記憶の彼方のカケラ
昔々、ある所にそれはそれは端正な若者が居りました。
美しかったその男は、一日部屋に閉じこもって本ばかり読むか、たまに泉に出かけることしかしませんでした。
同じ町に住む人々は、そんな男を見て、まったく美しさしか取り柄がないんだからと、呆れてばかりいました。
そんなある日、大きな嵐が過ぎ去った日の事でした。
不思議なことに、満ち欠けるはずの月は満月のままずっと動かず、夜明け直前になるまで男の家の上に陣取ることがありました。
それと同時に、毎夜毎夜、男の家からは歌声が響くようになりました。
夜道を歩く人々は、その歌声に聞き惚れて、忽ちのうちに町中の噂になりました。
あの男の家からは世にも美しい歌声が聞こえる。
美しい男の歌は美しいものなのだ。
そんな噂は次第に大きくなり、ついには領主様にまで届いたほどでした。
そうして月が九日を過ぎても満月を保ったころ、領主様は部下を大勢引き連れて、男が住む町に、男の歌声を聞くためにやってきました。
暫くして夜になり、満月が顔を出し、いつものように、男の歌声が辺りに響きました。
その見事な歌声に領主様も部下たちもあっぱれの一言。
ですが、次第に歌声は様子がおかしくなりました。
始めは何かに詰まるように、そして徐々にじぃじぃという音がしました。
歌声が完全にじぃじぃという声に変ってしまったとき、異変に気付いた人たちが扉を跳ね除け部屋に押し入りますが、そこにいたのは男ではなく一匹のセミでした。
暫くして、町ではすぐに別の噂が広まりました。
きっと月の女神さまの仕業だろう。
男の歌声が独り占めできなかったから、セミに変えてしまったんだ。
ですが、この噂の真相は、もう誰にも分りません。
しかし、男の部屋にセミが表れたその日から、月は再び欠け始めたとのことです。
