エピローグ

 ベルは床に寝転がってお腹を見せていた。リードを預かった一歩が撫でているのではない。撫でているのは旅立てない霊だった。
 平間幸次郎。カウンター席に置かれていたプランシートに名前が書かれていた。
 葬儀は別の会社で行われたが、次の世に旅立てなかったらしい。数日前からカフェに現れ、カフェ前を散歩する愛犬と孫をじっと見ていた。
 旅立てない理由は愛犬だった。
 妻が先立ち、幸次郎は寂しさを紛らわせるために、ベルを飼った。息子からは反対された。
 ――父さんの方が先に死ぬかもしれないのに、その後どうするんだよ。うちじゃあ犬の世話はできないぞ。
 強い反対だった。だが幸次郎は息子の意見を聞かず、ベルを飼った。
 孫の平間千尋は、幸次郎の家に行くと、必ずベルを可愛がったし、ベルも千尋によく懐いていた。反対していた息子も、娘とベルが仲良くしているところを見て、諦めがついたらしい。もしなにかあったら千尋と世話をする。そういう約束までしていた。
 だが、幸次郎の死は突然すぎた。ある日ばったりと倒れ、そのまま息を引き取ったのだ。ベルが激しく吠え、近所の人に救急車を呼んでもらったが、間に合わなかった。
 ベルは幸次郎の死をすぐに理解できず、幸次郎もまた、突然の死に驚いた。
 亡骸は病院から葬儀会社の遺体安置室に直で移動させられ、倒れてから一度も家に帰ることはなかった。
 幸次郎はベルと最後の別れができなかったし、ベルも主人との最後の別れができなかった。
 ベルと最後の別れがしたい。それが幸次郎の願いだった。プランシートにもそのように書かれてある。
 香織里が幸次郎に、孫に食べてほしいものはあるかと聞くと、カレーと答えた。
 カレーを用意したのは、ベルを世話してくれている孫の千尋への礼だった。
「私がいつもじいちゃんちに行くと、じいちゃん、慣れてないのにいつもカレーを用意してくれてて。ありがとう、ありがとうって、言ってたんです。何がありがとうなのか分からなかったけど、たぶん、来てくれてありがとうだったんですね」
 千尋ははしゃいでいるベルを見ながらカレーを口にした。
「幸次郎さん、ベルちゃんを見てくれてありがとうって言ってますよ」
 香織里が言うと、千尋は首を横に振った。当然のことをしているだけ、とはにかんでいた。
「ベル、良かったね。じいちゃんとお別れできた?」
 幸次郎の手を離れ、ベルは千尋の足元まで戻ってくる。
 カレーを食べ終えた千尋は、手を合わせ、祖父に声をかけた。
「じいちゃん、ベルも私も元気でいるから。じいちゃんも元気で」
『千尋もな――じいちゃん、じゃあ、逝くわ。ベル、またな。長生きしろよ』
 幸次郎は千尋の頭とベルの頭を撫でて、旅立った。
 ごちそうさまでした。ありがとう。千尋とベルは散歩に戻った。

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