2章

 メモに書かれていたのは、ソースの作り方だった。
 白ワインソースである。メモタイトルには『簡易版ヴァン・ブランソース』と書かれている。フレンチの定番のソースだ。滅多にフレンチは食べないので、香織里には馴染みがない。
 健史はフランス料理を専門とする料理人だった。それはエンディングノートを見たら分かった。店のために親族と縁を切り、店をどう遺すかまで考えていた健史が何故”簡易版”のレシピを遺しているのか、香織里はまずそこから考える必要があった。
 フレンチに馴染みのない人に作ってほしいから――まず思いついたのがそれだった。
 では、その馴染みのない人とは誰なのか。父の店のことをよく思っていない娘の幸恵ではないか。
 あのエンディングノート自体、幸恵の負担を減らすためのものだった。幸恵がノートを見ると分かっているから、あのノートにメモを挟んだのだ。
 香織里はよく分かっている。誰かの味を真似しようとしても、完全にその人の味にはならないことを。ましてや、全く関わりのない人のレシピだ。この通りに作っても、健史の味にならないことは分かっている。
 しかし、健史が幸恵に自分の味を伝えたいと思っているのなら、それを香織里が一度再現してもいいかなと思うのだ。余計なお節介だったとしても。一歩はそれを認めてくれた。だから今、こうやってメモを片手に、コンロの前に立っている。
 メモに書かれてある通り、玉ねぎをみじん切りにし、白ワインと白ワインビネガーと一緒に鍋に入れ、くたくたになるまで二十分ほど煮詰める。白ワインは『絶対辛口を使うこと』と書かれていたので、それを守った。
「こーんにちわ〜、頼まれていたお弁当持ってきました〜」
 煮詰めている間、みのりが挨拶をしながら休憩室に入ってきた。
 お弁当というのは、あいメモリー職員の昼食である。たまに、お世話になっている仕出し料理屋の弁当を昼食で頼む日があった。今日は虎鶴の日だったらしい。香織里や一歩は頼んでいないが、仏具ショップのスタッフや事務スタッフが頼んだようである。
「あれ、香織里さん、何作っているんですか? 面白いですね、休憩室でお料理してるなんて」
 弁当を机の上に置いたみのりが鍋を覗きに来る。みのりから、ふわりと和食のだしの香りがしたような気がしたが、すぐに白ワインの香りにかき消されてしまった。
「白ワインソースです。お客様のお父様が遺したレシピを使っているんです。そうだ、みのりさんはフレンチに詳しいですか?」
「うーん、専門学校でちょっとだけ学んだくらいですからねえ、私。専門は和食だったし。どうかしました?」
「いえ、私、あまりフレンチには馴染みがなくて。ソースのレシピはあるんですけど、何に合わせたらいいか分からなくて」
「それなら、白身魚とかどうですか? 私は鯛で食べたことがありますよ。そうですねえ、お客様に出すのを考えたら、私だったら魚にします。ほら、ここって、海が近いじゃないですか。美味しい魚が手に入りやすい地域なんですよ。うちの仕出し料理に使っている魚も、近隣でとれた魚ですよ」
 みのりのアドバイスに、香織里はついつい関心してしまった。
 同時に、自分の至らなさを痛感してしまう。やはり、専門的に料理を学び、料理の世界で学び続けている人は、当たり前のことだが、香織里よりもずっと料理に詳しい。
 美味しいものを食べてもらうためにできる工夫を数多く知っている。
「……やっぱり、私が作ろうなんて、おこがましいですよね」
「え? うーん、食べてほしいと思うなら、作るしかないと思いますよ。香織里さんが食べてほしいって思っているから作ってるんですよね?」
 香織里が頷くと、みのりははにかんだ。
「じゃあ、最後まで作ってあげてください。ここまでやってやっぱりやめたっていうのは、食材にも悪いですよ。あ、そろそろ時間だ、行かないと。香織里さん、またお料理の話、しましょう。私、同世代で料理の話ができる女子の知り合いがいなくて寂しかったんです。ああ〜、しまった、スマホ、車の中だった! また連絡先、教えてくださいね。お友達になってください」
 バタバタと休憩室から出ていったみのりに、香織里は呆気にとられてしまった。
 はっとして、鍋の中を見る。焦げてなくて安心した。
 お友達になってください、などと直接的に言われたのは久しぶり――いや、初めてのことかもしれない。
 自分も、なんとなく、料理の話ができる知人がいればいいなと思っていた。インターネットで同じ趣味を持つ人と繋がることは簡単だが、リアルで顔を合わせながら話ができる友人が欲しかった。
 みのりの言葉が嬉しかった。そうだ、食べてほしいから、自分が作るしかないのだ。
 この食べてほしい、という思いは、きっと、健史にもあったはずだ。でなければ、こうやってメモを遺すことはしないだろう。
 健史は、幸恵のためにメモを遺した。幸恵に食べさせたかったのかもしれない。だったら、自分がまず作って、幸恵に伝えたい。
 汁気がほとんどなくなったら、鍋の中に生クリームを入れて更に沸騰させる。沸騰したら今度はザルで濾し、とろとろになるまで煮詰める。最後にバターを入れ乳化させ、塩で味を整えたら完成である。
 作っている途中、ショップのスタッフや事務スタッフなど、弁当を取りに来た職員たちに美味しそうと声をかけられた。正直恥ずかしかったので、こういう時に、落ち着いて調理ができる場所が欲しくなった。
 ソースが完成した後、もう一度スーパーに走り、白身魚を買った。みのりのアドバイスの通り、鯛にした。フライパンで皮をこんがりと焼き、身のほうにはさっと火を通してポワレにする。
 白ワインソースをかけ、彩りでミニトマトを添えて完成だ。
 一歩を呼ぼうとした時、自分の隣に子供がいることに気付いた。おてんとちゃんである。
「どうして?」
 ホールにいるはずのおてんとちゃんが、何故ここにいるのだろう。それに、今はまだ昼だ。
 今日は確か、本館ホールでは別のスタッフが対応している葬儀が行われているはずだ。それが嫌で、ここに来てしまったのだろうか。
 言葉を理解してないおてんとちゃんが、香織里の問いに答えられるわけがなく、ただ、笑っているだけだった。
 料理の香りに誘われたのか、それとも、ただ単に遊びにきたのか。香織里に用があって来たのか。分からないが、おてんとちゃんがにこにことしているだけで、香織里は安心した。おてんとちゃんの頭を撫でてやると、すっと消えていってしまった。ホールに戻ったのだろう。
 一歩を呼び、試しに作ったものを食べてもらうと、すぐに美味しいと言ってもらえた。
「自宅葬で考えている。なんとなく、幸恵さんと健史さんには、それがベストだと思っているんだ。余計なお節介かもしれないけど、僕には、二人だけの時間が必要だと思う」
 プランシートには、葬儀のタイムスケジュールが細かく書かれていた。自宅葬の一般的な流れである。一つだけ違ったのは、精進落しの部分だった。
 場所があいメモリー本館、会食場になっている。出席者は、幸恵のみだった。火葬の帰りにホールに寄ってもらうという流れである。
「その時間で、香織里さんの作った、健史さんの料理を食べてもらう。場所はうちの会食場。旅立ちがまだだった場合は、健史さんもお招きしよう。食べないと言われても、香織里さんは料理を出してほしい。健史さんの気持ちを、僕は伝えるべきだと思うから」
 一歩も、健史がレシピを遺した理由は香織里と同じように考えていた。
 なるべく幸恵には負担がかからないように、費用も少なくなるように計画をしていた。幸恵の「早く終わらせたい」という希望を叶えたプランである。そこまでしたということは、一歩は確実にこの案を幸恵に納得してもらおうと考えていた。
 翌日の打ち合わせで、一歩は自宅葬のメリットを幸恵に説明した。あいメモリーのスタッフができる限り手伝うことと、費用の面で、幸恵は納得をした。
「その、最後のお料理は」
「こちらのサービスですので、料金は不要です」
 一歩がきっぱりと言うと、幸恵は一歩の提案したプランの全てに納得をして帰っていった。
 通夜は明日、葬儀は明後日である。
「良かったんですか、無料にして」
 退勤後、駐車場で一歩に尋ねると、一歩はマフラーの中でごにょごにょとこう言った。
「香織里さんの作った料理が無駄になるよりはマシだろ。僕は食べてほしいと思う」

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