3章
店先には開店祝いの花が置かれ、cafeおてんとはついにオープンとなった。午前十時が開店時間である。
白のシャツに黒のパンツ、それは今まで着てきたあいメモリーの制服と同じだが、その上に黒のエプロンをつけている。葬儀のイメージと重なってしまうと香織里は一度エプロンの色を変えようとしたのだが、園子がモノクロが似合うと言ってきたのでそのままにしている。エプロンの胸元には白で『cafeおてんと』のロゴが印刷されていた。
早紀は昼前からの出勤で、開店から一時間ほどは香織里のみで対応することになる。この一人の時間が、やけに長く感じた。
その中で、一番に店に来たのは平次だった。
「いやあ、うちがカフェを出すとは思ってなかったけど、いい店舗ができて良かったよ」
平次の微笑みは、まるで仏のようだ――と言ったのは園子だが、香織里もそう思う。顔に浮かんだ皺も相まって、仏様のように感じてしまう。
一歩と香織里の提案に対して、好きにやってみなさいと言ってくれたのは、誰でもない、平次だ。
「社長が認めてくださったから……あの、私、よく身内から言われるんです。飲食店で働いた方が似合うんじゃないかって」
カウンター席に座った平次にコーヒーを出しながら、香織里はつい自分の話を始めてしまった。
「福原さんにも、葬儀がやりたくてここに入ったわけじゃないことを見抜かれていて」
「そうだね、面接の時からそうだろうなって僕も思ってたよ。たまにいるんだよ。働けたらどこでもいいと思って来る人。向いている人、向いていない人、いるからねえ」
香織里が反射的に謝ると、平次は構わないよと手をひらひらと振った。
死に触れるとしんどい。一歩が漏らした言葉が蘇る。葬儀に対してこだわりを持っている一歩ですら、死に関わることがしんどいと思うことがある。しかし、香織里は今までの仕事の中で負担を感じたことはなかった。
「前に、社長、食事はいいって言っていましたよね。私も思うんです。いつも食事――私の場合は作る方ですけど、前向きになれるなって。自分が作ったもので、前向きにお見送りができた方を見ると、私も嬉しくなるんです。ここでしかできない食事の提供ができることが、とても嬉しく思っていて……。あの、本当に、ここで働けて嬉しいです。皆に得意なこと認めてもらえたのも……」
「うん。でも、これから、これから。これから来るお客さんに満足してもらってからだね」
平次が指差した先にいたのは、香織里の背後にいたおてんとちゃんだった。
棚に並んだコーヒー豆を眺めている。
「あと一人。その子のお見送りができれば一応、満点かな。方法も香織里さんが考えてみてね。どんなことでもいいから。僕は反対しないつもりでいるからね。香織里さんの腕前、見せてね」
ごちそうさま、と平次はカップを置いて店を出ていった。
店内に流れているクラシックを聴きながら、香織里はおてんとちゃんの頭を撫でた。ふんわりした短い髪の毛の手触りはない。
きっと誰かと会って、お別れをしたいと思っているのだろう。だが、まるで見当がつかない。
待っているだけではいけないような気もするが、方法は思い浮かばなかった。
それから時間は経ち、早紀が出勤し、お昼どきとなったが、来客はない。葬儀の打ち合わせの予定も今日はまだ聞いていなかった。
早紀も一人や二人は来るだろうと思っていたのか、花の手入れをしながら溜息をついていた。
「誰も来ませんねえ」
「まあ、待つしかないよ。これが続くようだったら、何か考えないといけないかもしれないけれど」
あいメモリーはこの町の中心に位置し、目の前にはメインストリートが走っている。
立地は良かった。散歩道にもなっており、休憩に入ってくれる人がいるのではないかという予想はしていた。待っている間にも数人のお年寄りが見えたが、こちらをちらりと見るだけで立ち止まりはしなかった。
今日はホールでは葬儀が行われている。そのせいもあるのかもしれない。一歩は責任者ではなく、スタッフとして出向いているはずだ。
「葬儀が終わったら、スタッフの皆に何か持っていこっか。早紀ちゃん、シフォンケーキ練習もうちょっとしとこう」
「あ、はい。そうですね。今日は一人でやってみます」
料理は初心者だと言っていた早紀だが、コツを掴むのは上手かった。香織里一人だけでは不安な面があったので、早紀がいるだけで心強かった。
シフォンケーキにもそのうちバリエーションを持たせようと思っている。紅茶、抹茶など、アイデアはいくつかあった。
客が来ればの話だが。
ホールから火葬場に行く人たちが出てきて、駐車場に向かっているのが見えた。霊柩車も出発する。
それを見送っていたのは一歩たちだった。目が自然に一歩を追いかけていることに気付き、香織里は慌てて首を横に振った。それと同じタイミングで、店のドアが開く。
「こーんにちはー! 香織里ちゃーん、オープンおめでとう〜! 精進落し持ってきたついででごめんね」
「ううん、みのりちゃん、もう本当に色々とありがとう。コーヒー飲んで行って」
「もちろんもちろん。はい、これ。虎鶴からのお祝い」
みのりから受け取ったのはチューリップの花かごだった。カウンターに置き、しばらく飾ることにする。
注文を受けずともみのりの好みであるモカを淹れる。お昼がまだだと言うので、早紀にはサンドイッチを持ってくるように伝えた。
サンドイッチはハム、卵、カツの三種類がある。柔らかいカツを作るコツはみのりから教えてもらった。カレーの隠し味、サラダのドレッシング、ランチにはみのりの知識がたっぷりと詰まっている。
「どう、お客さんは来た?」
「それが……まあ見ての通りで」
香織里が言うと、みのりは申し訳なさそうな顔をした。
「まあ初日だし。これからだよ。うちの店舗にもビラは置かせてもらってるんだけどね。もうちょっと見てもらえるように頑張ってみる」
「本当に何から何まで虎鶴さんにはお世話になりっぱなしで……」
「いやいや、こっちもいつも注文ありがとうございますだよ。あ、早紀ちゃん、サンドイッチ上手になったね〜」
プレートを持ってきた早紀にもみのりは声をかけた。
みのりのフレンドリーなところには尊敬するものがある。みのりは早紀にも連絡先を聞いており、親しくなっていた。新しい土地に越してきたばかりの早紀にとってもいい友人となるだろう。
みのりと他愛のない会話をした後、早紀と一緒に職員用のシフォンケーキを作った。営業所の休憩室に持っていき、園子にスタッフたちに食べてもらうよう伝えた。
葬儀を終えた喪主が責任者と一緒に店に来たので、コーヒーを出した。それからも来店はなく、閉店時間の午後七時を迎えた。
定時退勤の一歩がようやく店に来て、今日一日の様子を聞いてきたが、香織里はなんとなく正直に伝えることはできず、まあまあだった、とだけ言った。これだけでも一歩には悟られてしまうのは分かっているのだが。
「まあ、初日だしな」
一歩が手にしていたのはプランシートのコピーだった。
「明日、打ち合わせが入ったから。香織里さんにも渡しておく。お見送りランチは不要って言われてしまったよ。どうですかってすすめてみたんだけど」
「ごめん、わざわざ……」
「いや、僕が提案者だし。このくらいしないといけないとは思う。サービスをすすめるのは当然のことだろ」
みのりにも、一歩にも協力してもらっているのに、自分が今日やったことは、ここで待つだけだった。
店舗はできた。オープンもできた。でも、それで満足していてはいけない。それは分かっている。しかし、考えてもいいアイデアは思い浮かばなかった。考えながら夕飯の支度をしたので、また愛翔分の量を作ってしまった。
父からは喜びの量だと受け取られたが、その勘違いが逆にありがたかった。
白のシャツに黒のパンツ、それは今まで着てきたあいメモリーの制服と同じだが、その上に黒のエプロンをつけている。葬儀のイメージと重なってしまうと香織里は一度エプロンの色を変えようとしたのだが、園子がモノクロが似合うと言ってきたのでそのままにしている。エプロンの胸元には白で『cafeおてんと』のロゴが印刷されていた。
早紀は昼前からの出勤で、開店から一時間ほどは香織里のみで対応することになる。この一人の時間が、やけに長く感じた。
その中で、一番に店に来たのは平次だった。
「いやあ、うちがカフェを出すとは思ってなかったけど、いい店舗ができて良かったよ」
平次の微笑みは、まるで仏のようだ――と言ったのは園子だが、香織里もそう思う。顔に浮かんだ皺も相まって、仏様のように感じてしまう。
一歩と香織里の提案に対して、好きにやってみなさいと言ってくれたのは、誰でもない、平次だ。
「社長が認めてくださったから……あの、私、よく身内から言われるんです。飲食店で働いた方が似合うんじゃないかって」
カウンター席に座った平次にコーヒーを出しながら、香織里はつい自分の話を始めてしまった。
「福原さんにも、葬儀がやりたくてここに入ったわけじゃないことを見抜かれていて」
「そうだね、面接の時からそうだろうなって僕も思ってたよ。たまにいるんだよ。働けたらどこでもいいと思って来る人。向いている人、向いていない人、いるからねえ」
香織里が反射的に謝ると、平次は構わないよと手をひらひらと振った。
死に触れるとしんどい。一歩が漏らした言葉が蘇る。葬儀に対してこだわりを持っている一歩ですら、死に関わることがしんどいと思うことがある。しかし、香織里は今までの仕事の中で負担を感じたことはなかった。
「前に、社長、食事はいいって言っていましたよね。私も思うんです。いつも食事――私の場合は作る方ですけど、前向きになれるなって。自分が作ったもので、前向きにお見送りができた方を見ると、私も嬉しくなるんです。ここでしかできない食事の提供ができることが、とても嬉しく思っていて……。あの、本当に、ここで働けて嬉しいです。皆に得意なこと認めてもらえたのも……」
「うん。でも、これから、これから。これから来るお客さんに満足してもらってからだね」
平次が指差した先にいたのは、香織里の背後にいたおてんとちゃんだった。
棚に並んだコーヒー豆を眺めている。
「あと一人。その子のお見送りができれば一応、満点かな。方法も香織里さんが考えてみてね。どんなことでもいいから。僕は反対しないつもりでいるからね。香織里さんの腕前、見せてね」
ごちそうさま、と平次はカップを置いて店を出ていった。
店内に流れているクラシックを聴きながら、香織里はおてんとちゃんの頭を撫でた。ふんわりした短い髪の毛の手触りはない。
きっと誰かと会って、お別れをしたいと思っているのだろう。だが、まるで見当がつかない。
待っているだけではいけないような気もするが、方法は思い浮かばなかった。
それから時間は経ち、早紀が出勤し、お昼どきとなったが、来客はない。葬儀の打ち合わせの予定も今日はまだ聞いていなかった。
早紀も一人や二人は来るだろうと思っていたのか、花の手入れをしながら溜息をついていた。
「誰も来ませんねえ」
「まあ、待つしかないよ。これが続くようだったら、何か考えないといけないかもしれないけれど」
あいメモリーはこの町の中心に位置し、目の前にはメインストリートが走っている。
立地は良かった。散歩道にもなっており、休憩に入ってくれる人がいるのではないかという予想はしていた。待っている間にも数人のお年寄りが見えたが、こちらをちらりと見るだけで立ち止まりはしなかった。
今日はホールでは葬儀が行われている。そのせいもあるのかもしれない。一歩は責任者ではなく、スタッフとして出向いているはずだ。
「葬儀が終わったら、スタッフの皆に何か持っていこっか。早紀ちゃん、シフォンケーキ練習もうちょっとしとこう」
「あ、はい。そうですね。今日は一人でやってみます」
料理は初心者だと言っていた早紀だが、コツを掴むのは上手かった。香織里一人だけでは不安な面があったので、早紀がいるだけで心強かった。
シフォンケーキにもそのうちバリエーションを持たせようと思っている。紅茶、抹茶など、アイデアはいくつかあった。
客が来ればの話だが。
ホールから火葬場に行く人たちが出てきて、駐車場に向かっているのが見えた。霊柩車も出発する。
それを見送っていたのは一歩たちだった。目が自然に一歩を追いかけていることに気付き、香織里は慌てて首を横に振った。それと同じタイミングで、店のドアが開く。
「こーんにちはー! 香織里ちゃーん、オープンおめでとう〜! 精進落し持ってきたついででごめんね」
「ううん、みのりちゃん、もう本当に色々とありがとう。コーヒー飲んで行って」
「もちろんもちろん。はい、これ。虎鶴からのお祝い」
みのりから受け取ったのはチューリップの花かごだった。カウンターに置き、しばらく飾ることにする。
注文を受けずともみのりの好みであるモカを淹れる。お昼がまだだと言うので、早紀にはサンドイッチを持ってくるように伝えた。
サンドイッチはハム、卵、カツの三種類がある。柔らかいカツを作るコツはみのりから教えてもらった。カレーの隠し味、サラダのドレッシング、ランチにはみのりの知識がたっぷりと詰まっている。
「どう、お客さんは来た?」
「それが……まあ見ての通りで」
香織里が言うと、みのりは申し訳なさそうな顔をした。
「まあ初日だし。これからだよ。うちの店舗にもビラは置かせてもらってるんだけどね。もうちょっと見てもらえるように頑張ってみる」
「本当に何から何まで虎鶴さんにはお世話になりっぱなしで……」
「いやいや、こっちもいつも注文ありがとうございますだよ。あ、早紀ちゃん、サンドイッチ上手になったね〜」
プレートを持ってきた早紀にもみのりは声をかけた。
みのりのフレンドリーなところには尊敬するものがある。みのりは早紀にも連絡先を聞いており、親しくなっていた。新しい土地に越してきたばかりの早紀にとってもいい友人となるだろう。
みのりと他愛のない会話をした後、早紀と一緒に職員用のシフォンケーキを作った。営業所の休憩室に持っていき、園子にスタッフたちに食べてもらうよう伝えた。
葬儀を終えた喪主が責任者と一緒に店に来たので、コーヒーを出した。それからも来店はなく、閉店時間の午後七時を迎えた。
定時退勤の一歩がようやく店に来て、今日一日の様子を聞いてきたが、香織里はなんとなく正直に伝えることはできず、まあまあだった、とだけ言った。これだけでも一歩には悟られてしまうのは分かっているのだが。
「まあ、初日だしな」
一歩が手にしていたのはプランシートのコピーだった。
「明日、打ち合わせが入ったから。香織里さんにも渡しておく。お見送りランチは不要って言われてしまったよ。どうですかってすすめてみたんだけど」
「ごめん、わざわざ……」
「いや、僕が提案者だし。このくらいしないといけないとは思う。サービスをすすめるのは当然のことだろ」
みのりにも、一歩にも協力してもらっているのに、自分が今日やったことは、ここで待つだけだった。
店舗はできた。オープンもできた。でも、それで満足していてはいけない。それは分かっている。しかし、考えてもいいアイデアは思い浮かばなかった。考えながら夕飯の支度をしたので、また愛翔分の量を作ってしまった。
父からは喜びの量だと受け取られたが、その勘違いが逆にありがたかった。