2章

 準備から通夜まで、特に大きなミスはなく、予定通り進んだと一歩から連絡が入った。
 その連絡からしばらくすると、一歩が営業所に戻ってきた。園子は花の様子を見に佐藤家に向かい、そのまま直帰で、営業所には香織里だけが待機していた。夜勤スタッフの出勤の時間までもう少しある。
「お疲れ様です」
 どさりと椅子に座った一歩に香織里はコーヒーを出した。
 一歩は砂糖とミルクをたっぷりと入れ、一口飲んで、深い溜息をついた。
「納棺の儀の時、幸恵さん、複雑な表情をしていた。その表情の意味は、僕には全く分からなかった。明日、どうなるか分からない……、幸恵さんが健史さんをどうお見送りし、健史さんがどう旅立つのか……なんだか自信がなくなってくる。納棺の儀のあの顔を見てしまうと」
 納棺師により、綺麗にした遺体を入棺する儀式。一般的には通夜式の前に行われる。
 故人の疲れを取り、旅立ちの準備をするという役割がある。
 遺族はよく「お疲れ様」や「綺麗になったね」と声をかける。香織里の母の式の時もそうだった。父は母の額を撫で、香織里も綺麗な母の姿に見とれた。病気で苦しんでいた時の母はそこにはいなかった。生きていた時と同じように、安らかに眠っている母が棺の中に横たわっていた。愛翔は怖さがあったのか父の後ろにひっついて、僅かに母の顔を見ただけだったが。
 一歩の話だと、納棺師が納棺を終えると、幸恵は顔をこわばらせて、少し遠くから健史の顔を見たという。
「どう声をかけたらいいか分からないというか、どう顔を合わせたらいいか分からないというか、そんな顔だったような気はする。自宅で看取ったのに、そうなる理由が僕には分からないんだ。香織里さんだったら、もしかしたら分かったのかなって思いながら帰ってきた」
「そんな。私も分からないことはたくさんありますよ」
 父の仕事についてよく思っていなかった幸恵が自宅で父を看取った理由。自宅で最期を迎えるには、様々な準備が必要だ。そのため、病院で最期を迎える人の割合の方が多い。それでも幸恵は自宅で看取ることを選んだ。
 幸恵が健史と過ごす時間を取りたかったか、健史が自宅で最期を迎えることを望んだか。香織里にはそれしか考えられなかった。エンディングノートには最期を迎える場所については記述がなかったので、はっきりとは分からない。
 納棺の儀で複雑な表情をしている幸恵の心境は、香織里には想像し難かった。
 それよりも、一歩が自信のなさをここで吐露していることが香織里は気になった。今回のプランは一歩も香織里も自信があった。自信があったからこそ、納棺の儀で見た表情に不安を覚えたのだろう。
「福原さんが、私の料理を採用してくれて、凄く嬉しかったんです。私は式を見届けることはできないけど、お料理で力になりたいって思っています。もし式でお見送りができなかったとしても、また前みたいにお料理でお見送りができるかもしれませんから。大丈夫ですよ。今日はもう遅いですし、終わりにして帰りましょう」
 香織里が立ち上がると、一歩の手が香織里の袖を掴んだ。
 一瞬何が起きたか分からず、びくっと体が震えた。一歩は机に突っ伏しており、表情を見ることができない。
「終わったら……、余り物でいいから、何か甘い物が欲しい」
「えっ、あ、分かりました……、そうですね、甘い物、用意しておきます」
 一歩は額を机につけたまま、黙って頷いた。ここで寝てしまいそうなので、香織里はもう一度、帰りますよと声をかける。
 駐車場までの沈黙の時間が気まずい。
 何故こんなに顔が火照っているのだろう。
 お疲れ様でしたと声をかけ、車の中で一歩のリクエストを反芻する。
 幸恵に出すフレンチのデザートの余りのことを言っているのだろうか。それとも香織里が個人的に作った菓子の余りのことを言っているのだろうか。
 結局、夕食の後、香織里は遅い時間までキッチンに立っていた。愛翔のつまみ食いは許さなかった。
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