2章

「すみません、今はあまりコーヒーを飲む気にはなれないので。お茶はありますか?」
 打ち合わせに来た幸恵にそう言われてしまい、香織里は持ってきたシフォンケーキは今日は出せないなと判断した。
 皆がコーヒーを飲めるわけではないのは分かっているし、タイミングが悪かっただけなのも分かっているが、食べてもらえないことに残念に思ってしまう自分がいた。
 佐藤幸恵は、園子よりも少し年上の女性だった。白髪が混じりはじめている。
 幸恵が持ってきたエンディングノートを見た一歩は、すぐに困った顔をしていた。
 エンディングノートがあるといっても、葬儀に関する部分が具体的に書かれていなかったのだ。相続に関することや墓のことなど、葬儀の後についてはきっちりと書かれている。葬儀に関することは『通夜と葬儀はしてほしい』ということだけだ。
「お父様――健史さんは、どのような方だったか教えてくれますか? ご職業とか……」
 香織里が尋ねると、幸恵はぴくりと眉を動かした。
「私は父の仕事は好きじゃなかったんです。聞かないでください。そのノートにも書いていると思いますけど」
「……それは失礼しました」
 香織里が縮こまると、幸恵は溜息をついて紅茶を一口飲んだ。
「父は料理人でした。ずっと料理だけしてきた人です。だから好きじゃないんです。こんなノートを遺されても、私には迷惑なだけです。とにかく手配とか、手続きとか、早く終わらせてしまいたいんです」
 ピリピリとした空気が、香織里の肌に突き刺さる。それは一歩も感じているようで、一歩はひとまず、エンディングノートに書かれていた墓に関することの話を進めた。
 話を進めていくうちに、健史は料理の道を反対してきた親戚とは縁を切っており、幸恵の母方の親戚とも縁がないことが分かった。
 通夜と葬儀を希望するのは、それまで関わった仕事仲間や店の客のためであり、親族のためというわけではないようだ。
 幸恵は父の仕事の後処理を”させられている”と感じているのだ。幸恵の中には身勝手な父親像が出来上がってしまっている。
 一歩も今日すぐにプランを立てるのは難しいと判断し、エンディングノートを一日預かり、明日提案することにした。
 息を引き取ってから数日経っている。本人も早く終わらせたいという希望だ。
 幸恵が営業所を後にして、一歩はすぐにエンディングノートを最初からじっくり読み始めた。ボールペンで眉間を突きながら、一歩は呻いた。
「このノート、内容がしっかりしているとは言えないな。本人のことも少ししか書かれていないし。健史さんが経営していた料理店のことについてが大半。でも、幸恵さんにとって大きな負担にはならないようにはしているのは分かるよ。むしろ負担を減らしてくれてる。葬儀の形ははっきりしていないけれど、その後のことはしっかり書かれている」
 香織里も見せてもらった。一歩の言う通り、店に関することだけはたくさん書かれていたものの、本人に関することについては少なかった。ここから分かることは、健史がいかに自分の店を愛していたかということだ。しかし、相続に関しては、幸恵を巻き込もうとはしていなかった。一歩の言う通り、幸恵には配慮している。幸恵の話から感じた「身勝手な父親」はこのノートの中にはなかった。父親は父親なりに、娘に迷惑をかけないように準備をしたのだろう。
 幸恵の早く終わらせたい。その希望に、一歩は引っかかりを感じているようだった。
「本当に早く終わらせたいなら、うちを選ばないと思う。もっと簡単に、安くできる葬儀屋なら他にいくらでもあるし。お父さんのこと、好きじゃないって感じを出していたけど、何かあると思うよ、あの人」
 ノートを閉じた一歩は深い溜息をついた。
「この前、電話をもらった時、凄い落ち着いた対応をする人だなって思ったんだ。焦っている様子はなかった。病院への連絡も、ここへの連絡も早かった。通夜と葬儀はするというのも決まっていたし、安置についても自宅を選んだ。老衰だし、心の準備はできていたとは思うけど……、なんでだろう。今日のあの感じと合わない」
「嫌いだけど、完全に嫌いになることができないんじゃない……ような気もします。幸恵さんの中でお父さんとの関係で思うところがあるのかもしれません」
 一歩がエンディングノートをプランシートと一緒にファイルの中にしまおうとした時、一枚のメモがノートから落ちた。
「ん、こんなの挟まってたっけ」
「なんですか、それ」
 一歩と香織里は、メモに書かれているものを見た。
 それを見た時、二人は顔を見合わせて頷いた。一歩はすぐにプランを組み立て、香織里はメモを持って買い出しに出た。
 買い出しから戻ると昼休憩の時間になっていた。
 香織里が持ってきたコーヒーシフォンケーキは既に一歩に食べられてしまっており、空になったタッパーを見た園子が文句を言っていた。
「全部食べるなんてひどいわ、香織里ちゃんのお菓子があまりにも美味しいからって、それはひどいわよ!」
「園子さんが食べたいって言わないのが悪いんだろ!? 言ってくれれば一口は残したよ」
「一口だけ? も、もう〜! 食べ物の恨みは怖いんだから〜!」
 その二人のやり取りを聞きながら、香織里はメモを見ながら調理を始めた。
 メモに書かれていたのは、ある料理のレシピだった。香織里には馴染みのないジャンルだったので、上手くできるか分からない。
「かずちゃんが香織里ちゃんのお菓子にメロメロなのは分かったけど、さすがに独占はひどいわ。ねえ香織里ちゃんも何か言ってよ!」
 メモを隅から隅まで読んでいる途中にそのように園子に言われて、香織里は手にしていた白ワインの瓶を落としそうになった。
「えっ、何ですか? ごめんなさい、聞いていませんでした」
「だから、かずちゃんが香織里ちゃんのお菓子にメロメロで……さっきこそこそスマホで写真も撮って……」
「いい加減にしてください、園子さんっ、僕が悪かったです、謝るから香織里さんを困らせないでください!」
 大声で園子の言葉を遮ろうとする一歩の顔が真っ赤だった。
 それを見た香織里も自分の顔がかっと赤くなったのを感じる。
 その二人の様子を見た園子は、満更でもない様子で「はぁ〜い、ごめんねえ〜」とわざとらしく言って休憩室から出ていってしまった。
「……香織里さんの料理が美味しくなかったら、飲食店の提案なんてしないし、今回の葬儀のプランもボツだよ。出来たら呼んで」
「あ、そう、ですよね。分かりました」
 一歩も休憩室から出ていき、一人になる。目の前に広げた材料と、メモを見ても、しばらく心臓がうるさくて調理に入ることができなかった。
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