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第一章

 この世界には、人間と天使が存在する。
人間は地上に住み、天使は天界に住んでいる。
天使は、翼があるだけでなく魔法が使える者もいる。また、稀に人間でありながら魔法が使える者もいる。
天使は気ままに地上へと降り立つ。それを人間は快く迎え入れる。そんな世界だ。
 だが、人間でもなく天使でもない人間が存在することがある。

「堕天使」だ。

それは誤ちを犯し、天界から追放された天使のことをいう。その翼は黒く染まり見た者を恐怖のどん底に陥れるという。
 これは、とある一人の堕天使と非力な人間の物語である。

 レンガ造りの建物と地面。ひっそりとした路地裏をひたひたと歩きながらチップをぼんやりと見つめていた。生臭い。暗い。ゴミばかり。ドブネズミがゴミを漁る。足元を確認していなかったボクは転がっていた生ゴミのりんごを蹴飛ばし「うわぁっ」と声をあげる。バカみたいだ。そう思うけれど、ボクは人一倍、臆病だと認めざるを得なかった。近くの住民の声が聞こえる。幸せそうな家庭の会話だった。路地裏は夜になるとなにも見えやしない。ランプでも持ってくるんだった、と。後悔した時にはもう仕事を終え夜に。気弱な性格のボクには少しばかり厳しい環境だった。
 今日の稼ぎはまあまあだった。酒場での仕事で一日の食料を補える金額ならそれでいい。余ったお金は少しでも貯金する。それで衣服を購入するのだ。そんな生活が続いてはや三年。始めは苦しいものがあった。しかし、次第に慣れてくるものだ。そのため、破けた衣服をそのまま普段着として着用している。隙間から肌寒い風が吹き込んでくる。寒い。指先が冷たく、動かしにくい。真冬は耐えられたものじゃない。だから酒場に居候する。優しいオーナーなので家賃はとられなかった。それがなによりの助けだった。世の中には、情の欠片さえないやつだっている。ボクの母を殺したやつのように。あの日のことを一度たりとも忘れたことはない。大好きだった母が殺されたあの日のことを。
 悲しみや憎悪をやどすボクの心のように、希望も明かりもない暗闇に包まれた路地裏を月の光を支えに歩いていく。ずっと背高いレンガ造りの建物と同じレンガ造りの道が続く。上を見上げれば、はるか遠くに三日月や建物の窓からふわふわと風を受ける洗濯物が見える。なかには、女性物の下着があった。ボクの顔は一瞬で赤くなりレンガ造りの道へ、目線を逸らす。そこにドブネズミがいてボクはまた「うわぁっ!」と声をあげてしまった。
 一つ、ぽつんと浮かんでいる三日月は哀愁を帯びたほのかな光で街を照らしてくれている。ボクに家はない。家族もいない。父は離婚し、それ以来会っていない。顔なんかおぼえてない。さっき話したように母もいない。復讐する気なんて毛頭ない。きっとボクじゃ復讐なんかできないだろうから。家なんてないからいつも路地裏で寝ている。決まった場所もなくここでいいや、とその場で決めた場所が家になる。ただそこに座るなりうずくまるなりして寝る。生ゴミの異臭がする。虫が辺りを走り回る。気持ちが悪い。どこか離れた場所で猫が威嚇し合う声が聞こえる。ボクにはどうでもいいことだ。ボクには守るものも大切なものもなにもないから。もうこのまま朝なんて来なければいいのに。ずっと夜のままでいい。働くこともなく酔った客に脅されることもなくずっと独りでここに座っていたい。
 「なんでボクだけが残ったんだろう…。……どうでもいいや…」
 重たくなり始めたまぶたに逆らえずどうでもいいことを考えながら気がつけば深い眠りに包まれていた。
 座り込んで寝ていたボクの頬に“なにか”が触れる。水分を含んでいる。ネチョネチョと粘度がある。昨夜、嗅いだ生ゴミの異臭がする。強めの風が集中的にボクの頬に触れる。風というより息だろうか。ボクに触れないでほしい。寝かせてほしい。こんなボクに用なんてなにもないだろう。うだうだと愚痴を吐いていたら
 「ワンッ!」
 と、威勢のいい鳴き声が。
 「ぅあぁ!」
 正体は犬だった。栗毛の長毛の大型犬。首輪がついていない。野良犬だ。見るからに毛並みは悪そうだ。そう思いながらも恐る恐る撫でてみる。ごわごわしている。酒場にあるモップみたいだ。本来ならサラサラだったのかもしれない。
 「お腹が空いたの?だけどボクはなにも持っていない。もっと優しそうでお金持ちの人にあたってくれ」
 犬に人語なんて伝わるはずがない。それでも話しかけてしまうのはボクだけじゃないはずだろう。野良犬はクゥーンと寂しげに鳴くも、その場を動こうとしなかった。むしろ座ってしまった。
 そういえば、何時頃だろう。すっかり犬に気を取られていた。こんなことをしている場合じゃない。酒場に向かわなければ。夜からが仕事だとはいえ、昼間は夜の仕込みをしなければならない。なくなったお酒の調達、店内の掃除、壊れた家具の修理などに追われる。
 「もうこんな場所に来るんじゃないよ」
 もう一度、荒い毛並みを撫でてボクは路地裏を駆け抜けた。心のどん底にある絶望の死地から這い上がるように薄暗い路地裏を思いっきり駆け抜ける。あんな最悪な環境を過ごすのは夜だけで充分だ。昼は酒場で働くから気が紛れる。昼食だってまともなものが出るからそれで幸せだ。またあんな場所に戻らなければならないと考えるだけで反吐が出る。今夜、ボクを拾ってくれる人はいないだろうか。そんな奇跡は起こるはずもない。ばかなことを考えるのはやめよう。ボクは酒場へと走った。
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