません。そういうことです」

「なら代わりに書類整理をやっておきなさい、アズール・アーシェングロットの一部さん」

「はい、ご主人様」


ぼくがそう返事をすると、アズールさんはギョッとしたような視線でぼくを見つめる。

彼が一般生徒に自らをこう呼ばせているのを聞いて、こう言うのが好きだと勝手に思っていたのだけれど、ぼく相手にそれは当て嵌まらないのかもしれない。


「おまえに隷属されても気色が悪いのです」

「ぼくが一番隷属したがっていると思うのですがね」

「嫌がる相手を屈服させてこそ意味がある」

「ああ……それは同感かもしれません」

「大概ですね、あなた」


アズールさんはそう言ってぼくから距離を取る。

アズールさんが先に話を振ってきて、ぼくがそれに同意すると引かれて梯子を外されて。なんだか納得いかないような納得いくような微妙な気持ちだ。


「おまえは一年生の初めの頃はヴィルさんのお気に入りだと噂されていたこともあったのですがね、どうしてこうなってしまったのでしょう」


ヴィル・シェーンハイトさん。それは心なしか懐かしい響きだった。

一年生の本当に入学したての時、寮でばったり出会った際に身嗜みを少しだけ褒めて貰えて、それが始まりだったと思う。

ぼくとヴィルさんは時折ばったり会った時に、移動中だけ議論を交わす仲になった。ヴィルさんと会話をして、彼女の倫理観に信頼を覚えていたぼくはその流れでぼくの思想を彼女へ吐露した。するとヴィルさんはぼくが思ったよりぼくに、ぼくの思想に興味を持ってくれて、一時期は食事を共にしていたこともあったと思う。

彼の食生活が元々どちらかと言うとベジタリアンにほど近いと言うのもあったと思うが、彼がぼくの前で当たり前のようにちゃんとビーガン食を選んでくれた時に、きゅんとしたのを覚えている。

何故彼女との関係がそこで切れてしまったかと言うと、ぼくのせいだ。

ぼくはその頃、食事の後に精神安定剤を飲んで、食事は常に完全栄養食を最低限の量、と言う選択をしていた。動物が、人が、今もどこかで苦しんでいるのにぼくだけが美味しいもので満腹になっていていいのかと、幸福感に、満腹感に恐怖を感じていたからだ。

美味しいご飯を食べることに罪悪感を覚え、食事は飲める泥と言った風味の完全栄養食を常に選び、でも目の前で肉を食べられてもそれを止めるほどの勇気はなく、人が肉を食べるのを見てしまった後はまたいじめを見て見ぬふりをしてしまったと、罪悪感で手首を切る自傷行為をしていたと思う。

ぼくはマゾヒストだが、それらは決して好きでやっているものではなかった。ぼくはお気に入りのサディストがぼくを使っている様子を見るのが好きなマゾヒストであって、苦痛そのものを快楽に変換できる訳ではないのだ。

自傷行為は、二人きりの場所で咎められた。「罰を与えているんです」とぼくは言った。「自分に罰を与えないと、いじめを見て見ぬふりをした自分が許せなくて自分を殺してしまいたくなるから、罰を与えた気にならないと、生きていけないんです」

ぼくの穴だらけの耳も決しておしゃれなどではなくそう言うことだとヴィルさんは察してくれたらしく、「罰を与えるなら体幹トレーニングの回数を増やすとか、そう言うことをしなさい」と言ってくれた。彼女はずっと支配者側で生きてきた人間だと思っていたのだが、心理的にはそうではなかったのだろう、驚くほど弱者の心理に理解があった。

でもぼくはダメだった。「苦痛の記憶として、証として残っていて、いつでも触れられると、落ち着くんです。ぼくは自分の罪を忘れていないから、大丈夫だって」ぼくには、精神が不安定な時に手首か耳を触って傷跡を確認する癖があった。そうすると、いつもとても落ち着いた。

ヴィルさんはぼくを憐れんだ表情で見つめた。憐れみの中には悲しみが混ざっていた。その時に、ヴィルさんは、ヴィルさんがぼくを救えないことを察したのだろう。その後その話題については触れられず、ヴィルさんはぼくの増える自傷跡とピアスを見る度に少しだけ目を見開き、しかし何も言わないでくれた。暫く見える場所に傷を増やさないと、「どこにやったの?」と問い掛けて来てくれたこともあった。「へそにあけました」とぼくが正直に言うと、ヴィルさんは「あんまり増やすのはあれだけれど、手首切るよりアタシはこちらの方が好みね」と言ってくれた。ぼくの精神が安定している時に、簡単な回復魔法を教えてくれたこともあった。

ヴィルさんのことは今でも尊敬しているし、大好きだ。けれど、あの頃のぼくは酷く精神的に不安定だった。

ヴィルさんが努力をする余裕のない人間──その頃のぼくとか──に努力を強いないのは知っていた。理解っていた。けれど、ぼくは彼女が努力不足を寮生に指摘するのを見る度に、自分が責められている気になった。

ごめんなさい。努力しなくてごめんなさい。許してください。いじめを見て見ぬふりをしてごめんなさい。生きててごめんなさい。死ぬにも迷惑を掛けるから死ねなくてごめんなさい。あなたの視界に入ってごめんなさい。ぼくのせいで苦しめて、迷惑をかけて、不快にさせてごめんなさい。

そんな思いが高じて、ぼくはヴィルさんを避け始めてしまった。ぼくはヴィルさんが大好きだったが、彼に、酷く恐怖を感じてしまっていた。ヴィルさんはすぐにそれに気付いて、ぼくの前で寮生を叱らなくなった。その優しい心遣いが、痛くて、痛くて、痛くて仕方がなかった。ごめんなさい。ぼくのせいで、ごめんなさい。あなたは悪くないんです。ぼくが悪いんです。もう死んだ方が良いですか?でも死んだら迷惑をかけますよね。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

彼女との最後の記憶は、通路でばったり会い同じ方向に行く時に、「あなたはもう少し鈍感であればよかったわね」と独り言を呟く様に言われたことだった。

ぼくもそれには同感だった。もう少しだけ鈍感だったら、きっと、彼とは友人になれたと思う。もしかしたら、もしかしたらだけど、親友にだって。


「ヴィルさんはきっと、アズールさんとぼくが仲良しになったことを喜んでくれていますよ。あの人は結構ぼくのことを可愛がってくれていたので」

「ええ。〝うちの子が近頃アンタの所で世話になってるみたいじゃない、アンタに頼むのは癪だけど、よろしくね〟と直々に」

「わあ、初耳なのですが」

「そりゃ言っていないですからね」


〝うちの子〟と形容されていたことに照れる。そうだ。ぼくはポムフィオーレの寮生で、ヴィルさんのところの子だ。


「……あなた、ヴィルさんではなく、どうして僕なんですか」


アズールさんの問い掛けに、思わず目を瞬かせる。


「ヴィルさんのことも確かに大好きですが」

「手が届かない?」

「アズールさんにだって届かないですよ」

「ヴィルさんではなく、僕である理由は?」


真意を探る様に瞳を覗き込まれ、ぼくは思わずにこにこしてしまう。


「ヴィルさんは、使えなくなったぼくですら、捨てられないでしょう。彼の美意識に反すると言う理由で」

「……」

「それと比べて、あなたは商人ですから損得勘定は得意ですよね。あなたに必要とされている限りは、あなたに隣に置いて貰える限りは、自分はまだ大丈夫だと……存在価値があると、安心できる」

「なるほど」

「だからアズールさんは、ぼくが使えなくなったらすぐ捨ててくださいね」

「言われずとも」

「ただ捨てるだけでは少し勿体ないですので、アズールさんと視力を交換させてからとかも良いのではないでしょうか?ぼくの目が病気にでもなったら返していただいて構いませんし。ぼくの目は両目とも視力が1ありますし、便利ですよ」


そう言うと胡乱げな瞳をされるが、すぐにぼくが本気で言っていることがわかったのだろう、アズールさんは溜め息を吐いた。


「マゾヒストめ、病気です」

「これは愛ですよ」

「……あなた、僕以外に対しても視力を交換したりとか、そう言うことをしますか」


アズールさんがぼくに問い掛ける。しかしすぐに「やっぱりいいです」と言って書類に目を戻してしまう。


「アズールさんが止めるならやりませんよ。ぼくはアズールさんのものですので」


そう軽やかにきっぱり返答して、ぼくは書類整理をはじめた。

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