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それでもあなたの痛みが美味しい



アズールさんは本当に優しかった。畑の作物の販売契約を取ってくるとか、あとは黒いビニールに入って中身の見えないゴミのゴミ出しとか、対価を滞納している生徒への催促とか、あとは学園長に収益の報告とかの仕事しか回されず、動物搾取を可能な限り観測させまいとしてくれた。

アズールさんだけではなくジェイドさんやフロイドさんが戯れに調理してくれるまかないも、動物性は使っていないと明言してから出してくれて、本当に、ぼくはここで生きていて良いのだなと思った。

ぼくはアズールさんが優しいことは知っていた。アズールさんがぼくに優しいと思われていることが気に入らなくて、大した用もないのに呼びつけてくるのもかわいく思っていた。

だから。


「さて、今日で一年、満期です。よく頑張ってくれましたね」

「はやいですね」

「どうしますか?」


どうしますか?と聞いたアズールさんがぼくが目立たないのと、なんとなくおとなしくて優しいと言う印象があることを気に入っているのは知っていた。それはジェイドさんやフロイドさんにも、アズールさんにもない性質だからだ。

だからこそ他の存在に不必要な警戒をされない。警戒をされないから、簡単に本心を話す。悩みを簡単に話してくれると悩みを解決しやすくて助かりますね、とアズールさんとぼくは微笑み合う仲になっていた。


「……ぼく、引き続きここで働かせていただきたいと思います」

「宜しいです。ついていらっしゃい」

「あ、あの、アズールさんを食べるのはもういいのです。この一年間、沢山気を遣っていただいて、ぼくに借りがあるので、それを返す形です」

「僕は対価のない契約は嫌いです」

「ぼくはSMをやりたかっただけなので、アズールさんが楽しめないならあれはもうやりたくないです。……素敵な体験でしたが」

「……はあ、面倒ですね。報酬には責任が伴う、逆に言えば、報酬のない仕事に責任は伴わないのです。それがどれほど恐ろしいことか、あなたにはわかりますか」

「……なら、少しだけあなたに触れさせてください」


手を彼の前に出して、彼に触れてもいいかどうか視線で許可を取る。

彼は一瞬動揺した様に見えたが、すぐに「僕がやめろと言ったらやめなさい」と言って、ぼくが彼に触れるのを許可してくれた。


まずは彼の手をとって、それが人間のそれと変わらないことを確認する。爪もある。指紋だってある。


「……嫌ですね、ぼくは。あなたが、この姿にならないといけなかったのが」

「NRCに入ったのは自らの意思です」

「人魚のまま授業を受けられる体制も整えられた気がします。それをこんな、本来の姿ではない形に変えさせて…」

「……」

「あなたが自らの本来の姿を厭うているのにも腹が立ちます。見慣れた自らの本来の姿を厭うなんて、誰かに何かを言われたか、何か要らないものを見たか以外に理由が考えられないからです」

「お節介だ」

「ぼくはあなたがこの姿になったことを美しい行為だと、美しい努力だと思いますし、あなたの人間の姿を美しいと感じます。しかし、それをさせた周囲は許せません」

「……NRCは地上にしかないのです、それに迎合するのは当然だ」

「今はそうするしかないですが、体制としてそれは正しくないとぼくは思うと言う話をしているのです」

「あなた、ただ自分が権利の対象から外れるのが怖くてそう言っているのではないのですか?」


心底見下した目付きで彼はぼくにそう言い放つ。


「努力して権利の対象に入る甲斐性のないせいでそう言う思想になったのでは?」

「……多分、違うと思います。逆にぼくは、権利を剥奪されてもいい対象がぼくだけだと思っているからです」

「気味の悪い」


言いながらアズールさんは、手に触れることを未だ許してくれている。


「ぼくはぼくがどう感じているかわかるので本当に同意しているかどうか分かりますが、他者に関してはそうではないですからね。ぼくはぼくしか完璧に信用できないので、逆にぼくしか痛めつけられるべきではないと思っているのです」

「努力しない者に権利と言うリソースを与えられるほどこの世界は裕福ではない。理想を語って現実を見ないのもいい加減にしなさい」

「本来あるべき姿はこちらだと言う話をしているのです。たしかに理想論なのは否めませんが」


彼の手を離す。十分だった。


「それに、努力ができると言う特権のこともあります。最初から努力が許されないこともありますからね。家畜のように」

「……」

「触れさせていただけて嬉しかったです。変身薬、すごいですね。身体に悪影響のないことを祈るばかりです」

「……え?これだけですか?」

「え?ああ、はい。これ以上触れても、あなたは嫌でしょう」

「対価は与えることに意味があるのです。僕が嫌であることにも意味がある」

「あなたが嫌ならぼくも嫌です。それではどちらも負けてしまう」


ぼくがそう言うと、アズールさんは大きく舌打ちをして腕を組む。

「それでは、あなたは僕があなたに与えられる物はないと言うのですか?」

「こうして会話させていただけて、沢山のものをいただいています」

「白々しいのです、おまえ」

「本気なのですが」


彼が本気で苛々しているのを感じて、ここはぼくが折れるべきかとため息を吐く。

大丈夫、ぼくが我慢をすれば済むことだ。


「……なら、キスをしてください。それでいいです」

「あなたは本当に最悪ですね。この話の流れで僕の嫌がりそうなことを要求して、それをさせて僕の中で精算を終わらせようとしている。おまえにとってそれは対価ではなく、痛みだと主張したばかりではないですか」

「あなただってこの問答が面倒になってきているでしょう」


ぼくが投げやりにそう言うと、突然ぐい、とネクタイを掴まれ引かれ、気付けば眼前に彼の閉じられた瞼があった。

思考停止しているうちにとん、と胸を押されて、すぐに眼前から彼の顔は消えた。


「残念ですがおまえとキス程度、嫌なことのうちにも入りません」


彼が踵を返してすたすたと歩いていってしまうのを見て、ぼくは。

ぼくは。


自らの唇を指でなぞることしか出来なかった。

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