1章

 香織里はドリップバッグを使ってコーヒーを淹れ、一歩に渡した。
 一瞬、一歩の手が止まったが、添えて出していた砂糖とミルクを全て入れたので、園子の言うことはあながち間違いではなさそうだった。
「長話じゃないんだけど」
 スプーンでかき混ぜながら、唇を尖らした。コーヒーは苦手だったのかもしれない。香織里は気にしない様子でブラックのまま飲んだ。
「お疲れ様でしたって意味です」
 スプーンから滴る雫を見ながら、一歩はぼそぼそと口を動かしはじめた。
「僕の葬儀は、香織里さんから見て、どう」
「どうって、完璧じゃないですか? 私がいつもヘマしてるだけで、福原さんはいつも完璧にしてると思っていますけど。それに、お客様だって、いつもお礼を言って帰っているじゃないですか」
「そうか……、でも……」
 言おうか、言わまいか、悩んでいるような沈黙だった。
 コーヒーを喉に流し、一歩は今日の式のプランシートを手に取った。
「今日は、喜一さんは、無事”次の世”に旅立った。それは香織里さんも視えてたんじゃないのか」
 どきっとした。
 喜一の姿を、一歩も一緒に見ていたのだ。
「陽向ちゃんがケーキを渡した時……、喜一さんは、香織里さんが作ったケーキを食べて、旅立ったんだ。お孫さんに会って、美味しいものが食べたかった、その願いが叶えられたから。香織里さんは、視えなかったのか。それとも、視えたのか。僕がおかしなことを言い始めたと思ってるのか。どれですか」
「あの、正直言うと、視えました。でも、それは、福原さんの言う”次の世”に旅立つ瞬間だけで、あとはモヤモヤしてたというか。ずっと、目がかすんでただけかと思ってました。それがどうかしたんですか?」
「見てほしいものがある」
 営業所を出ていく一歩を追いかけた。向かった先は、式を終えてがらんとしたホールだった。ロビーの電気をつけ、一歩は指差す。
 香織里は、あっと声を上げた。
 四つの白いもやがロビーの中央に集って浮いている。
「ホールが静かになると、ああやって出てくる。四人のうち、三人が、僕が担当した人だ」
 もやは、香織里と一歩に近づき、徐々に形を成していった。全員、白装束を纏っている。裸足で、宙に浮いていた。
『一歩さん、今日は若いねーちゃんを紹介してくれるんかあ』
 がはは、と笑ったのは、高齢の男性だった。大きな口を開けて笑っているので、歯がいくらかないのが視えた。
「相模原実さん。式をしたのは、僕がコーディネーターになったばかりの一年前」
 実は香織里に向かって手を振った。
 香織里は顔を引きつらせながら、頭を下げる。
「福原さんって、長くここに勤めてるんじゃないんですか?」
「大学を中退してずっとここにいるけど、コーディネーターになったのは一年前だよ。それまで、香織里さんと同じように、アシスタントをしてた。僕の上司が仕事を辞めたのをきっかけに、資格を取ったんだ。それから……、あのお婆さんは半年前に式をした人で、奥村フミエさん」
 フミエは、豊かな白髪がくるっと巻いていて、おしゃれなお婆さんだった。反応がない。ぼんやりと香織里を見つめていた。
『恵子、私は薬を飲んだかしらね』
 やっと喋ったかと思ったら、知らない名前で呼ばれてしまった。誰かと間違えられたのだろうかと戸惑っていると、一歩が説明に入る。
「認知症を患っている人だ。気にしないで。恵子さんはフミエさんの娘だ。もう一人は、権田茂さん。彼はフミエさんの次に僕が式を担当した」
 幽霊になっても、日焼けした肌が印象的だった。体格はいいものの、彼には、右腕がなかった。
『わしゃ、目が見えとらんのよ。実さん、誰かおるんか?』
『若いねーちゃんがおるよ。一歩さんが連れてきた』
「香織里さん、僕のアシスタントだ。あなた方を”次の世”に送ることができそうな人だ」
 耳が遠い老人たちに向かって、一歩は大きめの声で話しかけた。
 ああそうかい、と実と茂は頷いて聞いていたが、フミエだけ反応がなかった。認知症がかなり進んでいる状態のままなのだ。
「もうひとりは、あいメモリーで式をしていない。言葉を習得する前に亡くなったのか、喋ることができない。名前も分かっていない。いつの間にか、ここにいた」
 実たちの間をふよふよ漂っていたのは、一歳程の幼児だった。女の子のようである。香織里を見て、顔をほころばせた。
「あの、福原さん……、その方たちは、なんでここにいるんでしょう。それに”次の世”ってなんですか?」
 一歩は霊たちに待合室にいるよう頼み、ロビーに二人きりになった。
「一般的には来世って言われるやつかな。人それぞれ、旅立つ先は違う。だから、僕はもっと広い意味で言いたくて”次の世”と言ってる。その人の逝くべき場所。彼らは、何らかの未練があるんだと思う。でも、誰も僕には教えてくれない。ここに留まる理由があって、彼らはここにいるんだと思う。僕が、彼らの願いを叶える式ができなかったばかりに。僕がどれだけ頭をひねってプランを立てても、遺族の方に満足してもらっても、たまにこうやってホールに居続ける人がいるんだ。僕の実力不足で。故人にしてみれば、僕の葬儀はいい別れじゃなかったんだと思う」
 式が終わったあと、暗い顔をして、一人で反省している。園子が言っていたのは、このことだったのだ。
 しかし、そうだとしたら、この前の式の霊がいないのはおかしい。
「三日前の方はどうだったんですか?」
「彼も”次の世”には逝かなかった。そのまま、あの夫婦に憑いて帰ってしまった。このホールを出たら、それからどうなるかは僕には分からない。”次の世”に逝けたのか、逝けなかったのか……あのまま誰かに憑いて悪霊にでもなってしまうのか。僕は、ここで納得して”次の世”に逝ってほしいんだ。そこまでお見送りするのが、僕のコーディネーターの仕事だと思っている。そこまでお見送りをして、はじめてお別れが終わって、僕の仕事は終わるんだ。でも、僕一人頑張っても駄目だった」
 香織里がここに来る前、三人のアシスタントと組んだが、どれも辞めてしまった。一歩が完璧な式を追い求め、厳しくなっているのは、それが理由なのだと初めて分かった。
 それまでのアシスタントは、香織里のように視ることができなかったのだろう。一歩が厳しい理由が分からず、嫌になって辞めてしまったのだ。
「香織里さんは、喜一さんを”次の世”に送ることができた。香織里さんが作ったケーキだったからかもしれないし、虎鶴のケーキでも良かったのかもしれない。でも、虎鶴にケーキを用意させることができたのは香織里さんだ。喜一さんの願いを聞き出したのは、香織里さんだったから。僕じゃない。前も言ったけど、僕ではあそこまで遺族から話を聞き出すことができない。だから、彼らの願いも、香織里さんなら聞き出せるかもしれないし、見送ることができるかもしれない。彼らのお見送りを手伝ってくれないか。あのままにしたくないんだ」
 香織里は、特別なことをしたつもりはなかった。普通に話を聞き、必要だと思ったことをやっただけだ。無意識的に行ったことをここまで評価されると反応に困るが、嫌ではなかった。
 自分ができるのかもしれないなら、やってみようと思った。
 今まで、人に散々迷惑をかけてきた自分が、ここまで必要とされているのは初めてだった。だったら、その期待に応えたい。
「分かりました。できることなら、やってみたいと思います」
 香織里の返事に、一歩はほっとした表情になった。
「ありがとう、助かる」
 一歩のその一言に、香織里はなぜだか嬉しくなった。自分が力になれることが嬉しかったのだろう。
 そこに社長の平次がやってくる。
「誰かと思ったら、一歩君と香織里さんか。今日もいらっしゃるのかい?」
「います。四人。香織里さんも視えるというので、紹介していました」
 平次は微笑みを浮かべながら、待合室の中を覗く。どうやら平次も視える人だった。
 いるねぇ、と呟き、待合室のドアを閉める。
「直感だったけど、一歩君に香織里さんを組ませて正解だったね。お見送りはできそう?」
「香織里さんなら」
 何故そんな自信ありげに言うのだろう。香織里は不安を膨らませていた。
 期待に応えたい気持ちはあるものの、本当にできるかは分からない。それなのに、平次に香織里ならできそうだと言われると、ますます不安になってくる。
 そんな香織里の様子を見た平次は、香織里の肩にとん、と手を置いた。
「やっぱり、君を採用して正解だったね。これも直感だったけど。でも、こんな期待は無視して、香織里さんの思うようにしてもらったらいい。一歩君も、あまり香織里さんにプレッシャーかけないようにね」
 一歩は素直に頷いた。平次からそのように言ってくれると、香織里はほっとする。
「一歩君は香織里さんの何がいいと思ったの?」
「料理です」
 平次は顎をさすって、目を閉じた。
「それはいい。食事はとてもいいものだ。お腹も気持ちも満たされる。生きている心地がする。人と人、それを超えて生者と死者を結ぶものかもしれないね」
 『繋がり、いい別れ』という、あいメモリーのキャッチコピーを思い出す。あれもまた、平次のモットーなのだと香織里は思った。
 今日の喜一も、一瞬だけ、生を感じたのだろうか。陽向から差し出された料理を口にした時、あの時は確かに、陽向と喜一は繋がった。あの瞬間、喜一が何に満たされたのか、それが分かるのは喜一だけだ。孫と会えた、孫と食事ができた、美味しいものを口にすることができた。それ以上の喜びが、喜一の中にあったのだろうか。
 晴馬や陽向の中には、確かに喜びがあった。あの晴馬の流した涙は、父を無事見送ることができたことに対しての安堵と、喜びだった。
 一歩の目指す別れと、平次の目指す別れは、同じなのだ。視えるからこそ、無事旅立ってほしいという想いがある。旅立つ者も、遺された者も、それぞれの先のために、別れをするのだ。ここでようやく、香織里は面接の時の平次の言葉を理解した。
「まあ、思うようにやってみて。式の予約はまだあるの?」
「いえ。今の所、僕の元には予定は入っていません」
「ん、じゃあ、他のコーディネーターに仕事を回して、あの四人のお見送りに専念するといいよ。無事旅立ってもらうところまでが、あいメモリーの仕事だからね。お金にならなくてもいいから。香織里さんも思うことがあったら、どんどんやってみて」
「あ、はい。ありがとうございます」
 平次の言葉一つ一つが、香織里には嬉しかった。失敗してもいいから、平次の言う通り、思うようにやってみよう。頑張れるような気がする。
「あと一歩君、だいぶ前言ったの、楽しみに待ってるよ」
 平次は去り際、そのようなことを言い残した。
 一歩は参ったように大きな溜息をついた。
「社長に何か言われていたんですか?」
「ああ、うん、まあ……、でもこれは僕の宿題だから。話は終わった。もう帰ろう」
 ホールの戸締まりをする時、実が待合室から出てきて、香織里に手を振ってきた。あんなに楽しそうな実は、何故ここに留まっているのだろう。
 また三人の詳細を一歩に聞こう。香織里はそう決めて、営業所に戻った。
 退勤の準備をしている途中、一歩に甘いのが好きなのか、もう一度尋ねた。
「なんで?」
 はいでもいいえでもなく、逆に聞き返されてしまった。
「いえ、冨安さんからそんなことを聞いたので。ケーキもほぼ食べたって」
「は? まじかよ……。園子さんは口が軽いからなあ……恥ずかしいから、黙っといてほしいって言ったのに」
 頬をひっかきながら、ぶつぶつ言っている。これは認めているのだろうか。一歩が甘い物好きであることを隠しているのは、本当だった。
「パウンドケーキも、今日のケーキも、美味しかった。コーヒーは苦手だけど。きっと、晴馬さんが香織里さんに色々話してくれたのは、あのケーキとコーヒーがあったからだ。余計なことじゃ、ないと思う」
 一歩は、じゃ、と短い挨拶をして、営業所から出ていった。
 すれ違うようにして、夜間待機の職員が出勤してくる。香織里も挨拶をして営業所を出た。
 一歩の顔がほのかに染まっていたような気がしたが、香織里は自分の顔の方が赤くなっているのではないかと思った。運転中、一歩に言われたことが頭の中で何度も繰り返された。
 それから、帰宅して用意した夕飯を見た愛翔が驚いた顔をした。
「香織里、なんかいいことあった?」
「え?」
「晩御飯めっちゃ豪華なんだけど。刺身なんて滅多に買ってこないじゃん。肉もあるし。なんでステーキ肉なの? え、何、やっぱ恋?」
 遅れてやってきた父も、食卓を見て、愛翔と同じことを聞いてきた。父も、香織里の気分が料理に表れることを知っているからだ。
「違うから。仕事がちょっと楽しくなっただけ」
 自分ができそうなことが見つかったからだ。その記念だ。社長からも、一歩からも、自分の得意なことを認められて、嬉しくなったのだ。まさか、葬儀屋に勤めていて、料理の腕を認められるとは思っていなかった。
 とはいえ、一歩と少しだけ打ち解けたことも、香織里は嬉しかった。
 またお菓子を作り過ぎたら、会社に持っていこう。そう決めた。
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