2章

 ソファに座ってニュースを見ていると、レンジに呼び出された。
 隣に座ってスマホを弄っている愛翔の頭の上にひざ掛けをかけ、キッチンに向かった。
 出てきたのはステンドグラスクッキーだ。クリスマスらしい色合いにしたかったので、いちご味のキャンディーや、マスカット味のキャンディーを使った。きつね色に焼き上がり、甘い香りが部屋に広がった。
 使ったのは昔から家にある型抜きで、ツリーや星の形になっている。小さい頃に、母と一緒にクッキーを作った。
 あの頃はまだ愛翔はいなくて、母の愛情を独り占めできていた。何かができる度に、母は目一杯褒めてくれた。
 母は香織里になんでもさせようとした。小さい頃はピアノもしていたし、お習字もしていた。香織里からやってみたいと言ったのだ。でも、どれも長続きしなかった。やめたいと言ったのも香織里だ。でも、母は「自分で決めたのだから続けなさい」とは言わなかった。
 ――そのうち、やりたいことが見つかるからいいよ。
 母は、香織里のわがままを許してくれた。父も香織里には何も言わなかった。
 習い事は続かなかったが、香織里はほぼ毎日、母の隣で夕飯の支度を手伝った。母も父もそれを見ていたから、習い事について厳しく言わなかったのかもしれない。
 クッキーの粗熱が取れたので、小皿に数枚載せた。
 和室にある仏壇に持っていって、手を合わせる。
 やりたいことはまだ見つからない。でも、今の職場でやってみたいことはできるかもしれない。
 香織里が作ったクッキーを食べて微笑む母の顔が脳裏に浮かぶ。
 その母の奥には、晴馬の涙と、喜一の旅立つ瞬間を見送る陽向の笑顔と、フミエたちの笑顔があった。
 一歩が黙って香織里の作ったケーキを頬張っている姿が頭の中に出てきた時、はっとして顔を上げた。
「香織里ー? もうこれ食べていいー?」
 リビングから愛翔に呼ばれ、香織里は仏壇を離れた。
「いくつか残すからちょっと待って」
「え? 母さんじゃなくて? 誰かにあげるの? あ、明日の彼氏?」
「違うってば。上司だってば」
 朝から愛翔はこの話ばかりである。
 このタイミングでクッキーを焼いている理由が明日にあるのは香織里も感じてはいるが、一歩のために焼いたわけではない。
 明日の話で香織里のこれからが決まってしまうのではないかという期待と不安から焼いているのだ。一歩に渡すのは「余ったから」である。たくさん焼いてしまった。三人で食べるには多すぎる。
 三人分のコーヒーを淹れて、父も呼ぶ。休日の昼下がりに三人でお茶をするのは、東条家のお決まりとなっていた。だが、愛翔の進路次第では、この日常も終わりを迎える。
 母が死んで、三人での生活も落ち着いたかと思ったら、自分の仕事も愛翔の進路も変化していく。
 先の見えない未来のことを考えていると、手が自然とクッキーに伸びる。
 今日も程よい甘さで、美味しくできた。でも、一歩にとっては甘さ控えめのクッキーかもしれない。
「今晩の飯はどうする? 外に出てもいいと思うけど」
 父がコーヒーを飲みながら提案するものの、香織里は首を横に振った。
「今日は私が作りたい気分だから、作るよ」
「そうか。なら香織里に任せるか」
 昔から、東条家は季節のイベントには忠実だった。クリスマスも、正月も、節分も、土用の丑の日も、冬至も、それに合わせた献立にする。
 クリスマスは特に豪華だった。母が好きだったからだ。母も料理が好きだった。
 母の作る夕食は、毎日美味しかった。どれだけ仕事が忙しくても、母は食卓を大切にしていた。
「あ、じゃあさ、母さんが作ってたアレが食べたい」
「アレじゃ分からないって」
「ミニトマトになんか挟んでたやつ。あれ好きなんだよな。あー、早く酒が飲めるようになりてー」
 愛翔が言っているのは、ミニトマトのカプレーゼのことだ。母はミニトマトを使い、一口で食べられるようにしていた。ミニトマトに切れ込みを入れ、その中にモッツァレラチーズとバジルを挟むのだ。
「あと二年我慢しなって。お父さんは? 飲む?」
「じゃあ少しだけ」
 お茶を終えると、父は自室に戻り、愛翔も勉強に戻った。
 余ったクッキーを百均で買った袋に入れる。
 これで一歩に何か勘違いされたらどうしようとか考えている自分に恥ずかしくなり、香織里は夜のご飯の準備のためにスーパーに走った。
 料理をしていると落ち着く。出来上がりに向けて、整えられた手順を一つ一つこなしていくことが好きだ。どの工程も意味がある。材料の量にも、切り方にも、混ぜ方にも、調味料にも、道具にも、焼いたり煮たりする順番にも。専門的に学んだわけではないが、それらの意味を香織里は無意識のうちに理解し、自分のものにしていた。
 必要なものをカゴの中に入れ、会計を済ませて家に戻る。仕込みの時間にいくらかかっても香織里は苦痛ではない。
 今日はクリスマスらしい献立にした。鶏肉の下味をつけ、オーブンで焼く。大きめに切った野菜をじっくり煮込んだポトフ。愛翔からリクエストのあったミニトマトのカプレーゼ。それから今日もケーキを作る。時間がたっぷりあるため、スポンジから焼くことにする。
 頭の中でこれらの手順を組み立てていくのは好きだ。
 料理と葬儀のプランは同じだと香織里は気付いた。葬儀の前には、様々な下準備がある。それらを整理し、人や道具などの材料を集め、手配し、組み立てていく。そう考えると、今やっていることはそこまで苦手なことではないのかもしれない。
 何やっても上手くいかないが、料理だけは、思った通りに進んでいく。迷いも、不安も、何もない。計画した通りに進んでいく。自分が選んでやったことは、全て意味を持つ。
 仕事にも、同じ感覚が欲しかった。
 自分がやっていることに、意味が欲しかった。
 鶏肉が焼き上がるのを待っている時、ふと、園子や一歩がなぜあいメモリーで働いているのか疑問に思った。
 自分とは違う理由であいメモリーにいるのは確かだ。自分の志望動機は最低のものだったから。
 一歩があそこまでお見送りに一生懸命になれるのはどうしてなのだろう。故人の霊が見えるのは、直接的な理由ではないように思う。
 明日、聞けたら聞いてみよう。そう思っていると、オーブンが鳴った。
 食卓を見た愛翔は、早速スマホで写真を撮っていた。SNSにでもアップするのだろうか。香織里は見栄えはさほど気にしていないから、少し恥ずかしい。
「あー、これこれ、母さんのこれ好きだったんだよなあ。香織里の飯は母さんの味がするから好き。」
「そうかな……別にお母さんの料理に似せようとは思ってないんだけど」
 似せようと思っていた時期はあった。
 母が死んでから、母の料理が美味しくて、それをもう一度食べたくて、母の味に似せようと頑張っていた。
 しかし、どれだけ似せようと思っても、どこか違う。調味料の量を少しずつ変えても、全く同じものにはならなかった。似せようとすればするだけ寂しくなってしまい、それから似せようとは思わなくなっていた。
 愛翔から、母の味に似ていると言われるとは思っていなかった。
「いや、似ていると思う。作ってる本人には分からないのかもしれないけど」
「お父さんもそう思う?」
「お母さんそのまんまとは言わないけど、だいぶ似ている。やっぱり長年食べてきた味に落ち着くんじゃないか?」
「そっか――」
 カプレーゼを食べてみても、やはり自分の味だと思う。
 それでも、愛翔と父の記憶の中にある母の味を呼び起こせるだけのものになっているのは素直に嬉しい。
 母は自分の中で、まだ生きている。
 大きなプレゼントを香織里に遺してくれていたのだ。
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