記憶の彼方のカケラ


 ざあざあと、この朝から続いた雨は、夕になるとごうごうという音に変わった。
 そうなると、いくら今が夏時であっても、誰も外に出たがらずに引きこもり、羽虫ですら例外はなかった。

 そういった雨は、この男に運良く味方したようだった。
 この、つい先ほど盗み食いで追い立てられていたチンケな男は、しめしめ今度も逃げ果せたなどと思いながら、人のいない場所を目指して駆けた。

 駆けて、駆けるうち次第に山に入り込み、泥濘んだ地のため時に四つ足になって駆けた。
 哀れな、このケチ臭い男は、阿呆な事にも幼少から、盗んでは逃げて、逃げ果せてを繰り返したので、この生き方しか知らなかったのである。

 ごうごうという音、雨の匂い、そしてそれら以上に支配的な暗闇の中を駆けた男は、やがて弱い光を見た。
 すわ幻覚か、そう思い明かりによると、何とそれは古いおんぼろな山小屋から漏れ出る光だった。

 男が戸の前に立つと、やにわにがらりと開かれて、そこには線の細い女がいた。
 絵に描いたような華やかさこそなけれど、素朴な美しさを感じさせるこの女が、山に一人で住んでいるとは到底信じがたかったが、男は半ば無理やり、そこへ雨宿りのために居座った。
 無礼な男の態度にも、女は何も言わなかった。

 たとえ雨が上がろうとも、男は一晩でこのおんぼろ宿を気に入ったようであり、そこから離れようとしなかった。
 離れてしまったら、道も知らぬ山の小屋、事実二度と訪れることができないのであるし、一人で山を下りれる気がしなかったからでもある。
 そして、こういった男にとって人の立ち入らない山奥は、隠れるのには丁度良かったのだ。

 男が何をしようと、家主らしき女は何も言わなかった。
 寝腐れようと、床張りのささくれを取ろうとも、薄ら笑い、どうやってか用意した重湯を、いつも古い鍋いっぱいに用意した。

 そんな、ある晩のこと、男はふと目が覚めた。
 本当にふと、時々起こるあれに見舞われた男は、はたと不審に思った。
 いつも隣りにいるはずの、あの薄ら笑う女がいないのだ。

 男はそこまで狭くもなく、また広くもない山小屋を探して回ると、明かりの灯った部屋を見つけた。
 その部屋はあの女が、男の一切を許した女が、唯一、近づくことを拒んだ部屋だ。

 好奇心に説き伏せられ、男はそうっと、その部屋へ、努めて小さな羽虫のように忍び寄ると、あと一歩で大声を出しかけた。
 なんと、明かりに透けた障子を見るに、うねうねと,なんとも大きな、大きなヘビが、対岸にいるのだ。

 ひゅっ、と小さく、本当に小さく男の吐出した息を、耳ざとく蛇は聞きつけるとがたんがたんと、大きく音を立てながら障子を開いて、男の前に姿を現した。

 逃げる時間は十分あったはずだが、男は動けなかった。
 男はその時に、どうやって指を動かすかすらも忘れてしまっていた。

 男の前に姿を現した白く、赤い目を光らせたこの山の精怪、人々が大蛇とか龍とか呼ぶ存在は、何をするでもなく、男をじぃと見つめていた。

 男はその赤い目を見て、また己を見せ続けていたが、不意に手を伸ばした。
 男の緩慢に伸ばされた手のひらに、ヘビもまた緩慢に頭を動かし、額を付けた。
 外で豪雨が唸っていた。
 行燈の古びた灯りだけが、山で唯一の光であった。

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