【DC】Short stories
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身体をゆさゆさと揺さぶられる感覚で意識が浮上する
睡魔にあがらうように重怠い目をゆっくり開くと心配そうな顔してわたしの顔を覗き込んでいる同期であり同僚の諸伏景光がいた
「…ヒロ?」
「あや、気がついた?」
声をかけながら身を起こすと周りが異様な風景であることに気がつく
真っ白な空間、上も下も横も、ヒロと自分以外には色が無い空間なのだ
照明は一切見えないのに明るい
あまりにも真っ白なため、上下左右も分からなくなりそうな空間
わたしはまだ身を起こしたところなので腰をつけているところが地面だということはかろうじて分かるけど、この場から地平面がわたしの目で確認ができないほどに色が無い空間
ヒロとわたしが立てる音以外の音もなく、お互いの呼吸音まで聞こえそうなほど静かな空間
静かすぎて耳鳴りがしそうだった
昨晩は日付が変わる時間まで残業をして、その後一人暮らししている自宅マンションに帰宅したはず
疲れのためリビングのソファでしばし寝落ちし、午前2時頃に起きて入浴した後、行き倒れるようにボフッとベッドに倒れ込んだのを覚えている
帰って寝るだけの家は簡素だけどそれでもここよりはるかに生活感のある部屋だし、潜入捜査中で滅多に登庁して来ないヒロがこの場にいる理由も全く思い当たらない
もしかしてここに連れてきた何者かはわたしが密かに彼に対して抱いている恋心を知っているのだろうか?
…まさか…ね
「…ここどこなの?」
「わからない」
「何で私たち2人ここに居るの?」
「…わからない。俺が目覚めた時には既にここに居て、数歩先にあやが倒れてた
俺はゼロと風見さんと庁舎で打ち合わせしてたのは覚えてるんだけどその後の記憶が曖昧なんだ」
話しながら立ち上がろうとしたわたしへヒロは手を伸ばしてくれたので手を取ろうとわたしも手を伸ばすと自分が寝間着として着ていたスエットの上下だったことに気がついた
ヒロはスーツの上下なので彼の記憶が曖昧と言えどきっとまだ仕事をしていたのだろう
カチリとしたスーツ姿のヒロとは対照的にラフな格好をしている自分が恥ずかしかった
目の前に伸ばされた骨張った男性らしいその手に心臓を跳ねさせたけど気取られないよう平常を装い、手を借りて立ち上がると座っていた時より更に距離感も何もわからなくなった
立ち上がったはずなのに真っ白な空間で距離も高さも分からないからだろうか…それとも今、地面と設置してる面が両の足の裏だけだからだろうか…もしくはヒロと自分以外に色が無いからだろうか、くらりと立ちくらみに近い眩暈を起こしフラつくとヒロに支えられる
着痩せするしなやかな筋肉を纏ったヒロの身体はわたしを受け止めてもビクともしない
スーツの堅めな生地を通しヒロの体温を感じて跳ねる心臓が苦しく、こんなに心臓が自己主張してると鋭いヒロに気づかれてしまう…と、逞しいヒロの身体から身を起こした
ヒロから離れるのは名残り惜しい…だけどそんな気持ちをヒロに絶対悟られてはならないと自分自身に喝を入れ、ヒロから手を離す
その様子を黙って見送ってくれたヒロが口を開いた
「あやが目覚めるまでこの場を調べてみたんだけど…ここがどこか分からないし出口も見つからなかった。文書と瓶は見つけたけどね。あと試してないのはコレなんだ」
そう言いながらジャケットに隠れて見えなかったショルダーホルスタからニューナンブを手にし、セーフティをカチリと解除してわたしに背を向け構えるヒロ
その無機質な音にゾワリと寒気を感じ、思わずヒロの背に手を伸ばすけどヒロの背に触れる勇気は出なくて宙を彷徨い、そして所在無く降ろす
「ヒロ、発砲したら後で書類大変だよ…?」
「この場からあやと出られるなら何枚でも喜んで書くよ」
「…でも…っ」
「あやは俺の後ろに。跳弾する可能性もあるから」
ヒロの意志の強い声に逆らえずヒロの背に向かってそっと身を寄せる
彼の射撃の技術については同期の中で一番だったので信頼しているけど跳弾となると話は別だ
素材がわからない以上、どのように跳弾するかわからない
流石のヒロでも跳弾の弾道までは読めないだろう
「耳塞いで」
「うん」
言われるまま掌で耳を覆うとその様子を視認したヒロが引き金を引いた
耳を覆っていたお陰で至近距離の発砲音はある程度抑えられたけど発砲時のビリッとした空気が身を掠め、少しして硝煙の匂いがしてくる
ヒロの後ろにいたので弾道は見てなかったけど終わったのだろうと判断し、耳から手を離そうとヒロを見上げるとわたしのしたいことが分かったのだろう、頭を左右に振った後、顎で視線を寄越すように促した
まだ発砲するつもりらしく、わたしはヒロに促されるまま銃の射線上に目を向けるとヒロは銃口をスススッっと少し下へ向ける
ヒロのつま先からおよそ5mほどの距離だ
この至近距離で発砲するのは…と思いヒロに目を向けるとニコリとつり上がった目を細め人好きする笑みを浮かべ、わたしの身体がヒロの背から出てないか確認してから銃を構える
「見てて」
口パクでそう言ってるのが分かったのでわたしは黙って頷くとヒロは再び銃を発砲した
マズルフラッシュとほぼ同時に着弾した地点の地面がまるでスライム状の何か柔らかいものに変化し、銃弾は包まれそのままぷるんっと呑まれ、また何事もなかったかのように地面に戻る
ヒロのつま先からおよそ5mの距離なので見間違えるはずはない
思わず走り寄り着弾した場所に屈み手をやるけどその場所は固く、先程見たスライム状の何か柔らかい感触ではなかった
「やっぱりダメか…」
ショルダーホルスタにニューナンブを直したヒロはため息を吐き、わたしの横に屈み込む
なぜわたしたちはここに居るのか、なぜヒロと一緒なのか、どういう意図があるのか…着弾地点を撫でながら考えても何もわからずヒロへ目を向ける
ヒロは眉を寄せ顎鬚を撫でながら何やら考え込んだ様子で着弾地点を撫でているわたしの手を茫と見ていたけどわたしの視線に気がついたのかこちらを見て眉尻と口角を下げたまま無理矢理笑顔を作った
その笑顔がわたしの不安を煽った
「ヒロ、さっき話してた文書と瓶見せて?」
現状手詰まりだと両手を挙げてるヒロにばかり任せるのは申し訳ないから…と声をかけるとヒロは露骨に嫌そうな顔をする
「…どうしても見せなきゃダメ?」
「うん、ここまでヒロに頼りきりだから脱出の手段をわたしにも一緒に考えさせて?」
手を差し伸べ、そう言うとヒロは先程より大きなため息を吐き、観念したかのようにジャケットの内ポケットから警察手帳サイズに折りたたまれたグレーの紙を取り出した
真っ白なこの空間でこのグレーはとても目立ち、ヒロとわたし以外で初めて認識できた色だった
カサ
カサッ
音を立てグレーの紙を開く
「この部屋から出る方法はただ1つ
飲んでから最初に見た人のことを全て忘れるクスリをどちらかが飲むこと」
たった48文字の、50文字に満たないその文章は感情や温度を一切感じさせないものだった
確かにこの真っ白な空間で色があるのはヒロとわたしとこの文書だけなのでクスリを飲んだら自ずと互いの顔を見ることになるだろう
そして飲んだ方が飲んでない方のことを全て忘れると言うのだ
この空間のようにわたしの頭の中は真っ白になった
ヒロがただの同期で同僚のわたしの存在を忘れるのは特に問題ないだろう
彼は潜入捜査をしていてほとんど登庁しないからだ
わたしは同期や同僚ではなく、ただの同じ部署の人間という存在になるだけだ
わたしの恋心は今まで通り知られないようにすれば何ら問題はないだろう
わたしが飲む場合、今まで大切に温めてきたヒロへの気持ち、ヒロの存在全てをクスリによって奪われることになる
それは忘れてしまうとは言え個人的に悲しいことだった
警察官になる夢を叶えるため子供の頃から勉強、剣道や柔道といった武術に明け暮れていたので日々忙しく、ヒロに出会うまで恋愛をしたことがなかったわたしにとって恥ずかしながらヒロは初恋の人だ
今まで同期で同僚以上の関係ではなかったけどこの気持ちを無くすことはわたしの人生の一部を失うに等しかった
そう考えるとローリスクなヒロに飲んでもらう方が良い…?
ただ、この文書にある通り、本当に全てを忘れるだけのクスリであるならば…だ
全てを忘れるとは深読みすると死ぬことも含まれる可能性だってあり得る
もし死ぬ可能性が少しでもあるならばヒロが飲むのではなくわたしが飲む方が良い
わたしよりヒロの方がこれからの日本に必要な人であるのだから
でも…それなら…そうであるなら無くす前に、消える前に…消される前に…この感情を最後にヒロにぶちまけて良い?
ううん、ヒロが忘れるわけじゃないんだし、今は大切な潜入捜査をしているんだからただの同期の恋心なんて今まで通り知られない方が良いだろう
わたしのエゴでヒロに枷を背負って貰いたくない
ただ…わたし自身が忘れてしまうならこのままこの感情は誰にも知られることなくこの世から消えてしまう
文字通りこの感情を抱いた本人であるわたしが忘れてしまうのだ
ヒロのこれからの為にはこの感情は今まで通り知られることなく、クスリとともにわたしの中から消してしまうのが最良なのは分かっているけど初めて抱いたこの感情を自分の意思とは関係無く消さなければならないことが少しだけ寂しく思った
もしかしたら命も失う可能性もある
わたしの命とヒロの命、どっちがこれからの日本や国民のために大切かと言えば間違いなくヒロと言える
文書を読んでしばらく沈黙していたわたしの中でようやく決心がつく
…わたしがヒロをこの空間から脱出させたい…!
黙ってわたしの様子を見守っていたヒロの目を見た
深い海の色したヒロの目には戸惑いが覗いているように見える
「ヒロ、わたしが飲むからクスリ頂戴」
先程文書を渡すよう促した時と同じようにヒロに手を差し伸べるとヒロは困った顔のままわたしをじっと見つめる
わたしも目を逸らさずヒロを見つめ返す
…どれだけの時間が経ったのだろう、真っ白な空間では時間感覚もなかった
「あや…俺はあやを犠牲にはできないよ」
寂しそうに笑うヒロに胸がキュッと締め付けられる
「ダメ。クスリの効果が本当に忘れるだけなら良いけど得体の知れないものだから。わたしに何かあったらヒロ、わたしを連れて帰って」
「…あや」
わたしは黙って唇を噛みしめ、ハッキリとした意思表示をするためヒロを見つめ続けた
「俺が飲むよ、あやに危ないことはさせられない」
「ダメ、わたしが飲む」
ずっと宙に浮かせたままだった、ヒロに向けて差し伸べている手がいい加減痺れてきた
変わらぬ意志だとわかってもらうためにその手でヒロの胸元を掴み言った
「ヒロ、お願い!」
「…それじゃあクスリ飲む前に俺の話聞いてくれ」
「この文書によるとヒロのこと忘れちゃうらしいからそれでもいいなら…」
わたしはヒロの胸元を掴んでいた手を下ろす
ヒロはスーツにシワができることも構わずその場に胡座をかいて座り込んだのでわたしもヒロの横に三角座りして彼の言葉を待った
耳が痛くなるくらいの静寂の中、ようやくヒロは口を開く
「俺ね、あやのことがずっと好きだったんだ」
「…え…?」
思いもよらない言葉に戸惑うわたしは思わず両足をグッと体に密着させて身を小さくするとヒロが喉の奥でくすりと笑う
「警察学校の頃からだったんだ。あやは柔道で伊達に何度負けても何度も何度も挑んでたろ?」
…あぁ、そうだった
警察学校入校当時のわたしは女子柔道の国体で優勝したこともあって自分より強い人は居ないとちょっと天狗になっていた
柔道は体格に恵まれてる方が有利だったりするけど当時のわたしは自分より体格の良い人もポンポン投げ飛ばしてきてたからちょっと勘違いしちゃってて…
その鼻っ柱を折ってくれたのが航だった
悔しくて何度も何度も挑んだけど一度も勝てなかったんだ
航の話では零は更に強いと聞いて自分は井の中の蛙だったと臍を噛んだこともよく覚えている
当時の自分的に黒歴史だったことをいきなりヒロに言われて恥ずかしくなり思わず膝小僧に顔を埋める
「あれを見てて凄い努力家で真っ直ぐな子だなって思ったんだ
それからかな…何かある毎にあやに目が行ってて…笑顔が弾けるようで見てるだけで元気がもらえるなって思ったんだけど、ある日ゼロに指摘されて『あぁ、俺はあやを好きなんだなぁ』って気がついたんだ」
訥々と目の前の白い空間の一点を見つめ語るヒロ
「ずっと…それからずっと好きだった。ずっと好きで、それでいて一歩踏み出す勇気が出なくて…
足踏みしてたけどようやく決心して告白しようと思ってたところに潜入捜査の指令が出て…
犯罪組織への潜入捜査なんて危険なことをするのにそこであやに告白して気持ちを伝えたら良い意味でも悪い意味でもあやに心配をかけてしまう
…それは俺は望んでなかった。あやにはずっと笑顔でいて欲しかったんだ」
こちらを見て柔和な笑みを見せたヒロに自然と涙が溢れ、一筋二筋と頰を流れる
涙をそっと拭ってくれたヒロの手に思わず自分の手を重ねる
「わたっ…わたしもっ…ヒロのことがずっと好きだった…っ!」
そう言った途端に涙は堰を切ったように溢れ、流れ出す
ボロボロと止まることを知らず、だけどヒロからは目を逸らすことはしなかった、できなかった
わたしはきっと凄くみっともない顔をしてると思う
好きな人に見せられた顔ではないだろう
だけどヒロから目をそらそうとは思わなかった
ヒロが涙を拭おうとしていた手を広げ、わたしの濡れた頰を包む
その手は温かかった
今までずっとわたしの片思いだと思っていた
こんな形で長年の思いを通じさせることになるとは思わなかった…!
だけどこの気持ちをわたしはこれから忘れてしまうんだ
ヒロのことを忘れてしまうんだ
忘れられる側はどんな気持ちになるんだろう
忘れる側より忘れられる側の方がきっと辛い
置いてく方より置いて行かれる方が深く心に残ると思う
「ごめん、ヒロ」
考えていたら頭の中がぐるぐるして思わずヒロに抱きつくとヒロも力強く抱きしめ返してくれる
ヒロの胸の中は温かく、いつもヒロが纏ってる優しい香りがした
その香りを胸いっぱいに吸い込んで顔を上げるとヒロに顎を親指と人差し指で挟まれ色っぽい目で見つめられる
これから行われるだろう行為に期待し、胸が高鳴り目をゆっくり閉じると思ったとおり柔らかな感触がそっと口唇に触れた
遠慮がちですぐ離れようとするその感触を離したくなくてヒロに抱きつく腕に力を入れ、柔らかな感触を確かめるように自分のそれをヒロに押し付けた
一瞬躊躇ったヒロだったけどギュッとわたしを抱きしめ角度を変え何度も何度もキスをくれる
もっと深く…と口を緩く開くとそれに気づいたヒロの舌が遠慮がちにわたしの中に入ってくる
その感覚にゾクゾクとして思わず声が漏れた
そうしてしばらくお互いに幾度となくキスを求め合い交わした後、ヒロがジャケットのポッケから小さな瓶を取り出した
よくよく見るとそれは茶色のアンプルで中には色はわからないけど20ccほどの液体が入っている
たったこれだけの量を服用するだけでわたしの中にあるヒロの全てを忘れてしまうんだ…と恐ろしい気持ちになった
「あやが俺のことを忘れても俺はあやを忘れないし、今日のことも、これからのあやへの気持ちも変わらない
また新たに出会いからやり直してあやには俺のこと好きになってもらうから
もう一度あやの気持ちを取り戻すから」
「うん、うんっ」
――本当は別の手段もあった
この場から出られるまで目を開かなければ…
文書のとおりなら飲んでから最初にヒロを見なければ彼を忘れることはない…はず
わたしはやっと通じ合えたこの想いを今の幸せな気持ちを本当は忘れなくなかった
ずっとこの思い出を大切にヒロと共有していたかった
だけどここから出られた後、最初に顔を合わせる人が誰かわからないし、相手によっては大事になる可能性がある
互いに今回のことを理解してる人間の方が良いだろうとヒロに提案され、わたしはヒロの顔を最初に見ることになったのだ
…わたしは忘れてしまうのに、ヒロだけが覚えてることになってしまうのに、自分を犠牲にすることを何とも思ってないのね、ヒロは
「必ずまたあやに好きになってもらうから」
それなのに自信有り気に微笑みわたしを元気付けるヒロは、アンプルをパキッと折って一気にクスリを飲み下したわたしを抱きしめ頰や口唇に数えきれないキスをしてくれる
ヒロに応えながら遠のく意識を必死に捕まえるがスルリとすり抜けられそうでそろそろ耐えられなくなってきていた
「あや、俺を見て」
意識を保つのに必死で視界がボヤけていることにまで気が回らないわたしは辛うじてヒロの名前を口にした
「ヒ…ロ…」
「あや…俺はあやをずっと求めてるから。俺を信じて。俺を見て。…好きだよ」
ボヤけた視界の中、ヒロが柔らかく微笑んだように見え、わたしの意識は暗闇に引きずり込まれていった
――スズメの鳴き声が聞こえ意識が浮上した
悲しい夢を見たのか目を覚ましたのに悲しい、寂しい気持ちで溢れていて胸にぽっかりと穴が開いたような感覚があった
頰がつっぱる感じがして頰に手をやると涙で濡れている
覚えてはいないけど泣くほどに悲しい夢を見たのだろう
夢を見て涙を流すなんて何年ぶりだろう…
時計を見るとセットしてある目覚ましが鳴る1分前の時間だったので目覚ましを止めてベッドから身体を起こした
寝室のカーテンの隙間から一筋の光が部屋の中に差し込んでいてその光を見ていたら不意に胸に何かが込み上げ、それは形となって一筋の涙が頰を伝った
「や…だ、今日のわたしどうしちゃったんだろ…」
涙をぬぐいながら顔を洗うために洗面所に向かった
「あやさん、この書類の束に目を通して貰ったら諸伏さんに回してください。今日も出勤してるらしいので」
隣席の神津くんから書類の束を渡され頷いて受け取ったけど諸伏さんって誰…?
神津くんは知ってるみたいだし、神津くんの言葉からわたしも知ってる人で、その人はあまり登庁しないらしいことが推測できるので何かしらの任務に就いてるのだろう
同じ部署ならばあまり会わなかったとしても顔も名前も全員わかるはずなのに、何故か諸伏さんの顔が浮かんで来ないし名前に聞き覚えもないし男性か女性かもわからなかった
夢見が悪かったせいか今日は頭に霞がかかったようにボンヤリしてる部分がある
神津くんに聞こうかと思ったけど彼のあまりに自然な態度から聞くことが憚られ、胸に引っかかるものを感じながら渡された書類に目を落とす
「あや」
書類を読み込んでいると横に人の気配を感じ名前を呼ばれた
顔を上げると切れ上がった涼やかな目元を細めチンストラップスタイルの顎鬚を蓄えカチリとスーツを着た男性が立っていた
…誰だろう
名前を呼ばれたけど誰かわからず戸惑い、返事を返すことが出来ず、ジッとその男性を見つめた
「…っ、話がある。一緒に来てくれないか?」
苦しそうに眉をひそめたその男性に言われるまま席を立った
書類はまだ目を通しきってないので自机にひっくり返して飛ばないよう写真の入ったペーパーウエイトを乗せる
このペーパーウエイトは警察学校を卒業した際に記念品として貰ったもので中には同じ教場の集合写真が入ったものだ
男性はわたしのその一連の行為を黙って見て更に苦しそうな顔を一瞬見せたがすぐ覆い隠してわたしの前に立ち、導く
神津くんに視線を送っても彼は特に関心もないようで自分の仕事をしていた
…この人誰なんだろう?
公安の人なのかな?
神津くんの様子を見てる感じでは多分同じ公安の人な気がするけど、何故わたしはこの人を知らないんだろう…?
モヤモヤしながら付いていくと警視庁を出て警察庁の入ってる第二合同庁舎へ
身分証を提示して身体検査を受け辿り着いたのは警察庁警備局警備企画課の中にある名札のない上席と思われる人の部屋だった
本庁の職員が警察庁のお偉いさんの部屋に入ることは普通ならばありえないのでこの人は警察庁の人なのだろうか…
カギを開けドアを開いた男性に促され部屋に入室し、応接セットのソファに腰を下ろした
部屋にあるソファは固くも柔らかくもなく丁度良く、滑らかな革で感触が良かった
わたしの向かい側に座った男性が軽く開いた膝の上に両肘を乗せて両掌を組みそこへ顎を乗せ、わたしを真っ直ぐに見つめる
その強い視線にわたしは居心地悪く身じろぎをしてしまう
閉められた扉の向こうで忙しなく人が会話し、行き交っている音が静かな室内に聞こえてきていた
わたし、何かやらかしてしまったのだろうか?
覚えが全くないけど本庁ではなく警察庁の人にこうして呼ばれる理由がさっぱり思い当たらず首筋に冷や汗が流れる
真っ直ぐなその視線に耐えられず目を左右に泳がせた
どれだけの時間が流れたのか…
緊張して喉がカラカラだと自覚した頃、ようやく男性が口を開いた
「…やっぱり本当に覚えてないんだな」
眉尻を下げ哀しそうな、それでいて愛おしいような顔を見せる
覚えてないとは何のことだろう?
そんな顔されてもさっぱり心当たりがなく思わず首をかしげる
「俺は諸伏景光。警視庁公安部所属、現在潜入捜査中なのであまり登庁はしていないけどあやとは警察学校同期の警察官だよ」
警察学校の同期…?
それならば先程手にしたペーパーウエイトの写真に彼は写っているの?
航や零、研ちゃんや陣くんのことは覚えてるのに諸伏さんは全くわたしの思い出や記憶にない
それに本庁の公安部ならわたしと同じ部署なので同僚になるはず…
なのにわたしはこの人を知らないし、本庁の人間が何故この部屋を使えるのだろうか?
目を見開き頭に浮かんだ様々な疑問を口にしようと口を開いたけど声が出ない
今言われたことを反芻して噛み砕いて理解しようとしてもこれっぽっちも理解ができなかった
「な…何ですか?突然…」
「俺は、あやに助けられて…あやの犠牲の上で今この場にいることができてるんだ」
「何…のことだか…」
この人は何を言ってるんだろう…
わたしはこの人を知らない、なのにわたしの犠牲の上でこの場にいるとか言われても心当たりなんてこれっぽっちもない
「…本当に全く覚えてないんだな」
先程と同じようなセリフとともに溜息を吐いた諸伏さんはわたしから視線を外し室内のあちこちに彷徨わせた
わたしは膝の上に置いた手をギュッと握りしめ、また部屋に沈黙が流れる
「…昨日あったことを聞いてくれないか?」
長らく続いたように感じられた沈黙を諸伏さんが破り、わたしは小さく肯首した
――全てを話し終えたのか諸伏さんが目を伏せほぅと大きく息を吐いた
にわかには信じられない話をわたしは彼から聞かされていた
あまりにも現実離れした話に言葉が浮かばず諸伏さんを見つめることしかできない
「信じられないだろうけど今話したことは本当なんだ。でも…信じられないよな…」
「……」
「…これを見たら信じてくれる?」
そう言いながら諸伏さんがジャケットの内ポケットをゴソゴソして取り出したのは裏面に大きな傷が何ヶ所も入ったスマホで、それを操作してわたしに見せた
恐る恐る差し出されたスマホの画面を覗き込むと画面に表示されていたのは昨日着ていた部屋着のスエットに身を包み真っ白な背景の中、丸くなって寝ているわたしの姿だった
思わず目を見開き、恥ずかしさと訳のわからない気持ちがぐちゃぐちゃになりワナワナと身体が震える
「…ごめん、写真撮るつもりなかったんだけどあまりに無防備で可愛い寝顔につい…」
彼の話の決定的な証拠となる画像を見ても真っ白な空間に心当たりがなく、そこにわたしが写っているのが信じられない気持ちだった
気がついたら真っ白な空間に2人で閉じ込められてた上、飲んでから最初に見た人のことを全て忘れるクスリを飲んだわたしが諸伏さんのことを全て忘れ、それでやっとその部屋から2人解放された…なんてそんな現実離れした話を信じろという方が無理じゃないだろうか
でも画像があるから彼の言うとおり本当にクスリのせいで全てを忘れてるのかもしれない
「それで…諸伏さんはわたしに何のご用ですか?」
自分で思ってた以上に冷たい声に突き放すような言葉が乗り、自分自身に驚く
「『諸伏さん』か…。思ってたより堪えるな…」
大きな両手で自分の顔を覆った諸伏さん
その様子になぜかチクリと胸が痛んだ
「…あや…。あや…」
幾度となく名前を呼ばれ意識が浮上する
睡魔にあがらうように重怠い目をゆっくり開くと愛おしそうな顔でわたしの顔を覗き込んでいる諸伏さんがいた
「…諸伏さん?」
「あや…。大丈夫か?」
「…まだ頭が重いですが…大丈夫です」
靄がかかって重く感じる頭に手を当て軽く左右に振ったのちに身を起こすと周りが異様な風景であることに気がついた
真っ白な空間、上も下も横も、諸伏さんと自分以外に色が無い空間
照明は一切見えないのに明るい
あまりにも真っ白な空間のため、上下左右も分からなくなりそうな空間
この空間は昨日諸伏さんから聞いたまんまの空間だった
キョロキョロ見回しても真っ白な空間は果てなく広がっているように見える
本当にあったんだ……
彼が嘘を言ってるとは思わなかったけどあまりにも現実離れしてる話に実感がなかったのだ
結局あれから諸伏さんとの話は弾むことも進むこともなく、わたしは奇妙な違和感と不快感を抱えたまま本庁に戻った
自席に戻ってからも気分が悪く頭痛も酷かったので不調を理由に勤務時間終了後早々に帰宅してソファに身を投げ、1日あったことを振り返っていたらそのまま寝落ちしたところまでは覚えていた
…が、その後のことが全く思い出せない
「あやが目覚めるまでこの場を調べてみたんだけどやっぱり出口は見つからなかった。前と同じく文書と瓶は見つけたけどね」
そう言いながら諸伏さんはポケットから警察手帳サイズに折りたたまれたグレーの紙を取り出した
真っ白なこの空間でこのグレーはとても目立ち、諸伏さんとわたし以外で初めて認識できた色をわたしは震える手を伸ばして受け取る
カサ
カサッ
静かな空間に紙を開く音だけがした
「この部屋から出る方法はただ1つ
昨日のクスリを飲んだ人が全てを思い出すクスリを飲むこと」
42文字の簡素なその文章は諸伏さんの言葉を裏付けるものだった
この文章のとおりならわたしがクスリを飲んだら記憶が戻るということだ
このモヤモヤと靄がかかったような違和感と不快感は記憶がなくなっているからなのかもしれない
ジッとわたしの一挙一動を見守っていた諸伏さんへ向き直り言った
「…クスリ、頂けますか?」
諸伏さんは表情こそ変わらないものの目の奥に歓喜の色を宿しポケットから茶色のアンプルを取り出した
これが文章にあったクスリなのだろう
この違和感や不快感から解放されるなら…と躊躇いなくアンプルをパキッと割り、諸伏さんが声をかける間も無いまま勢いよく飲み干した
真っ白な空間のはずなのにわたしの目の前は真っ暗になり、バランスを取れなくなったわたしは倒れそうになったのだろう、ガッシリした身体に支えられたのを感じたところで意識を手放した
頭を撫でる温かいものを感じ意識が浮上する
ゆっくり目を開くとヒロの顔が目に入った
起き上がろうと身動ぎすると目覚めたことに気がついたヒロに力一杯抱きしめられる
「良かった…気が付いた…っ」
「苦しいよ、ヒロ…」
「あやっ!」
抱きしめられる腕に更に力が入り、わたしは息が出来なくてヒロの腕をタップして言った
「ちょっ…ヒロ、くっ苦し…」
「あや…あや…」
それでも力は緩められることがなくこのままだと酸欠により別の意味で意識を飛ばしそうだ
「ヒロ、待って!」
その言葉でようやくヒロの腕の力が弱まり、わたしは身体を起こしやっとヒロの顔を真正面から見据えることができた
切れ長の少し吊り上がった意志の強そうな目を潤ませるヒロに愛おしさが湧き上がり、今度はわたしの方から思い切り抱き着くとヒロも抱きしめ返してくれる
ヒロの逞しい胸に顔を埋めるとヒロの香りが一際強く香り、その香りを胸いっぱい吸い込んだわたしは顔を上げて言った
「ただいま、ヒロ」
「おかえり、あや」
ヒロの大きな手がわたしの両頬を包み込み、やんわりとヒロの方へ引き寄せられる
これからどうなるか、期待に胸が高鳴り続けるわたしはそれを悟られぬよう焦らすようにゆっくり目を閉じ、待ち焦がれた柔らかく温かいヒロの口唇を受け入れた
睡魔にあがらうように重怠い目をゆっくり開くと心配そうな顔してわたしの顔を覗き込んでいる同期であり同僚の諸伏景光がいた
「…ヒロ?」
「あや、気がついた?」
声をかけながら身を起こすと周りが異様な風景であることに気がつく
真っ白な空間、上も下も横も、ヒロと自分以外には色が無い空間なのだ
照明は一切見えないのに明るい
あまりにも真っ白なため、上下左右も分からなくなりそうな空間
わたしはまだ身を起こしたところなので腰をつけているところが地面だということはかろうじて分かるけど、この場から地平面がわたしの目で確認ができないほどに色が無い空間
ヒロとわたしが立てる音以外の音もなく、お互いの呼吸音まで聞こえそうなほど静かな空間
静かすぎて耳鳴りがしそうだった
昨晩は日付が変わる時間まで残業をして、その後一人暮らししている自宅マンションに帰宅したはず
疲れのためリビングのソファでしばし寝落ちし、午前2時頃に起きて入浴した後、行き倒れるようにボフッとベッドに倒れ込んだのを覚えている
帰って寝るだけの家は簡素だけどそれでもここよりはるかに生活感のある部屋だし、潜入捜査中で滅多に登庁して来ないヒロがこの場にいる理由も全く思い当たらない
もしかしてここに連れてきた何者かはわたしが密かに彼に対して抱いている恋心を知っているのだろうか?
…まさか…ね
「…ここどこなの?」
「わからない」
「何で私たち2人ここに居るの?」
「…わからない。俺が目覚めた時には既にここに居て、数歩先にあやが倒れてた
俺はゼロと風見さんと庁舎で打ち合わせしてたのは覚えてるんだけどその後の記憶が曖昧なんだ」
話しながら立ち上がろうとしたわたしへヒロは手を伸ばしてくれたので手を取ろうとわたしも手を伸ばすと自分が寝間着として着ていたスエットの上下だったことに気がついた
ヒロはスーツの上下なので彼の記憶が曖昧と言えどきっとまだ仕事をしていたのだろう
カチリとしたスーツ姿のヒロとは対照的にラフな格好をしている自分が恥ずかしかった
目の前に伸ばされた骨張った男性らしいその手に心臓を跳ねさせたけど気取られないよう平常を装い、手を借りて立ち上がると座っていた時より更に距離感も何もわからなくなった
立ち上がったはずなのに真っ白な空間で距離も高さも分からないからだろうか…それとも今、地面と設置してる面が両の足の裏だけだからだろうか…もしくはヒロと自分以外に色が無いからだろうか、くらりと立ちくらみに近い眩暈を起こしフラつくとヒロに支えられる
着痩せするしなやかな筋肉を纏ったヒロの身体はわたしを受け止めてもビクともしない
スーツの堅めな生地を通しヒロの体温を感じて跳ねる心臓が苦しく、こんなに心臓が自己主張してると鋭いヒロに気づかれてしまう…と、逞しいヒロの身体から身を起こした
ヒロから離れるのは名残り惜しい…だけどそんな気持ちをヒロに絶対悟られてはならないと自分自身に喝を入れ、ヒロから手を離す
その様子を黙って見送ってくれたヒロが口を開いた
「あやが目覚めるまでこの場を調べてみたんだけど…ここがどこか分からないし出口も見つからなかった。文書と瓶は見つけたけどね。あと試してないのはコレなんだ」
そう言いながらジャケットに隠れて見えなかったショルダーホルスタからニューナンブを手にし、セーフティをカチリと解除してわたしに背を向け構えるヒロ
その無機質な音にゾワリと寒気を感じ、思わずヒロの背に手を伸ばすけどヒロの背に触れる勇気は出なくて宙を彷徨い、そして所在無く降ろす
「ヒロ、発砲したら後で書類大変だよ…?」
「この場からあやと出られるなら何枚でも喜んで書くよ」
「…でも…っ」
「あやは俺の後ろに。跳弾する可能性もあるから」
ヒロの意志の強い声に逆らえずヒロの背に向かってそっと身を寄せる
彼の射撃の技術については同期の中で一番だったので信頼しているけど跳弾となると話は別だ
素材がわからない以上、どのように跳弾するかわからない
流石のヒロでも跳弾の弾道までは読めないだろう
「耳塞いで」
「うん」
言われるまま掌で耳を覆うとその様子を視認したヒロが引き金を引いた
耳を覆っていたお陰で至近距離の発砲音はある程度抑えられたけど発砲時のビリッとした空気が身を掠め、少しして硝煙の匂いがしてくる
ヒロの後ろにいたので弾道は見てなかったけど終わったのだろうと判断し、耳から手を離そうとヒロを見上げるとわたしのしたいことが分かったのだろう、頭を左右に振った後、顎で視線を寄越すように促した
まだ発砲するつもりらしく、わたしはヒロに促されるまま銃の射線上に目を向けるとヒロは銃口をスススッっと少し下へ向ける
ヒロのつま先からおよそ5mほどの距離だ
この至近距離で発砲するのは…と思いヒロに目を向けるとニコリとつり上がった目を細め人好きする笑みを浮かべ、わたしの身体がヒロの背から出てないか確認してから銃を構える
「見てて」
口パクでそう言ってるのが分かったのでわたしは黙って頷くとヒロは再び銃を発砲した
マズルフラッシュとほぼ同時に着弾した地点の地面がまるでスライム状の何か柔らかいものに変化し、銃弾は包まれそのままぷるんっと呑まれ、また何事もなかったかのように地面に戻る
ヒロのつま先からおよそ5mの距離なので見間違えるはずはない
思わず走り寄り着弾した場所に屈み手をやるけどその場所は固く、先程見たスライム状の何か柔らかい感触ではなかった
「やっぱりダメか…」
ショルダーホルスタにニューナンブを直したヒロはため息を吐き、わたしの横に屈み込む
なぜわたしたちはここに居るのか、なぜヒロと一緒なのか、どういう意図があるのか…着弾地点を撫でながら考えても何もわからずヒロへ目を向ける
ヒロは眉を寄せ顎鬚を撫でながら何やら考え込んだ様子で着弾地点を撫でているわたしの手を茫と見ていたけどわたしの視線に気がついたのかこちらを見て眉尻と口角を下げたまま無理矢理笑顔を作った
その笑顔がわたしの不安を煽った
「ヒロ、さっき話してた文書と瓶見せて?」
現状手詰まりだと両手を挙げてるヒロにばかり任せるのは申し訳ないから…と声をかけるとヒロは露骨に嫌そうな顔をする
「…どうしても見せなきゃダメ?」
「うん、ここまでヒロに頼りきりだから脱出の手段をわたしにも一緒に考えさせて?」
手を差し伸べ、そう言うとヒロは先程より大きなため息を吐き、観念したかのようにジャケットの内ポケットから警察手帳サイズに折りたたまれたグレーの紙を取り出した
真っ白なこの空間でこのグレーはとても目立ち、ヒロとわたし以外で初めて認識できた色だった
カサ
カサッ
音を立てグレーの紙を開く
「この部屋から出る方法はただ1つ
飲んでから最初に見た人のことを全て忘れるクスリをどちらかが飲むこと」
たった48文字の、50文字に満たないその文章は感情や温度を一切感じさせないものだった
確かにこの真っ白な空間で色があるのはヒロとわたしとこの文書だけなのでクスリを飲んだら自ずと互いの顔を見ることになるだろう
そして飲んだ方が飲んでない方のことを全て忘れると言うのだ
この空間のようにわたしの頭の中は真っ白になった
ヒロがただの同期で同僚のわたしの存在を忘れるのは特に問題ないだろう
彼は潜入捜査をしていてほとんど登庁しないからだ
わたしは同期や同僚ではなく、ただの同じ部署の人間という存在になるだけだ
わたしの恋心は今まで通り知られないようにすれば何ら問題はないだろう
わたしが飲む場合、今まで大切に温めてきたヒロへの気持ち、ヒロの存在全てをクスリによって奪われることになる
それは忘れてしまうとは言え個人的に悲しいことだった
警察官になる夢を叶えるため子供の頃から勉強、剣道や柔道といった武術に明け暮れていたので日々忙しく、ヒロに出会うまで恋愛をしたことがなかったわたしにとって恥ずかしながらヒロは初恋の人だ
今まで同期で同僚以上の関係ではなかったけどこの気持ちを無くすことはわたしの人生の一部を失うに等しかった
そう考えるとローリスクなヒロに飲んでもらう方が良い…?
ただ、この文書にある通り、本当に全てを忘れるだけのクスリであるならば…だ
全てを忘れるとは深読みすると死ぬことも含まれる可能性だってあり得る
もし死ぬ可能性が少しでもあるならばヒロが飲むのではなくわたしが飲む方が良い
わたしよりヒロの方がこれからの日本に必要な人であるのだから
でも…それなら…そうであるなら無くす前に、消える前に…消される前に…この感情を最後にヒロにぶちまけて良い?
ううん、ヒロが忘れるわけじゃないんだし、今は大切な潜入捜査をしているんだからただの同期の恋心なんて今まで通り知られない方が良いだろう
わたしのエゴでヒロに枷を背負って貰いたくない
ただ…わたし自身が忘れてしまうならこのままこの感情は誰にも知られることなくこの世から消えてしまう
文字通りこの感情を抱いた本人であるわたしが忘れてしまうのだ
ヒロのこれからの為にはこの感情は今まで通り知られることなく、クスリとともにわたしの中から消してしまうのが最良なのは分かっているけど初めて抱いたこの感情を自分の意思とは関係無く消さなければならないことが少しだけ寂しく思った
もしかしたら命も失う可能性もある
わたしの命とヒロの命、どっちがこれからの日本や国民のために大切かと言えば間違いなくヒロと言える
文書を読んでしばらく沈黙していたわたしの中でようやく決心がつく
…わたしがヒロをこの空間から脱出させたい…!
黙ってわたしの様子を見守っていたヒロの目を見た
深い海の色したヒロの目には戸惑いが覗いているように見える
「ヒロ、わたしが飲むからクスリ頂戴」
先程文書を渡すよう促した時と同じようにヒロに手を差し伸べるとヒロは困った顔のままわたしをじっと見つめる
わたしも目を逸らさずヒロを見つめ返す
…どれだけの時間が経ったのだろう、真っ白な空間では時間感覚もなかった
「あや…俺はあやを犠牲にはできないよ」
寂しそうに笑うヒロに胸がキュッと締め付けられる
「ダメ。クスリの効果が本当に忘れるだけなら良いけど得体の知れないものだから。わたしに何かあったらヒロ、わたしを連れて帰って」
「…あや」
わたしは黙って唇を噛みしめ、ハッキリとした意思表示をするためヒロを見つめ続けた
「俺が飲むよ、あやに危ないことはさせられない」
「ダメ、わたしが飲む」
ずっと宙に浮かせたままだった、ヒロに向けて差し伸べている手がいい加減痺れてきた
変わらぬ意志だとわかってもらうためにその手でヒロの胸元を掴み言った
「ヒロ、お願い!」
「…それじゃあクスリ飲む前に俺の話聞いてくれ」
「この文書によるとヒロのこと忘れちゃうらしいからそれでもいいなら…」
わたしはヒロの胸元を掴んでいた手を下ろす
ヒロはスーツにシワができることも構わずその場に胡座をかいて座り込んだのでわたしもヒロの横に三角座りして彼の言葉を待った
耳が痛くなるくらいの静寂の中、ようやくヒロは口を開く
「俺ね、あやのことがずっと好きだったんだ」
「…え…?」
思いもよらない言葉に戸惑うわたしは思わず両足をグッと体に密着させて身を小さくするとヒロが喉の奥でくすりと笑う
「警察学校の頃からだったんだ。あやは柔道で伊達に何度負けても何度も何度も挑んでたろ?」
…あぁ、そうだった
警察学校入校当時のわたしは女子柔道の国体で優勝したこともあって自分より強い人は居ないとちょっと天狗になっていた
柔道は体格に恵まれてる方が有利だったりするけど当時のわたしは自分より体格の良い人もポンポン投げ飛ばしてきてたからちょっと勘違いしちゃってて…
その鼻っ柱を折ってくれたのが航だった
悔しくて何度も何度も挑んだけど一度も勝てなかったんだ
航の話では零は更に強いと聞いて自分は井の中の蛙だったと臍を噛んだこともよく覚えている
当時の自分的に黒歴史だったことをいきなりヒロに言われて恥ずかしくなり思わず膝小僧に顔を埋める
「あれを見てて凄い努力家で真っ直ぐな子だなって思ったんだ
それからかな…何かある毎にあやに目が行ってて…笑顔が弾けるようで見てるだけで元気がもらえるなって思ったんだけど、ある日ゼロに指摘されて『あぁ、俺はあやを好きなんだなぁ』って気がついたんだ」
訥々と目の前の白い空間の一点を見つめ語るヒロ
「ずっと…それからずっと好きだった。ずっと好きで、それでいて一歩踏み出す勇気が出なくて…
足踏みしてたけどようやく決心して告白しようと思ってたところに潜入捜査の指令が出て…
犯罪組織への潜入捜査なんて危険なことをするのにそこであやに告白して気持ちを伝えたら良い意味でも悪い意味でもあやに心配をかけてしまう
…それは俺は望んでなかった。あやにはずっと笑顔でいて欲しかったんだ」
こちらを見て柔和な笑みを見せたヒロに自然と涙が溢れ、一筋二筋と頰を流れる
涙をそっと拭ってくれたヒロの手に思わず自分の手を重ねる
「わたっ…わたしもっ…ヒロのことがずっと好きだった…っ!」
そう言った途端に涙は堰を切ったように溢れ、流れ出す
ボロボロと止まることを知らず、だけどヒロからは目を逸らすことはしなかった、できなかった
わたしはきっと凄くみっともない顔をしてると思う
好きな人に見せられた顔ではないだろう
だけどヒロから目をそらそうとは思わなかった
ヒロが涙を拭おうとしていた手を広げ、わたしの濡れた頰を包む
その手は温かかった
今までずっとわたしの片思いだと思っていた
こんな形で長年の思いを通じさせることになるとは思わなかった…!
だけどこの気持ちをわたしはこれから忘れてしまうんだ
ヒロのことを忘れてしまうんだ
忘れられる側はどんな気持ちになるんだろう
忘れる側より忘れられる側の方がきっと辛い
置いてく方より置いて行かれる方が深く心に残ると思う
「ごめん、ヒロ」
考えていたら頭の中がぐるぐるして思わずヒロに抱きつくとヒロも力強く抱きしめ返してくれる
ヒロの胸の中は温かく、いつもヒロが纏ってる優しい香りがした
その香りを胸いっぱいに吸い込んで顔を上げるとヒロに顎を親指と人差し指で挟まれ色っぽい目で見つめられる
これから行われるだろう行為に期待し、胸が高鳴り目をゆっくり閉じると思ったとおり柔らかな感触がそっと口唇に触れた
遠慮がちですぐ離れようとするその感触を離したくなくてヒロに抱きつく腕に力を入れ、柔らかな感触を確かめるように自分のそれをヒロに押し付けた
一瞬躊躇ったヒロだったけどギュッとわたしを抱きしめ角度を変え何度も何度もキスをくれる
もっと深く…と口を緩く開くとそれに気づいたヒロの舌が遠慮がちにわたしの中に入ってくる
その感覚にゾクゾクとして思わず声が漏れた
そうしてしばらくお互いに幾度となくキスを求め合い交わした後、ヒロがジャケットのポッケから小さな瓶を取り出した
よくよく見るとそれは茶色のアンプルで中には色はわからないけど20ccほどの液体が入っている
たったこれだけの量を服用するだけでわたしの中にあるヒロの全てを忘れてしまうんだ…と恐ろしい気持ちになった
「あやが俺のことを忘れても俺はあやを忘れないし、今日のことも、これからのあやへの気持ちも変わらない
また新たに出会いからやり直してあやには俺のこと好きになってもらうから
もう一度あやの気持ちを取り戻すから」
「うん、うんっ」
――本当は別の手段もあった
この場から出られるまで目を開かなければ…
文書のとおりなら飲んでから最初にヒロを見なければ彼を忘れることはない…はず
わたしはやっと通じ合えたこの想いを今の幸せな気持ちを本当は忘れなくなかった
ずっとこの思い出を大切にヒロと共有していたかった
だけどここから出られた後、最初に顔を合わせる人が誰かわからないし、相手によっては大事になる可能性がある
互いに今回のことを理解してる人間の方が良いだろうとヒロに提案され、わたしはヒロの顔を最初に見ることになったのだ
…わたしは忘れてしまうのに、ヒロだけが覚えてることになってしまうのに、自分を犠牲にすることを何とも思ってないのね、ヒロは
「必ずまたあやに好きになってもらうから」
それなのに自信有り気に微笑みわたしを元気付けるヒロは、アンプルをパキッと折って一気にクスリを飲み下したわたしを抱きしめ頰や口唇に数えきれないキスをしてくれる
ヒロに応えながら遠のく意識を必死に捕まえるがスルリとすり抜けられそうでそろそろ耐えられなくなってきていた
「あや、俺を見て」
意識を保つのに必死で視界がボヤけていることにまで気が回らないわたしは辛うじてヒロの名前を口にした
「ヒ…ロ…」
「あや…俺はあやをずっと求めてるから。俺を信じて。俺を見て。…好きだよ」
ボヤけた視界の中、ヒロが柔らかく微笑んだように見え、わたしの意識は暗闇に引きずり込まれていった
――スズメの鳴き声が聞こえ意識が浮上した
悲しい夢を見たのか目を覚ましたのに悲しい、寂しい気持ちで溢れていて胸にぽっかりと穴が開いたような感覚があった
頰がつっぱる感じがして頰に手をやると涙で濡れている
覚えてはいないけど泣くほどに悲しい夢を見たのだろう
夢を見て涙を流すなんて何年ぶりだろう…
時計を見るとセットしてある目覚ましが鳴る1分前の時間だったので目覚ましを止めてベッドから身体を起こした
寝室のカーテンの隙間から一筋の光が部屋の中に差し込んでいてその光を見ていたら不意に胸に何かが込み上げ、それは形となって一筋の涙が頰を伝った
「や…だ、今日のわたしどうしちゃったんだろ…」
涙をぬぐいながら顔を洗うために洗面所に向かった
「あやさん、この書類の束に目を通して貰ったら諸伏さんに回してください。今日も出勤してるらしいので」
隣席の神津くんから書類の束を渡され頷いて受け取ったけど諸伏さんって誰…?
神津くんは知ってるみたいだし、神津くんの言葉からわたしも知ってる人で、その人はあまり登庁しないらしいことが推測できるので何かしらの任務に就いてるのだろう
同じ部署ならばあまり会わなかったとしても顔も名前も全員わかるはずなのに、何故か諸伏さんの顔が浮かんで来ないし名前に聞き覚えもないし男性か女性かもわからなかった
夢見が悪かったせいか今日は頭に霞がかかったようにボンヤリしてる部分がある
神津くんに聞こうかと思ったけど彼のあまりに自然な態度から聞くことが憚られ、胸に引っかかるものを感じながら渡された書類に目を落とす
「あや」
書類を読み込んでいると横に人の気配を感じ名前を呼ばれた
顔を上げると切れ上がった涼やかな目元を細めチンストラップスタイルの顎鬚を蓄えカチリとスーツを着た男性が立っていた
…誰だろう
名前を呼ばれたけど誰かわからず戸惑い、返事を返すことが出来ず、ジッとその男性を見つめた
「…っ、話がある。一緒に来てくれないか?」
苦しそうに眉をひそめたその男性に言われるまま席を立った
書類はまだ目を通しきってないので自机にひっくり返して飛ばないよう写真の入ったペーパーウエイトを乗せる
このペーパーウエイトは警察学校を卒業した際に記念品として貰ったもので中には同じ教場の集合写真が入ったものだ
男性はわたしのその一連の行為を黙って見て更に苦しそうな顔を一瞬見せたがすぐ覆い隠してわたしの前に立ち、導く
神津くんに視線を送っても彼は特に関心もないようで自分の仕事をしていた
…この人誰なんだろう?
公安の人なのかな?
神津くんの様子を見てる感じでは多分同じ公安の人な気がするけど、何故わたしはこの人を知らないんだろう…?
モヤモヤしながら付いていくと警視庁を出て警察庁の入ってる第二合同庁舎へ
身分証を提示して身体検査を受け辿り着いたのは警察庁警備局警備企画課の中にある名札のない上席と思われる人の部屋だった
本庁の職員が警察庁のお偉いさんの部屋に入ることは普通ならばありえないのでこの人は警察庁の人なのだろうか…
カギを開けドアを開いた男性に促され部屋に入室し、応接セットのソファに腰を下ろした
部屋にあるソファは固くも柔らかくもなく丁度良く、滑らかな革で感触が良かった
わたしの向かい側に座った男性が軽く開いた膝の上に両肘を乗せて両掌を組みそこへ顎を乗せ、わたしを真っ直ぐに見つめる
その強い視線にわたしは居心地悪く身じろぎをしてしまう
閉められた扉の向こうで忙しなく人が会話し、行き交っている音が静かな室内に聞こえてきていた
わたし、何かやらかしてしまったのだろうか?
覚えが全くないけど本庁ではなく警察庁の人にこうして呼ばれる理由がさっぱり思い当たらず首筋に冷や汗が流れる
真っ直ぐなその視線に耐えられず目を左右に泳がせた
どれだけの時間が流れたのか…
緊張して喉がカラカラだと自覚した頃、ようやく男性が口を開いた
「…やっぱり本当に覚えてないんだな」
眉尻を下げ哀しそうな、それでいて愛おしいような顔を見せる
覚えてないとは何のことだろう?
そんな顔されてもさっぱり心当たりがなく思わず首をかしげる
「俺は諸伏景光。警視庁公安部所属、現在潜入捜査中なのであまり登庁はしていないけどあやとは警察学校同期の警察官だよ」
警察学校の同期…?
それならば先程手にしたペーパーウエイトの写真に彼は写っているの?
航や零、研ちゃんや陣くんのことは覚えてるのに諸伏さんは全くわたしの思い出や記憶にない
それに本庁の公安部ならわたしと同じ部署なので同僚になるはず…
なのにわたしはこの人を知らないし、本庁の人間が何故この部屋を使えるのだろうか?
目を見開き頭に浮かんだ様々な疑問を口にしようと口を開いたけど声が出ない
今言われたことを反芻して噛み砕いて理解しようとしてもこれっぽっちも理解ができなかった
「な…何ですか?突然…」
「俺は、あやに助けられて…あやの犠牲の上で今この場にいることができてるんだ」
「何…のことだか…」
この人は何を言ってるんだろう…
わたしはこの人を知らない、なのにわたしの犠牲の上でこの場にいるとか言われても心当たりなんてこれっぽっちもない
「…本当に全く覚えてないんだな」
先程と同じようなセリフとともに溜息を吐いた諸伏さんはわたしから視線を外し室内のあちこちに彷徨わせた
わたしは膝の上に置いた手をギュッと握りしめ、また部屋に沈黙が流れる
「…昨日あったことを聞いてくれないか?」
長らく続いたように感じられた沈黙を諸伏さんが破り、わたしは小さく肯首した
――全てを話し終えたのか諸伏さんが目を伏せほぅと大きく息を吐いた
にわかには信じられない話をわたしは彼から聞かされていた
あまりにも現実離れした話に言葉が浮かばず諸伏さんを見つめることしかできない
「信じられないだろうけど今話したことは本当なんだ。でも…信じられないよな…」
「……」
「…これを見たら信じてくれる?」
そう言いながら諸伏さんがジャケットの内ポケットをゴソゴソして取り出したのは裏面に大きな傷が何ヶ所も入ったスマホで、それを操作してわたしに見せた
恐る恐る差し出されたスマホの画面を覗き込むと画面に表示されていたのは昨日着ていた部屋着のスエットに身を包み真っ白な背景の中、丸くなって寝ているわたしの姿だった
思わず目を見開き、恥ずかしさと訳のわからない気持ちがぐちゃぐちゃになりワナワナと身体が震える
「…ごめん、写真撮るつもりなかったんだけどあまりに無防備で可愛い寝顔につい…」
彼の話の決定的な証拠となる画像を見ても真っ白な空間に心当たりがなく、そこにわたしが写っているのが信じられない気持ちだった
気がついたら真っ白な空間に2人で閉じ込められてた上、飲んでから最初に見た人のことを全て忘れるクスリを飲んだわたしが諸伏さんのことを全て忘れ、それでやっとその部屋から2人解放された…なんてそんな現実離れした話を信じろという方が無理じゃないだろうか
でも画像があるから彼の言うとおり本当にクスリのせいで全てを忘れてるのかもしれない
「それで…諸伏さんはわたしに何のご用ですか?」
自分で思ってた以上に冷たい声に突き放すような言葉が乗り、自分自身に驚く
「『諸伏さん』か…。思ってたより堪えるな…」
大きな両手で自分の顔を覆った諸伏さん
その様子になぜかチクリと胸が痛んだ
「…あや…。あや…」
幾度となく名前を呼ばれ意識が浮上する
睡魔にあがらうように重怠い目をゆっくり開くと愛おしそうな顔でわたしの顔を覗き込んでいる諸伏さんがいた
「…諸伏さん?」
「あや…。大丈夫か?」
「…まだ頭が重いですが…大丈夫です」
靄がかかって重く感じる頭に手を当て軽く左右に振ったのちに身を起こすと周りが異様な風景であることに気がついた
真っ白な空間、上も下も横も、諸伏さんと自分以外に色が無い空間
照明は一切見えないのに明るい
あまりにも真っ白な空間のため、上下左右も分からなくなりそうな空間
この空間は昨日諸伏さんから聞いたまんまの空間だった
キョロキョロ見回しても真っ白な空間は果てなく広がっているように見える
本当にあったんだ……
彼が嘘を言ってるとは思わなかったけどあまりにも現実離れしてる話に実感がなかったのだ
結局あれから諸伏さんとの話は弾むことも進むこともなく、わたしは奇妙な違和感と不快感を抱えたまま本庁に戻った
自席に戻ってからも気分が悪く頭痛も酷かったので不調を理由に勤務時間終了後早々に帰宅してソファに身を投げ、1日あったことを振り返っていたらそのまま寝落ちしたところまでは覚えていた
…が、その後のことが全く思い出せない
「あやが目覚めるまでこの場を調べてみたんだけどやっぱり出口は見つからなかった。前と同じく文書と瓶は見つけたけどね」
そう言いながら諸伏さんはポケットから警察手帳サイズに折りたたまれたグレーの紙を取り出した
真っ白なこの空間でこのグレーはとても目立ち、諸伏さんとわたし以外で初めて認識できた色をわたしは震える手を伸ばして受け取る
カサ
カサッ
静かな空間に紙を開く音だけがした
「この部屋から出る方法はただ1つ
昨日のクスリを飲んだ人が全てを思い出すクスリを飲むこと」
42文字の簡素なその文章は諸伏さんの言葉を裏付けるものだった
この文章のとおりならわたしがクスリを飲んだら記憶が戻るということだ
このモヤモヤと靄がかかったような違和感と不快感は記憶がなくなっているからなのかもしれない
ジッとわたしの一挙一動を見守っていた諸伏さんへ向き直り言った
「…クスリ、頂けますか?」
諸伏さんは表情こそ変わらないものの目の奥に歓喜の色を宿しポケットから茶色のアンプルを取り出した
これが文章にあったクスリなのだろう
この違和感や不快感から解放されるなら…と躊躇いなくアンプルをパキッと割り、諸伏さんが声をかける間も無いまま勢いよく飲み干した
真っ白な空間のはずなのにわたしの目の前は真っ暗になり、バランスを取れなくなったわたしは倒れそうになったのだろう、ガッシリした身体に支えられたのを感じたところで意識を手放した
頭を撫でる温かいものを感じ意識が浮上する
ゆっくり目を開くとヒロの顔が目に入った
起き上がろうと身動ぎすると目覚めたことに気がついたヒロに力一杯抱きしめられる
「良かった…気が付いた…っ」
「苦しいよ、ヒロ…」
「あやっ!」
抱きしめられる腕に更に力が入り、わたしは息が出来なくてヒロの腕をタップして言った
「ちょっ…ヒロ、くっ苦し…」
「あや…あや…」
それでも力は緩められることがなくこのままだと酸欠により別の意味で意識を飛ばしそうだ
「ヒロ、待って!」
その言葉でようやくヒロの腕の力が弱まり、わたしは身体を起こしやっとヒロの顔を真正面から見据えることができた
切れ長の少し吊り上がった意志の強そうな目を潤ませるヒロに愛おしさが湧き上がり、今度はわたしの方から思い切り抱き着くとヒロも抱きしめ返してくれる
ヒロの逞しい胸に顔を埋めるとヒロの香りが一際強く香り、その香りを胸いっぱい吸い込んだわたしは顔を上げて言った
「ただいま、ヒロ」
「おかえり、あや」
ヒロの大きな手がわたしの両頬を包み込み、やんわりとヒロの方へ引き寄せられる
これからどうなるか、期待に胸が高鳴り続けるわたしはそれを悟られぬよう焦らすようにゆっくり目を閉じ、待ち焦がれた柔らかく温かいヒロの口唇を受け入れた