【JuJu】Short stories
お名前設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
任務が終わり、報告書を書き上げ高専を出た頃はとっぷりと夜の帳も下りていて
今日だけは1人で過ごす気分では無かったので高専を出る前に親友の硝子に声を掛けてみようと医務室に行ってみたけど医務室は闇に包まれており、ここに主は居ないと、悠々とした佇まいで私に知らせていた
事前に連絡しておかなかったのだから仕方無いなと溜め息をひとつ吐くと静かな廊下に思いの外大きな音となって消えていった
校門を抜け、マナーモードでバッグの中に放置していたスマホを取り出し画面を点灯させると硝子からのメッセージが届いていて
メッセージアプリを起動して硝子からのメッセージを見てみると『五条の珍しい姿が見れるから都合付くならいつもの居酒屋においで』とあり、写真が添付されていた
その写真の被写体はスノウホワイトの髪とその旋毛。その特徴的な髪の持ち主は背がとても高いので普段ならその旋毛を拝むことは難しい
だけどこの写真で惜しげもなく旋毛を晒している様子を見るに多分寝ているのだろう
そんな特徴的な髪の持ち主は私の心の特別な場所に高専時代からずっと居座っている人で
『今から行くね』と硝子へ短い返事を送ってスマホをバッグへ放りこんだ
彼も私と同じ気持ち…ううん、むしろ私以上に今日は1人で過ごすのが嫌だったのだろうと容易に推測出来た私はバッグを肩に掛け、しっかりと持ち手を握りしめて暮夜の向こうに駆け出した
華やかで楽しそうな人たちで溢れる通りから一本入った路地にある居酒屋は、全国各地の地酒と世界の銘酒を揃えている隠れ家的なお店で、お酒が好きな硝子と私のお気に入りでよく来ていた
立て付けの良くない引き戸の扉をガタガタと開けると喧々たる音が一気に耳に流れてくる
今日はいつもの店内より少しだけ賑やかな……合コンだろうか、数名の男女のグループが浮かれ盛り上がっている様子も窺えた
そんな中、凪いだ空気を湛えていたのはいつも硝子と来た時の定位置となっている、格子で一部囲われた壁際のボックス席で
そこには先ほど私にメッセージを送ってくれた硝子と、送られてきた写真の光景そのままの被写体があった
カウンターに突っ伏しているスノウホワイトの柔らかそうな髪と反対色のオニキスブラックの服を着た大柄な男の斜向かいに腰を下ろした硝子は小さな日本酒用のグラスをゆるりと傾けている
「硝子、お待たせ」
「あやお疲れー」
硝子の隣に座ろうとしたら硝子に手で制され、悟の隣を指される
どうやら悟の隣に座れということらしい
バッグを肩から降ろすと硝子がそれを受け取り、自身の隣に置いていたバッグと並べて置いてくれた
今日の硝子の隣はバッグの定位置となっているようだ
「何飲む?」
そう言いながら居酒屋据付のオーダータブレットを見やすいようにこちらに向けてくれた硝子に「まずはビールかな」と言うと、硝子はタブレットをくるりと自分の方へ向けビールをタップして注文してくれた後、こちらへタブレットを差し出した
それを受け取りながらテーブルの上にあるものを確認すると徳利、枝豆、蛸わさ、鳥串盛り合わせ、そして硝子と2人なら絶対に頼んでいないケーキ3種セットとショートグラスに入った白に近い琥珀色の液体
ケーキ以前のものは硝子と飲む時によく頼む面々だから硝子が頼んだものだろうと思うけど、ケーキとショートグラスは十中八九悟が頼んだものだろう
枝豆と蛸わさがあればもういいかなとタブレットをテーブルに置く
「ね、硝子。悟が飲んでたのいつものヤツ?」
「そ。砂糖たーーーーっぷり入れたカウボーイ」
「相変わらず下戸で超甘党の悟らしいチョイスだね」
私同様甘い飲み物を好まない硝子はおぇっと吐くようなポーズをしながら枝豆を一莢手に取った
プニュッと押し出されたツヤツヤの緑の豆を口に入れ、咀嚼しながらグラスを傾ける
「ビールお持ちしました」
硝子が注文してくれたビールのジョッキが届き、グラスを手にしていた硝子が置かれたジョッキにコツンと自身のグラスをぶつける
どうやら乾杯のつもりのようだ
フフッと笑みを零しジョッキを持ち上げ、硝子の手にしている小さなグラスに私もカツンとぶつけてからビールを喉に流し込んだ
学生の頃には長かった襟足も今は刈り上げスッキリしてるせいで良く見える首元の曲線、呼吸に合わせて上下に動くオニキスブラックの背中
瞳を隠すための包帯はしておらず顔は見えないけど瞳を見せることを極端に嫌う悟のことだ、今はサングラスなんだろう
そんな悟に目を向けても悟は深く寝入っているのか喧しい店内で硝子と2人間近で話しているにも関わらず起きる様子は無い
硝子は高専の頃からずっと親友だったので私の心の特別な場所に高専時代からずっと居座っている悟への気持ちは知っている
長年煩って拗れてしまっている私の片思いは、呪いのように膨れ上がっていて、自分自身どうしたいかも、悟とどうなりたいかも既に分からないところまで来てしまっていた
高専入学時は4人だった同期も、今は3人
そんな状態だから殊更性急に関係性を変えようとも思えず、ぬるま湯に浸かったまま現状維持でいたらあっという間にここまで来てしまっていて
そんな私の気持ちを知ってるからと言って硝子は手助けしてくれるわけでもなく、かといって突き放すでもなく、五条はクズとか人でなしとか言いつつも彼女なりに長年見守っていてくれている
きっとこの場に居ないもう1人の同期である傑が聞いたら呆れることだろう
傑はからかうだろうか、それとも硝子と一緒に見守ってくれるだろうか……?
「明日早いんだ。そろそろお暇するよ」
「えぇ?硝子帰っちゃうの?悟どうするの?」
「あやに任せるよ。焼くなり煮るなり好きにするといい」
ポツポツと話しながら時間を過ごしていたら、ふと時計を見た硝子がそう言ってグラスに残っていた日本酒を一気に飲み干した
私も2杯目からは硝子と一緒に日本酒を楽しんでいたし、私が来る前から日本酒を飲んでいたのだから結構な量を飲んでいただろう硝子は、酔った様子も見せずしっかりした足取りで立ち上がる
そんな彼女を見上げると店内の照明をバックにした硝子が少し身を屈め、私の頬をツンツンとしながら「支払いは五条持ちだからもし五条が起きなかったら請求書を五条に送るようにお店の人に言うといい」と、ニヤッと笑って言った
「分かった。お店の前まで硝子を送る~」
ほろ酔いに任せてテーブルに両手を付いて立ち上がった拍子にテーブルが少しガタついたけど、突っ伏して寝ている悟は未だ起きる気配はなかった
硝子の腕に自らの腕を絡め、2人揃ってお店の外へ出る
店内に比べてひんやりした暮夜の空気に少し酔いも醒め、絡めていた腕を引き抜いた
「硝子、遅いし気をつけてね」
「すぐそばだから大丈夫。五条起きなかったらあやもお店の人に任せて帰るんだよ」
「うん」
はぁと息を大きく吐いてネオンの灯りで星の見えない空を見上げると硝子も私に合わせるように空を見上げる
「……ね、あやはまだ五条のこと好きなの?」
最近任務に明け暮れていてそういう話をしてなかったせいか、空を見上げたままの硝子が呟くように言った
もしかしたら硝子は私に問いかけたわけでは無かったのかもしれない
普段の私なら「知ってるくせに何言ってるの」と答えていただろうという類いの、硝子ならとっくに答えを知ってるはずの問いかけだ
だけど今日は、今日だけはきちんと、特に同期たちには真摯に向き合いたかった
「時間が経ちすぎてすっかり拗らせちゃってるけどね、悟のこと好きだよ」
「そっか…」
「硝子、いつもありがと」
「端で見てると焦れったいから早くどうにかなって欲しいところだけどね」
「ごめん、今更フラれたら私呪霊になっちゃいそうだから無理。多分…ずっとこのまんまかな」
「今は五条にオンナの影ないから良いかもしれないけど、オンナの影がチラついてもそんな悠長なこと言ってられる?」
そうね、そうだよね
変わらない関係性って無いかもしれない
男女であるなら尚更……
口に出してみて初めて気が付いたけど悟にフラれたら私呪霊に成り下がるかも……って思うほどに悟に執着してるんだ
呪術師は呪霊にならないって言われてるからあり得ないんだろうけど、モノは例えってヤツ
何も答えられず硝子を見つめていた私の視線を感じたのか硝子と目が合う
「ちょっと意地悪な言い方だったね。ごめん、あや」
「ううん。硝子の言う通りだと思う」
「そろそろ五条起きてるかもだから戻ってやんな」
「分かった。硝子、今日はありがとう」
「…今日は……特別…だろ?」
そう言いながら再び空を見上げた硝子に習い私も真っ黒な空を見上げる
やっぱり硝子も今日が何の日か覚えてて私のことを呼んでくれたのね
「じゃあ、またね。おやすみ」
「うん、またね。おやすみ」
小さくなっていく硝子の背中を見送ってから店内に戻り、悟が寝ているであろうボックス席に目を移すと、知らない女性が先ほどまで私が座っていた悟の横に座っていて
ゆさゆさと無遠慮に悟を揺り起こそうとしていた
あの女性は悟の知り合いだろうか?
聞きたくても悟とはただの同期という立場の私には、あの女性との関係を聞くのも憚られる
仮に聞けたとしても悟の彼女だと言われたら……長年の思いがあふれ出して今の私にはきっと耐え切れない
お酒の力で理性の蓋がほんの少しだけ緩んでしまっている今、もしかしたら暴れてしまうかもしれない
出入口に立ち尽くしたまま店内を見回すと店内で少しだけ賑やかだった数名の男女のグループの人たちが固唾を呑んで悟たちを見守っているようだった
男女の人数を確認すると男女比が1:1だったのに今は女性が1人少ないので、悟を起こそうとしている女性はあのグループの人なのか……
店内のお客さんに気を配っていなかったのでその辺りはよく分からなかった
ゆさゆさと揺り起こされた悟が気怠げに顔を上げる――
悟の顔を見た女性がワァと顔を輝かせ、悟の顔を覗き込み……そしてキスをしたところでそれ以上見ていられなかった私は、弾かれたように回れ右して立て付けの良くない引き戸の扉をもどかしく思いながらもガタガタと乱暴に開け、外に飛び出した
ヒューヒューという下卑た囃し声が遠くに聞こえたけど足は止めなかった、止まらなかった
もうあの女性が彼女だとか、知り合いだとか、そんなことはもうどうでも良くなった
だってあの2人は私の目の前でキスしていたのだから
瞼の裏にはあの2人のキスシーンが焼き付いており目を閉じるとありありと蘇る
無我夢中で走り続け、息が切れて立ち止まったところは自宅マンション近くの公園で
ゼィゼィと息を荒げた私はぽつんぽつんと間隔をあけ、心許ない街灯が灯っている公園の入口にあるベンチに腰を下ろした
ふぅと大きく息を吐き空を見上げる
先ほど硝子と見た空は星一つ見えない真っ黒な空だったけど、今は一つだけ煌々と自己主張をしている光星が見えた
心にぽっかりと穴が開いて冷たい風が吹き抜けているような空虚な感覚、だけど不思議と涙は出てこなくて
手ぶらだったことに気が付き「あぁ、バッグ置いて来ちゃったなぁ…」と1人呟いた言葉は誰に聞き留められることなく黒い空に消えていった
9年前の今日は傑が離反した日だった
単独任務で向かった村の村人112人を殺害して逃走し、傑は自分自身の非術者だった両親も手にかけたらしい
高専にいた私たち3人は夜蛾先生からそのことを聞かされ、信じられなかったけど、その出来事以降ずっと空席のままの傑の席を見てそれらは事実だと時間の経過と共に嫌でも認識させられた
傑が星漿体の任務後からずっと悩んでいたのは知っていた
親友である悟にも何も相談していなかったことも何となくは分かっていた
だけど、私たちは傑に対して何も出来なかった、いやしなかった……と言った方が正しいかもしれない
その出来事からしばらく後、一服しようと硝子が立ち寄った喫煙所に、長らく潜伏中だった傑が現れたと悟と私に電話で知らせてきた
悟は傑と会ったと言ってたけどその時のことについてそれ以上は語っていない
運が悪かったのか同期の中で私だけは……傑に会うことは出来なかった
もう9年、されど9年……だ
私たち同期3人の中で私たちの関係が何も変わらない、変わりたくないという思いが強くなったのはこの傑の出来事があったからだと思う
3人とも同じ思いだったからこそ、今日まで学生の頃と変わらない距離感でいたのだ
無理矢理押さえつけて自分の感情を拗らせてしまうほど、変わることに臆病になっていた
何気なくポッケに手を突っ込むと、いつもならバッグに入れている家の鍵がチャリと音を立てた
朝に弱い私が今朝もギリギリになり、急ぎ適当に鍵をねじ込んだ先がポッケだったようだ。朝の私グッジョブ
スマホや財布はバッグの中に入れっぱなしだったけど今更取りに行く気にもなれず、明日にでもお店に電話してみようと、のそりとベンチから重い腰を上げ、とぼとぼと自宅に戻った
ピンポーンピンポーン
ピンポーンピンポーン
遠くからインターフォンの呼出音が聞こえる
しつこく鳴り続けるその音は、私の意識の浮上とともに徐々に大きくなり、お酒で浮腫んでいつもより重くなった瞼をやっとの思いで持ち上げた
ピンポーンピンポーン
視界が開けると先ほどよりもずっと大きく感じるインターフォンの呼出音がまた聞こえる
閉じたがる瞼に檄を飛ばしながら時計に目を向けるとあと少しで5時になるという時間
こんな非常識な、普通の人ならまだ寝ているであろうこの時間に訪問者が来る予定はないし、そんな知り合いはいない
このマンションはオートロックシステムなのでどっかの部屋と間違えてる人がこの部屋の番号を押しているのかもしれない
出ない限りずっと鳴り続けるかもしれないと思った私は、遮光カーテンの隙間から漏れてくる外の柔い光を頼りに、重い身体を引きずるようにしてインターフォンへ向かう
ピンポーンピンポーン
早朝からしつこい、本当にしつこすぎる……と、若干苛つきながらもようやくたどり着いたインターフォンのモニタには身長が高いのかカメラに近すぎるのか、筋の通った鼻から下しか映っていなくて
でも、私にはその部分だけでこの訪問者が誰か分かってしまった
震える指は応答ボタンを押すことも出来ず、モニタをぼんやり見つめていると、少し身を屈めた悟のサングラス越しの瞳とモニタ越しに目が合った……気がする
少し俯き加減になった悟がピピピピッと慣れた手付きで数字のパネルを押しているようで何度目か分からない呼出音が部屋に響き、無意識に通話ボタンを押していた
「は…い……」
「おはよー。あや、昨日バッグ忘れていったでしょ?届けに来たよ」
「こ…んな朝早く、に…?」
「財布やらスマホやら入ってるし、困るだろうから早いとこ届けてあげようかなって思ったんだけど」
「まっ…て、今降りてく」
「ここ開けて。僕が部屋まで届けるから」
ドア解錠ボタンを押したら悟が来ちゃう
昨日の夜までなら気にしないで解錠しただろうけど、今はそれは……それだけはイヤだった
悟に来て欲しくなかった
目を閉じると瞼の裏に浮かぶのは悟と知らない彼女とのキスシーン
一瞬だったのにしっかりと焼き付いていて、一晩経った今でも鮮明に蘇る
「今…部屋散らかってるから…。下のロビーで待っててくれるなら開ける」
「ダメ。あやと話したいことあるし早朝だから他の住人さんたちの迷惑になったら困るでしょ」
「それじゃマンションの外で…っ」
「雨が降ってる。部屋で話そう」
あぁ、もうダメだ
こうなった悟は何を言っても自分の思い通りになるまでテコでも動かない
もうかれこれ10年以上の付き合いだ、彼の行動はある程度推測出来る
「…分かった」
諦めた私は解錠ボタンを押し、その場にへたり込んだ
私の部屋はマンションの高層階だけどこの時間だ、エレベータもほとんど稼働してないだろうし、いくらもしないで悟は部屋に着く
解錠ボタンを押してしまった今、玄関ドアを挟んでのやりとりじゃ悟は納得してくれないだろう
ヘタしたら悟に実力行使されかねない。私は力でも術式でも悟に敵わない
応答しなければ良かった……
ピンポンピンポン
オートロックの呼出音よりも早いテンポの玄関前インターフォンの呼出音がする
グダグダと考えている間に悟が来てしまった
逃げ出したい、会いたくないと後ろ向きの思考に囚われた私はへたり込んだまま動けずにいて
カチャッとドアノブの回る音で我に返る
微動だにしていなかった部屋の空気が僅かに動き、玄関へ目を向けるとふわりと揺れるスノウホワイトの髪が見えた
「不用心だね。鍵、ちゃんと掛けとかないと。今来たのが僕で良かったね」
……昨日、家に入ってからの記憶がない
飲みに行った翌日、玄関の鍵が開いていたことが何度かあったから昨日も鍵を閉め忘れてたのかもしれない
時間が戻せるなら迂闊な昨日の私を全力で叱ってしっかり鍵を掛けてドアガードもしっかりしておきたい
「お邪魔するよ、いい?」
普段なら自分の家のように我が物顔で上がる悟がこちらに伺いを立ててくる……ふりをして私の返事も待たず、ずかずかと部屋に入ってきた。やっぱりいつもの悟だ
遮光カーテンのせいで仄暗い室内、インターフォンモニタの下にへたり込む私……
悟にはどう映っているのだろう
「どうしたの?まだ眠い…とか?」
私のバッグをその辺に置いた悟が私の前に長い足を折り曲げて屈み、サングラスを外しセルリアンブルーの瞳を光らせ私の顔を覗き込む
その瞳から逃げるように左へ視線を逸らそうとすると左頬の横に悟の腕が伸びてくる
右に逃げようとすると右にも悟の腕が伸びてきて、逃げ場を失った私は壁に背をつけ悟を見上げた
「あや、僕のことを避けてるの?」
何も言えずコクンと小さく喉を鳴らす
鼻の奥がツンと痛くなる
目頭が熱くて視界がゆがむ
私の行動の理由が分からないであろう悟は少しイライラしているようだ
「昨日、あの居酒屋に来てたんでしょ?硝子のバッグがあったとこにあやのバッグがあったし、来てたんだよね?何で僕に声掛けないでバッグ置いたまま帰っちゃったの?あやはそんな薄情じゃないでしょ?」
矢継ぎ早に飛んでくる悟の疑問に口の端がフルフルと震えるけど声にはならず、俯く
「……ね、昨日何があったの?」
私の顔の横にあった悟の両手が私の後頭部を包んで悟の胸に引き寄せる
トンッとオニキスブラックの服に顔を埋めさせられると、悟の匂いを強く感じて
後頭部を撫でる悟の温かで大きな手に、それまで頑張って耐えてきた涙がオニキスブラックの服に吸い込まれていった
私が落ち着くまでずっとそのままでいた悟は、いつの間にか床に座り込んでいて
悟に寄りかかっていた私は、いつの間にか悟に抱きしめられていて
トクントクンと悟の心臓が生きてる音を奏でていて
その音が……とても、とても愛おしかった
どれだけの時間が経っていたのだろう、ようやく落ち着いた私は昨日のことをぽつんぽつんと話し始めた
硝子からメッセージを貰ったこと
寝ていた悟のそばで硝子と2人でずっと飲んでたこと
帰る硝子を見送って席に戻ろうとしたら悟の横に女性が座っていたこと
その女性が悟を起こして、そして悟に……キスしていたこと
相づちを打つ代わりに背中をトントンと一定のリズムで叩きながら私の話を促していた悟の手が、キスの話で止まる
ふぅと溜め息を吐いた悟の息をうなじで感じ、背筋にぞわわっと何かが走った
「なるほど。分かった」
そう言って私を自分の身体から離し、おもむろに私の顔に顔を近づけてきた
キス……される?
思わず目をギュッと閉じる……けど、待てど暮らせど唇には何の感触もなくて
でも顔には堅い、強い反発力のある感触があって
そっと目を開けると真剣な色を湛えたセルリアンブルーの瞳がこちらを見ていて
「今、僕あやにキスしようとしたんだけど」
「う…ん、キスされるかと…思った」
「でも、しなかったよね」
「そう…だね」
「術式発動させて出来ないようにしたんだけど」
そう言いながら私の頬に、悟は手を伸ばす
頬に堅く強い反発力のある見えない感触があるけど悟の手は私の頬に触れては、いない
「あ!」
「そういうこと。僕は普段オートで無下限回してるのは知ってるよね
僕自身が許可してる人は僕に触れることが出来る。だけど許可してない人や知らない人は僕がいかなる状態でもオートで無下限は発動してる。服の上からだと分かりにくいかもだけど、僕の肌に直接触れることは出来ない
人に限定した話じゃないけどね。攻撃性を持ったモノなんかも自動で無下限発動してるし」
温かく大きな手のひらが私の頬に触れる
「だから、あの女性と僕はキスしてなかったってこと。分かって貰えた?」
悟の無下限の術式は知ってるつもりだったけど、どんな状態の時でも……というのはすっぽり抜け落ちていた……というより今初めて開示された気がする
「ごめん、ね」
「ん。分かればよろしい」
誤解が解けたことに満足したのか私の頭をくしゃくしゃと撫でる悟
見上げると真剣な目をした悟に見下ろされていて
「さて、もう2度とあやにこんな勘違いされないようにしようか」
「…え?」
「今更何言ってんのって言われそうで、ずっと言えずにいたんだけどねー」
悟がサラサラの前髪をかき上げる
あまり見たことの無いその悟の仕草に目を逸らせずにいると普段髪と包帯で隠れて見えないおでこの傷が目に入った
「悟…その傷…」
古い傷痕、あれは星漿体の任務の時に付いたものだと昔、悟から聞いたことがあった
悟が本気で死を感じた時だったそうで、それまで使うことが出来なかった反転術式が使えるようになったキッカケだったと言っていた
反転術式が使えるようになったからこそオートで無下限が発動出来るようになったけど、硝子と違って自分自身にしか使えないとも
呪具で受けたところの傷痕は残らなかったけど、普通の、何てことないその辺にあるようなナイフを突き立てられたおでこの傷痕は呪力が含まれていないせいか今も消えてはいなかった
当時私は単独任務で長野の方へ行っていたので悟や七海くんたちから聞いた話でしか知らないけど、あの任務に携わった人たちへの影響は今でも計り知れない
気が付くと私はそっと悟の傷痕をなぞっていた
この傷痕がある限り、悟は当時のことを忘れはしないのだろう
傑が袂を分かつキッカケのひとつになったであろう任務の傷痕は、今もこうして悟の身体に刻まれていて、見るたびに傑を思い出す……
「傷のことは今する話じゃない。一旦置いとこうか」
悟の傷痕をなぞる私の手に自身の指を絡めた悟
元々悟は昔から仲良い人たちとの距離感はほぼない人だから、それにすっかり慣れてる私でも流石にキスしそうなくらいの距離で悟の顔を見るのは初めてで
悟の吐息を感じられるということは私の吐息も悟が感じているというワケで
私の都合のいいように解釈したくなるようなセルリアンブルーの瞳は雄弁に語っていて
「あや、キミだけは、ずっと……僕のそばから離れないで」
耳元に口を寄せた悟は私しかいない空間なのに、私以外には聞こえないくらい小さな声で囁き、そして抱きしめた
おまけの後日談
「やーーーっとあんたらくっついたの」
「硝子、そこまで強調するってどういうことなの?」
「端から見てたらあんたたち学生の頃からずっと思い合ってるようにしか見えなかったから焦れったかったよ」
「えぇぇ…」
「お互いにメチャクチャ拗らせちゃってたけど、あやが動くとは到底思えないから今回五条が動いたんでしょ?」
「早朝から起こされて大変だったんだよ?」
「…ま、そういう相手の都合を考えないのが五条だしね。そういえば夏油、五条の牽制が酷過ぎるからあやとは話しにくくて困るって、昔言ってたな」
「だから傑とすれ違いが多かったの?私…。いつも何故か私だけ蚊帳の外だなって、ちょっとだけ思ってた」
「とりあえず、甘党で下戸の五条が唯一飲むカウボーイのカクテル言葉、調べてごらん。あいつの拗らせてた一端が見えると思うよ」
カウボーイのカクテル言葉:今宵もあなたを思う
今日だけは1人で過ごす気分では無かったので高専を出る前に親友の硝子に声を掛けてみようと医務室に行ってみたけど医務室は闇に包まれており、ここに主は居ないと、悠々とした佇まいで私に知らせていた
事前に連絡しておかなかったのだから仕方無いなと溜め息をひとつ吐くと静かな廊下に思いの外大きな音となって消えていった
校門を抜け、マナーモードでバッグの中に放置していたスマホを取り出し画面を点灯させると硝子からのメッセージが届いていて
メッセージアプリを起動して硝子からのメッセージを見てみると『五条の珍しい姿が見れるから都合付くならいつもの居酒屋においで』とあり、写真が添付されていた
その写真の被写体はスノウホワイトの髪とその旋毛。その特徴的な髪の持ち主は背がとても高いので普段ならその旋毛を拝むことは難しい
だけどこの写真で惜しげもなく旋毛を晒している様子を見るに多分寝ているのだろう
そんな特徴的な髪の持ち主は私の心の特別な場所に高専時代からずっと居座っている人で
『今から行くね』と硝子へ短い返事を送ってスマホをバッグへ放りこんだ
彼も私と同じ気持ち…ううん、むしろ私以上に今日は1人で過ごすのが嫌だったのだろうと容易に推測出来た私はバッグを肩に掛け、しっかりと持ち手を握りしめて暮夜の向こうに駆け出した
華やかで楽しそうな人たちで溢れる通りから一本入った路地にある居酒屋は、全国各地の地酒と世界の銘酒を揃えている隠れ家的なお店で、お酒が好きな硝子と私のお気に入りでよく来ていた
立て付けの良くない引き戸の扉をガタガタと開けると喧々たる音が一気に耳に流れてくる
今日はいつもの店内より少しだけ賑やかな……合コンだろうか、数名の男女のグループが浮かれ盛り上がっている様子も窺えた
そんな中、凪いだ空気を湛えていたのはいつも硝子と来た時の定位置となっている、格子で一部囲われた壁際のボックス席で
そこには先ほど私にメッセージを送ってくれた硝子と、送られてきた写真の光景そのままの被写体があった
カウンターに突っ伏しているスノウホワイトの柔らかそうな髪と反対色のオニキスブラックの服を着た大柄な男の斜向かいに腰を下ろした硝子は小さな日本酒用のグラスをゆるりと傾けている
「硝子、お待たせ」
「あやお疲れー」
硝子の隣に座ろうとしたら硝子に手で制され、悟の隣を指される
どうやら悟の隣に座れということらしい
バッグを肩から降ろすと硝子がそれを受け取り、自身の隣に置いていたバッグと並べて置いてくれた
今日の硝子の隣はバッグの定位置となっているようだ
「何飲む?」
そう言いながら居酒屋据付のオーダータブレットを見やすいようにこちらに向けてくれた硝子に「まずはビールかな」と言うと、硝子はタブレットをくるりと自分の方へ向けビールをタップして注文してくれた後、こちらへタブレットを差し出した
それを受け取りながらテーブルの上にあるものを確認すると徳利、枝豆、蛸わさ、鳥串盛り合わせ、そして硝子と2人なら絶対に頼んでいないケーキ3種セットとショートグラスに入った白に近い琥珀色の液体
ケーキ以前のものは硝子と飲む時によく頼む面々だから硝子が頼んだものだろうと思うけど、ケーキとショートグラスは十中八九悟が頼んだものだろう
枝豆と蛸わさがあればもういいかなとタブレットをテーブルに置く
「ね、硝子。悟が飲んでたのいつものヤツ?」
「そ。砂糖たーーーーっぷり入れたカウボーイ」
「相変わらず下戸で超甘党の悟らしいチョイスだね」
私同様甘い飲み物を好まない硝子はおぇっと吐くようなポーズをしながら枝豆を一莢手に取った
プニュッと押し出されたツヤツヤの緑の豆を口に入れ、咀嚼しながらグラスを傾ける
「ビールお持ちしました」
硝子が注文してくれたビールのジョッキが届き、グラスを手にしていた硝子が置かれたジョッキにコツンと自身のグラスをぶつける
どうやら乾杯のつもりのようだ
フフッと笑みを零しジョッキを持ち上げ、硝子の手にしている小さなグラスに私もカツンとぶつけてからビールを喉に流し込んだ
学生の頃には長かった襟足も今は刈り上げスッキリしてるせいで良く見える首元の曲線、呼吸に合わせて上下に動くオニキスブラックの背中
瞳を隠すための包帯はしておらず顔は見えないけど瞳を見せることを極端に嫌う悟のことだ、今はサングラスなんだろう
そんな悟に目を向けても悟は深く寝入っているのか喧しい店内で硝子と2人間近で話しているにも関わらず起きる様子は無い
硝子は高専の頃からずっと親友だったので私の心の特別な場所に高専時代からずっと居座っている悟への気持ちは知っている
長年煩って拗れてしまっている私の片思いは、呪いのように膨れ上がっていて、自分自身どうしたいかも、悟とどうなりたいかも既に分からないところまで来てしまっていた
高専入学時は4人だった同期も、今は3人
そんな状態だから殊更性急に関係性を変えようとも思えず、ぬるま湯に浸かったまま現状維持でいたらあっという間にここまで来てしまっていて
そんな私の気持ちを知ってるからと言って硝子は手助けしてくれるわけでもなく、かといって突き放すでもなく、五条はクズとか人でなしとか言いつつも彼女なりに長年見守っていてくれている
きっとこの場に居ないもう1人の同期である傑が聞いたら呆れることだろう
傑はからかうだろうか、それとも硝子と一緒に見守ってくれるだろうか……?
「明日早いんだ。そろそろお暇するよ」
「えぇ?硝子帰っちゃうの?悟どうするの?」
「あやに任せるよ。焼くなり煮るなり好きにするといい」
ポツポツと話しながら時間を過ごしていたら、ふと時計を見た硝子がそう言ってグラスに残っていた日本酒を一気に飲み干した
私も2杯目からは硝子と一緒に日本酒を楽しんでいたし、私が来る前から日本酒を飲んでいたのだから結構な量を飲んでいただろう硝子は、酔った様子も見せずしっかりした足取りで立ち上がる
そんな彼女を見上げると店内の照明をバックにした硝子が少し身を屈め、私の頬をツンツンとしながら「支払いは五条持ちだからもし五条が起きなかったら請求書を五条に送るようにお店の人に言うといい」と、ニヤッと笑って言った
「分かった。お店の前まで硝子を送る~」
ほろ酔いに任せてテーブルに両手を付いて立ち上がった拍子にテーブルが少しガタついたけど、突っ伏して寝ている悟は未だ起きる気配はなかった
硝子の腕に自らの腕を絡め、2人揃ってお店の外へ出る
店内に比べてひんやりした暮夜の空気に少し酔いも醒め、絡めていた腕を引き抜いた
「硝子、遅いし気をつけてね」
「すぐそばだから大丈夫。五条起きなかったらあやもお店の人に任せて帰るんだよ」
「うん」
はぁと息を大きく吐いてネオンの灯りで星の見えない空を見上げると硝子も私に合わせるように空を見上げる
「……ね、あやはまだ五条のこと好きなの?」
最近任務に明け暮れていてそういう話をしてなかったせいか、空を見上げたままの硝子が呟くように言った
もしかしたら硝子は私に問いかけたわけでは無かったのかもしれない
普段の私なら「知ってるくせに何言ってるの」と答えていただろうという類いの、硝子ならとっくに答えを知ってるはずの問いかけだ
だけど今日は、今日だけはきちんと、特に同期たちには真摯に向き合いたかった
「時間が経ちすぎてすっかり拗らせちゃってるけどね、悟のこと好きだよ」
「そっか…」
「硝子、いつもありがと」
「端で見てると焦れったいから早くどうにかなって欲しいところだけどね」
「ごめん、今更フラれたら私呪霊になっちゃいそうだから無理。多分…ずっとこのまんまかな」
「今は五条にオンナの影ないから良いかもしれないけど、オンナの影がチラついてもそんな悠長なこと言ってられる?」
そうね、そうだよね
変わらない関係性って無いかもしれない
男女であるなら尚更……
口に出してみて初めて気が付いたけど悟にフラれたら私呪霊に成り下がるかも……って思うほどに悟に執着してるんだ
呪術師は呪霊にならないって言われてるからあり得ないんだろうけど、モノは例えってヤツ
何も答えられず硝子を見つめていた私の視線を感じたのか硝子と目が合う
「ちょっと意地悪な言い方だったね。ごめん、あや」
「ううん。硝子の言う通りだと思う」
「そろそろ五条起きてるかもだから戻ってやんな」
「分かった。硝子、今日はありがとう」
「…今日は……特別…だろ?」
そう言いながら再び空を見上げた硝子に習い私も真っ黒な空を見上げる
やっぱり硝子も今日が何の日か覚えてて私のことを呼んでくれたのね
「じゃあ、またね。おやすみ」
「うん、またね。おやすみ」
小さくなっていく硝子の背中を見送ってから店内に戻り、悟が寝ているであろうボックス席に目を移すと、知らない女性が先ほどまで私が座っていた悟の横に座っていて
ゆさゆさと無遠慮に悟を揺り起こそうとしていた
あの女性は悟の知り合いだろうか?
聞きたくても悟とはただの同期という立場の私には、あの女性との関係を聞くのも憚られる
仮に聞けたとしても悟の彼女だと言われたら……長年の思いがあふれ出して今の私にはきっと耐え切れない
お酒の力で理性の蓋がほんの少しだけ緩んでしまっている今、もしかしたら暴れてしまうかもしれない
出入口に立ち尽くしたまま店内を見回すと店内で少しだけ賑やかだった数名の男女のグループの人たちが固唾を呑んで悟たちを見守っているようだった
男女の人数を確認すると男女比が1:1だったのに今は女性が1人少ないので、悟を起こそうとしている女性はあのグループの人なのか……
店内のお客さんに気を配っていなかったのでその辺りはよく分からなかった
ゆさゆさと揺り起こされた悟が気怠げに顔を上げる――
悟の顔を見た女性がワァと顔を輝かせ、悟の顔を覗き込み……そしてキスをしたところでそれ以上見ていられなかった私は、弾かれたように回れ右して立て付けの良くない引き戸の扉をもどかしく思いながらもガタガタと乱暴に開け、外に飛び出した
ヒューヒューという下卑た囃し声が遠くに聞こえたけど足は止めなかった、止まらなかった
もうあの女性が彼女だとか、知り合いだとか、そんなことはもうどうでも良くなった
だってあの2人は私の目の前でキスしていたのだから
瞼の裏にはあの2人のキスシーンが焼き付いており目を閉じるとありありと蘇る
無我夢中で走り続け、息が切れて立ち止まったところは自宅マンション近くの公園で
ゼィゼィと息を荒げた私はぽつんぽつんと間隔をあけ、心許ない街灯が灯っている公園の入口にあるベンチに腰を下ろした
ふぅと大きく息を吐き空を見上げる
先ほど硝子と見た空は星一つ見えない真っ黒な空だったけど、今は一つだけ煌々と自己主張をしている光星が見えた
心にぽっかりと穴が開いて冷たい風が吹き抜けているような空虚な感覚、だけど不思議と涙は出てこなくて
手ぶらだったことに気が付き「あぁ、バッグ置いて来ちゃったなぁ…」と1人呟いた言葉は誰に聞き留められることなく黒い空に消えていった
9年前の今日は傑が離反した日だった
単独任務で向かった村の村人112人を殺害して逃走し、傑は自分自身の非術者だった両親も手にかけたらしい
高専にいた私たち3人は夜蛾先生からそのことを聞かされ、信じられなかったけど、その出来事以降ずっと空席のままの傑の席を見てそれらは事実だと時間の経過と共に嫌でも認識させられた
傑が星漿体の任務後からずっと悩んでいたのは知っていた
親友である悟にも何も相談していなかったことも何となくは分かっていた
だけど、私たちは傑に対して何も出来なかった、いやしなかった……と言った方が正しいかもしれない
その出来事からしばらく後、一服しようと硝子が立ち寄った喫煙所に、長らく潜伏中だった傑が現れたと悟と私に電話で知らせてきた
悟は傑と会ったと言ってたけどその時のことについてそれ以上は語っていない
運が悪かったのか同期の中で私だけは……傑に会うことは出来なかった
もう9年、されど9年……だ
私たち同期3人の中で私たちの関係が何も変わらない、変わりたくないという思いが強くなったのはこの傑の出来事があったからだと思う
3人とも同じ思いだったからこそ、今日まで学生の頃と変わらない距離感でいたのだ
無理矢理押さえつけて自分の感情を拗らせてしまうほど、変わることに臆病になっていた
何気なくポッケに手を突っ込むと、いつもならバッグに入れている家の鍵がチャリと音を立てた
朝に弱い私が今朝もギリギリになり、急ぎ適当に鍵をねじ込んだ先がポッケだったようだ。朝の私グッジョブ
スマホや財布はバッグの中に入れっぱなしだったけど今更取りに行く気にもなれず、明日にでもお店に電話してみようと、のそりとベンチから重い腰を上げ、とぼとぼと自宅に戻った
ピンポーンピンポーン
ピンポーンピンポーン
遠くからインターフォンの呼出音が聞こえる
しつこく鳴り続けるその音は、私の意識の浮上とともに徐々に大きくなり、お酒で浮腫んでいつもより重くなった瞼をやっとの思いで持ち上げた
ピンポーンピンポーン
視界が開けると先ほどよりもずっと大きく感じるインターフォンの呼出音がまた聞こえる
閉じたがる瞼に檄を飛ばしながら時計に目を向けるとあと少しで5時になるという時間
こんな非常識な、普通の人ならまだ寝ているであろうこの時間に訪問者が来る予定はないし、そんな知り合いはいない
このマンションはオートロックシステムなのでどっかの部屋と間違えてる人がこの部屋の番号を押しているのかもしれない
出ない限りずっと鳴り続けるかもしれないと思った私は、遮光カーテンの隙間から漏れてくる外の柔い光を頼りに、重い身体を引きずるようにしてインターフォンへ向かう
ピンポーンピンポーン
早朝からしつこい、本当にしつこすぎる……と、若干苛つきながらもようやくたどり着いたインターフォンのモニタには身長が高いのかカメラに近すぎるのか、筋の通った鼻から下しか映っていなくて
でも、私にはその部分だけでこの訪問者が誰か分かってしまった
震える指は応答ボタンを押すことも出来ず、モニタをぼんやり見つめていると、少し身を屈めた悟のサングラス越しの瞳とモニタ越しに目が合った……気がする
少し俯き加減になった悟がピピピピッと慣れた手付きで数字のパネルを押しているようで何度目か分からない呼出音が部屋に響き、無意識に通話ボタンを押していた
「は…い……」
「おはよー。あや、昨日バッグ忘れていったでしょ?届けに来たよ」
「こ…んな朝早く、に…?」
「財布やらスマホやら入ってるし、困るだろうから早いとこ届けてあげようかなって思ったんだけど」
「まっ…て、今降りてく」
「ここ開けて。僕が部屋まで届けるから」
ドア解錠ボタンを押したら悟が来ちゃう
昨日の夜までなら気にしないで解錠しただろうけど、今はそれは……それだけはイヤだった
悟に来て欲しくなかった
目を閉じると瞼の裏に浮かぶのは悟と知らない彼女とのキスシーン
一瞬だったのにしっかりと焼き付いていて、一晩経った今でも鮮明に蘇る
「今…部屋散らかってるから…。下のロビーで待っててくれるなら開ける」
「ダメ。あやと話したいことあるし早朝だから他の住人さんたちの迷惑になったら困るでしょ」
「それじゃマンションの外で…っ」
「雨が降ってる。部屋で話そう」
あぁ、もうダメだ
こうなった悟は何を言っても自分の思い通りになるまでテコでも動かない
もうかれこれ10年以上の付き合いだ、彼の行動はある程度推測出来る
「…分かった」
諦めた私は解錠ボタンを押し、その場にへたり込んだ
私の部屋はマンションの高層階だけどこの時間だ、エレベータもほとんど稼働してないだろうし、いくらもしないで悟は部屋に着く
解錠ボタンを押してしまった今、玄関ドアを挟んでのやりとりじゃ悟は納得してくれないだろう
ヘタしたら悟に実力行使されかねない。私は力でも術式でも悟に敵わない
応答しなければ良かった……
ピンポンピンポン
オートロックの呼出音よりも早いテンポの玄関前インターフォンの呼出音がする
グダグダと考えている間に悟が来てしまった
逃げ出したい、会いたくないと後ろ向きの思考に囚われた私はへたり込んだまま動けずにいて
カチャッとドアノブの回る音で我に返る
微動だにしていなかった部屋の空気が僅かに動き、玄関へ目を向けるとふわりと揺れるスノウホワイトの髪が見えた
「不用心だね。鍵、ちゃんと掛けとかないと。今来たのが僕で良かったね」
……昨日、家に入ってからの記憶がない
飲みに行った翌日、玄関の鍵が開いていたことが何度かあったから昨日も鍵を閉め忘れてたのかもしれない
時間が戻せるなら迂闊な昨日の私を全力で叱ってしっかり鍵を掛けてドアガードもしっかりしておきたい
「お邪魔するよ、いい?」
普段なら自分の家のように我が物顔で上がる悟がこちらに伺いを立ててくる……ふりをして私の返事も待たず、ずかずかと部屋に入ってきた。やっぱりいつもの悟だ
遮光カーテンのせいで仄暗い室内、インターフォンモニタの下にへたり込む私……
悟にはどう映っているのだろう
「どうしたの?まだ眠い…とか?」
私のバッグをその辺に置いた悟が私の前に長い足を折り曲げて屈み、サングラスを外しセルリアンブルーの瞳を光らせ私の顔を覗き込む
その瞳から逃げるように左へ視線を逸らそうとすると左頬の横に悟の腕が伸びてくる
右に逃げようとすると右にも悟の腕が伸びてきて、逃げ場を失った私は壁に背をつけ悟を見上げた
「あや、僕のことを避けてるの?」
何も言えずコクンと小さく喉を鳴らす
鼻の奥がツンと痛くなる
目頭が熱くて視界がゆがむ
私の行動の理由が分からないであろう悟は少しイライラしているようだ
「昨日、あの居酒屋に来てたんでしょ?硝子のバッグがあったとこにあやのバッグがあったし、来てたんだよね?何で僕に声掛けないでバッグ置いたまま帰っちゃったの?あやはそんな薄情じゃないでしょ?」
矢継ぎ早に飛んでくる悟の疑問に口の端がフルフルと震えるけど声にはならず、俯く
「……ね、昨日何があったの?」
私の顔の横にあった悟の両手が私の後頭部を包んで悟の胸に引き寄せる
トンッとオニキスブラックの服に顔を埋めさせられると、悟の匂いを強く感じて
後頭部を撫でる悟の温かで大きな手に、それまで頑張って耐えてきた涙がオニキスブラックの服に吸い込まれていった
私が落ち着くまでずっとそのままでいた悟は、いつの間にか床に座り込んでいて
悟に寄りかかっていた私は、いつの間にか悟に抱きしめられていて
トクントクンと悟の心臓が生きてる音を奏でていて
その音が……とても、とても愛おしかった
どれだけの時間が経っていたのだろう、ようやく落ち着いた私は昨日のことをぽつんぽつんと話し始めた
硝子からメッセージを貰ったこと
寝ていた悟のそばで硝子と2人でずっと飲んでたこと
帰る硝子を見送って席に戻ろうとしたら悟の横に女性が座っていたこと
その女性が悟を起こして、そして悟に……キスしていたこと
相づちを打つ代わりに背中をトントンと一定のリズムで叩きながら私の話を促していた悟の手が、キスの話で止まる
ふぅと溜め息を吐いた悟の息をうなじで感じ、背筋にぞわわっと何かが走った
「なるほど。分かった」
そう言って私を自分の身体から離し、おもむろに私の顔に顔を近づけてきた
キス……される?
思わず目をギュッと閉じる……けど、待てど暮らせど唇には何の感触もなくて
でも顔には堅い、強い反発力のある感触があって
そっと目を開けると真剣な色を湛えたセルリアンブルーの瞳がこちらを見ていて
「今、僕あやにキスしようとしたんだけど」
「う…ん、キスされるかと…思った」
「でも、しなかったよね」
「そう…だね」
「術式発動させて出来ないようにしたんだけど」
そう言いながら私の頬に、悟は手を伸ばす
頬に堅く強い反発力のある見えない感触があるけど悟の手は私の頬に触れては、いない
「あ!」
「そういうこと。僕は普段オートで無下限回してるのは知ってるよね
僕自身が許可してる人は僕に触れることが出来る。だけど許可してない人や知らない人は僕がいかなる状態でもオートで無下限は発動してる。服の上からだと分かりにくいかもだけど、僕の肌に直接触れることは出来ない
人に限定した話じゃないけどね。攻撃性を持ったモノなんかも自動で無下限発動してるし」
温かく大きな手のひらが私の頬に触れる
「だから、あの女性と僕はキスしてなかったってこと。分かって貰えた?」
悟の無下限の術式は知ってるつもりだったけど、どんな状態の時でも……というのはすっぽり抜け落ちていた……というより今初めて開示された気がする
「ごめん、ね」
「ん。分かればよろしい」
誤解が解けたことに満足したのか私の頭をくしゃくしゃと撫でる悟
見上げると真剣な目をした悟に見下ろされていて
「さて、もう2度とあやにこんな勘違いされないようにしようか」
「…え?」
「今更何言ってんのって言われそうで、ずっと言えずにいたんだけどねー」
悟がサラサラの前髪をかき上げる
あまり見たことの無いその悟の仕草に目を逸らせずにいると普段髪と包帯で隠れて見えないおでこの傷が目に入った
「悟…その傷…」
古い傷痕、あれは星漿体の任務の時に付いたものだと昔、悟から聞いたことがあった
悟が本気で死を感じた時だったそうで、それまで使うことが出来なかった反転術式が使えるようになったキッカケだったと言っていた
反転術式が使えるようになったからこそオートで無下限が発動出来るようになったけど、硝子と違って自分自身にしか使えないとも
呪具で受けたところの傷痕は残らなかったけど、普通の、何てことないその辺にあるようなナイフを突き立てられたおでこの傷痕は呪力が含まれていないせいか今も消えてはいなかった
当時私は単独任務で長野の方へ行っていたので悟や七海くんたちから聞いた話でしか知らないけど、あの任務に携わった人たちへの影響は今でも計り知れない
気が付くと私はそっと悟の傷痕をなぞっていた
この傷痕がある限り、悟は当時のことを忘れはしないのだろう
傑が袂を分かつキッカケのひとつになったであろう任務の傷痕は、今もこうして悟の身体に刻まれていて、見るたびに傑を思い出す……
「傷のことは今する話じゃない。一旦置いとこうか」
悟の傷痕をなぞる私の手に自身の指を絡めた悟
元々悟は昔から仲良い人たちとの距離感はほぼない人だから、それにすっかり慣れてる私でも流石にキスしそうなくらいの距離で悟の顔を見るのは初めてで
悟の吐息を感じられるということは私の吐息も悟が感じているというワケで
私の都合のいいように解釈したくなるようなセルリアンブルーの瞳は雄弁に語っていて
「あや、キミだけは、ずっと……僕のそばから離れないで」
耳元に口を寄せた悟は私しかいない空間なのに、私以外には聞こえないくらい小さな声で囁き、そして抱きしめた
おまけの後日談
「やーーーっとあんたらくっついたの」
「硝子、そこまで強調するってどういうことなの?」
「端から見てたらあんたたち学生の頃からずっと思い合ってるようにしか見えなかったから焦れったかったよ」
「えぇぇ…」
「お互いにメチャクチャ拗らせちゃってたけど、あやが動くとは到底思えないから今回五条が動いたんでしょ?」
「早朝から起こされて大変だったんだよ?」
「…ま、そういう相手の都合を考えないのが五条だしね。そういえば夏油、五条の牽制が酷過ぎるからあやとは話しにくくて困るって、昔言ってたな」
「だから傑とすれ違いが多かったの?私…。いつも何故か私だけ蚊帳の外だなって、ちょっとだけ思ってた」
「とりあえず、甘党で下戸の五条が唯一飲むカウボーイのカクテル言葉、調べてごらん。あいつの拗らせてた一端が見えると思うよ」
カウボーイのカクテル言葉:今宵もあなたを思う