1章 推しを忘れた令嬢
「再度申し上げますが、捜索時間は延長なしの一時間、持って帰れるものはお一つです。古井様のご様子だと、推しはゲームにとどまらず、実際の男性方にもいらっしゃるようですが、そろそろお決めになられてください。残り五分です。帰りの特急に乗り遅れますと、戻れなくなりますよ」
バンドウが腕時計を指し示しながら催促すると、七瀬は眉を吊り上げた。
「うるさい、待って、今、決めてるから!」
七瀬の指は、ずっとスマホの画面の上を滑っていた。どれもこれも、七瀬のセフレである。一人一人に『やっほー、今度いつする?』と同じメッセージを送る。手慣れたもので、あっという間に十人以上の男にメッセージを送った。
送れば返事もすぐに返ってきて『待たせんなよ、すぐシよ』などといったメッセージが画面に表示された。スマホは鳴り止まない。
七瀬はその通知音に酔いしれていた。
トラックに轢かれたあの時も、このような顔をしていたのだろう。バンドウは床に座ってスマホを握りしめる七瀬を無表情で見下ろしていた。
通知音が鳴るたびに、唇を舐め、獲物を捕らえたかのような目つきになり、スマホを操作する。
もう七瀬は決めるつもりはない。画面の向こうの男たちにしか、意識がなかった。
残り五分となったところで、バンドウは最後の問いをする。
「古井様、別に無理に決めなくてもよろしいんですよ。こちらに残るという選択肢もございます。実は、お忘れ物次第では、こちらに戻ることもできるのです。アデリアに戻らず、こちらで再び、人生を歩む。それでもよいのですが。そろそろご決断を」
ぴたりと七瀬の指が止まった。
ゆっくりとバンドウを見上げる。
「え……、もう一回、こっちで生きれるって、こと……?」
「ええ。あなたはアデリアの人生を捨て、再度、古井七瀬として、その魂を全うさせることができます。どちらで生き、どちらで死にたいですか? やり直しますか、やり直しませんか。それを決めることができるのも、このサービスなんです。利用は転生一回につき一度しかできないのは、それが理由です。ご決断をお願いします」
七瀬は生唾を飲み込む。
戻れば、またあの夫との生活が始まる。こちらに残れば、推しに溺れることができる。
さっき掲示板に書き込んだ通りだ。あの夫の元には戻らなければと考えると憂鬱になる。そもそも、異世界転生は望んだことではなかった。
七瀬に迷いはなかった。
「じゃ、じゃあ、あたし……、もう一回、こっちで生きる! あんなクソキモのモブのところになんか戻りたくない!」
その返答に、バンドウはにこりとする。
「よろしいんですね?」
七瀬はこくこくと頷いた。
その反応を見たバンドウはドアノブを回し、部屋のドアを開ける。
ドアの向こうにいるものを見た瞬間、七瀬は青ざめ、スマホを手から滑り落とした。
数名の男たちがドアの向こうに佇んでいた。
知っている顔、知らない顔、様々だった。一度ホテルで身体を重ねた者もいれば、まったく会ったこともない者もいる。顔がいい者もいれば、七瀬が嫌悪する”クソデブおじさん”もいた。
男たちは、どっと部屋に流れ込んできた。
「な、何、この人たち!」
七瀬は叫ぶが、バンドウはドアの隣でさあ、と答えた。
「推し、ではないのですか? こちらに戻ってきた古井様に皆、逢いたかったのでしょうね」
七瀬は男たちに身体を押さえられる。
ある男は言った。
「古井ちゃん、やっと特定したよ……」
さらにある男は言った。
「信じてたのに、七瀬……」
男たちは、皆、七瀬と繋がれるのは自分だけだと思っていた。男の姿があることに激昂し七瀬を殴る者もいたし、男同士で殴る者もいた。七瀬の服を剥ぎ、写真を撮る者もいた。その写真はすぐにネットにアップされる。七瀬の裸体はたちまちネットで拡散された。乱交できると喜んでいる男もいた。
七瀬は男たちの欲に飲み込まれた。七瀬は嫌だと叫ぶ。
ありえない。ここは別の異世界じゃないの、ありえない。そう叫ぶ七瀬に、バンドウはにっこりと微笑んだ。
「古井様、この世にありえないなど、存在しないんですよ。ここはあなたの前世の世界です。皆、待っていたのでしょう。あなたが久しぶりに色んなところへ書き込みを始めたので、来てくれたんじゃないですか? 良かったじゃないですか。皆、古井様を愛しているようですよ? あなたの推しなんでしょう? 推したち皆に愛されたかったのでしょう? 彼なんて、古井様に会うためにわざわざ家を特定してくれたみたいですよ? 素晴らしい愛情じゃないですか。あなたがお忘れになられていたのは、この方々たちの愛でしたね。見つかって良かったです」
「ち、ちが……っ」
「違いませんよね。あなたのお忘れ物は、不特定多数の男を愛し愛されることでした。残念ながら、ルール上、不特定多数のお忘れ物は持って帰ることができないんです。こちらの世界にはSNSもありますし、ゲームもたっぷりありますし、結婚も離婚も、まあ、いくらかはできるでしょう。乙女ゲームの世界よりは充実すると思います。では、お時間が参りましたので、これにてサービスを終了させていただきます。ご利用ありがとうございました」
助けて、嫌だ、犯されたくない、やっぱり向こうに戻る、戻らせて――バンドウは七瀬の懇願を無視し退室した。静かにドアを閉める。一階に降りたが、下まで悲鳴のような、獣の鳴き声のようなものが聞こえてきた。バントウが玄関のドアを開けた時には、それは甘い嬌声へと変わっていた。
ご乗車ありがとうございます。特急タナバタ、星の間中央駅行き、間もなく発車します。
感情のないアナウンスが七瀬の悲鳴をかき消した。時間は丁度であった。お忘れ物センターでは遊んでばかりだが、この乗車の時間だけは絶対に守る。
自分も星の間中央駅に戻れなくなるのは困るのだ。
バンドウはジャケットを脱ぎ、指定していた席に座った。七瀬――アデリアの席は空席だった。
暑かった。じめじめとした暑さは非常につらい。車内は快適。隣には客もいない。シートを倒し、ネクタイも緩めた。息をつき、目にこびり付いた嫌な光景を消すように瞼を閉じた。肺の中に溜まった、むしむしとした空気を全て吐き出すかのような、深い溜息をつく。
こういう客に当たった時は、決まって酒が飲みたくなる。この特急の中で飲むビールは特に良かった。胸の中に膨れ上がる苛立ちを鎮めてくれるのは、いつも酒だった。
発車後しばらくして、車内サービスがやってくる。
「バンドウさん、お疲れ様です」
客室乗務員に声をかけられ、バンドウは閉じていた目を開けた。
顔なじみの女性の客室乗務員、ハナビだった。特急の名がタナバタだからなのか、きらきらと星が輝いている青色のスカーフを首に巻いていた。長く艶やかな黒髪を肩から零しながら、くりっとした目でバンドウを覗き見ていた。
「ああ、どうも、ハナビさん。お疲れ様です」
「お一人ということは、いつものあれですか?」
ハナビは頼まれる前にワゴンから冷えた缶ビールを取り出す。何故か嬉しそうに、うふふ、と笑っている。
「そうします。あと、後輩のムゲンさんへのお土産も欲しいので、瓶のやつもください」
「分かりました。お土産は中央駅到着前にお持ちしますね。バンドウさんもようやく後輩ができたんですねえ。いいなあ」
バンドウはハナビから缶を受け取って、目を細めて笑った。
「そうなんです。いいでしょう。あまり表情を出さない美人さんなんですけど、可愛い子なんです。とても真面目で、純粋です。ジョーさんにも気に入られてしまいました」
ハナビは羨ましいと唇を尖らせ、ワゴンを押して行った。乗客に飲み物を振る舞う彼女は、見た目はバンドウと同じ三十五くらいだが、特急タナバタに乗り続けて二十年経つらしい。バンドウよりもずっと先輩だった。
帰りの特急はタナバタと決めている。それは、彼女が裏で酒を飲んでいるのを知っているからだ。彼女もバンドウと同じく、隠れてルール違反をする職員の一人だった。
バンドウはシートを少しだけ起こし、缶のプルタブを引いた。ぷしゅっと気持ちのよい音がする。
懐かしい気持ちになる。
自分もかつて――もう記憶がなくて思い出せないが、かつて、特急に乗って、こうやってビールを飲んでいたのだろう。
この特急限定のビールである。星間ちゃんが描かれた缶なので、ジュースと間違えられそうだった。その可愛らしいデザインを裏切る苦味の強いビールは、暑さと怒りで疲れ切った体に沁み渡った。
帰ったら確認したいことがあった。
出てくる時に、ムゲンにゲーム機をジョーに触らせるなと言っておいて良かった。安心すると、酔いが回り、気持ちが落ち着いた。徐々に気持ちよくなっていく。
彼女は今頃、男たちから浴びせられる快楽に溺れているのだろう。
いつもなら、もう少し冷静な対応ができるのだが、今日はやや感情的になってしまった。複数の男に手を出す彼女にあそこまで嫌悪感を抱いたのは何故だろう。
あれが恋愛というものなのだろうか。いや、違う。それだけはすぐに否定できたが、いつそのように考えるようになったかは分からない。
バンドウはちびちびと飲みながら、窓の外の星々をぼんやりと見ていた。
ふと、隣に誰か座っている気がして、席を見るが、アデリアが座るはずだった席は空だった。何故なのだろう。記憶にはない懐かしさが、胸の中で広がった。
バンドウが腕時計を指し示しながら催促すると、七瀬は眉を吊り上げた。
「うるさい、待って、今、決めてるから!」
七瀬の指は、ずっとスマホの画面の上を滑っていた。どれもこれも、七瀬のセフレである。一人一人に『やっほー、今度いつする?』と同じメッセージを送る。手慣れたもので、あっという間に十人以上の男にメッセージを送った。
送れば返事もすぐに返ってきて『待たせんなよ、すぐシよ』などといったメッセージが画面に表示された。スマホは鳴り止まない。
七瀬はその通知音に酔いしれていた。
トラックに轢かれたあの時も、このような顔をしていたのだろう。バンドウは床に座ってスマホを握りしめる七瀬を無表情で見下ろしていた。
通知音が鳴るたびに、唇を舐め、獲物を捕らえたかのような目つきになり、スマホを操作する。
もう七瀬は決めるつもりはない。画面の向こうの男たちにしか、意識がなかった。
残り五分となったところで、バンドウは最後の問いをする。
「古井様、別に無理に決めなくてもよろしいんですよ。こちらに残るという選択肢もございます。実は、お忘れ物次第では、こちらに戻ることもできるのです。アデリアに戻らず、こちらで再び、人生を歩む。それでもよいのですが。そろそろご決断を」
ぴたりと七瀬の指が止まった。
ゆっくりとバンドウを見上げる。
「え……、もう一回、こっちで生きれるって、こと……?」
「ええ。あなたはアデリアの人生を捨て、再度、古井七瀬として、その魂を全うさせることができます。どちらで生き、どちらで死にたいですか? やり直しますか、やり直しませんか。それを決めることができるのも、このサービスなんです。利用は転生一回につき一度しかできないのは、それが理由です。ご決断をお願いします」
七瀬は生唾を飲み込む。
戻れば、またあの夫との生活が始まる。こちらに残れば、推しに溺れることができる。
さっき掲示板に書き込んだ通りだ。あの夫の元には戻らなければと考えると憂鬱になる。そもそも、異世界転生は望んだことではなかった。
七瀬に迷いはなかった。
「じゃ、じゃあ、あたし……、もう一回、こっちで生きる! あんなクソキモのモブのところになんか戻りたくない!」
その返答に、バンドウはにこりとする。
「よろしいんですね?」
七瀬はこくこくと頷いた。
その反応を見たバンドウはドアノブを回し、部屋のドアを開ける。
ドアの向こうにいるものを見た瞬間、七瀬は青ざめ、スマホを手から滑り落とした。
数名の男たちがドアの向こうに佇んでいた。
知っている顔、知らない顔、様々だった。一度ホテルで身体を重ねた者もいれば、まったく会ったこともない者もいる。顔がいい者もいれば、七瀬が嫌悪する”クソデブおじさん”もいた。
男たちは、どっと部屋に流れ込んできた。
「な、何、この人たち!」
七瀬は叫ぶが、バンドウはドアの隣でさあ、と答えた。
「推し、ではないのですか? こちらに戻ってきた古井様に皆、逢いたかったのでしょうね」
七瀬は男たちに身体を押さえられる。
ある男は言った。
「古井ちゃん、やっと特定したよ……」
さらにある男は言った。
「信じてたのに、七瀬……」
男たちは、皆、七瀬と繋がれるのは自分だけだと思っていた。男の姿があることに激昂し七瀬を殴る者もいたし、男同士で殴る者もいた。七瀬の服を剥ぎ、写真を撮る者もいた。その写真はすぐにネットにアップされる。七瀬の裸体はたちまちネットで拡散された。乱交できると喜んでいる男もいた。
七瀬は男たちの欲に飲み込まれた。七瀬は嫌だと叫ぶ。
ありえない。ここは別の異世界じゃないの、ありえない。そう叫ぶ七瀬に、バンドウはにっこりと微笑んだ。
「古井様、この世にありえないなど、存在しないんですよ。ここはあなたの前世の世界です。皆、待っていたのでしょう。あなたが久しぶりに色んなところへ書き込みを始めたので、来てくれたんじゃないですか? 良かったじゃないですか。皆、古井様を愛しているようですよ? あなたの推しなんでしょう? 推したち皆に愛されたかったのでしょう? 彼なんて、古井様に会うためにわざわざ家を特定してくれたみたいですよ? 素晴らしい愛情じゃないですか。あなたがお忘れになられていたのは、この方々たちの愛でしたね。見つかって良かったです」
「ち、ちが……っ」
「違いませんよね。あなたのお忘れ物は、不特定多数の男を愛し愛されることでした。残念ながら、ルール上、不特定多数のお忘れ物は持って帰ることができないんです。こちらの世界にはSNSもありますし、ゲームもたっぷりありますし、結婚も離婚も、まあ、いくらかはできるでしょう。乙女ゲームの世界よりは充実すると思います。では、お時間が参りましたので、これにてサービスを終了させていただきます。ご利用ありがとうございました」
助けて、嫌だ、犯されたくない、やっぱり向こうに戻る、戻らせて――バンドウは七瀬の懇願を無視し退室した。静かにドアを閉める。一階に降りたが、下まで悲鳴のような、獣の鳴き声のようなものが聞こえてきた。バントウが玄関のドアを開けた時には、それは甘い嬌声へと変わっていた。
ご乗車ありがとうございます。特急タナバタ、星の間中央駅行き、間もなく発車します。
感情のないアナウンスが七瀬の悲鳴をかき消した。時間は丁度であった。お忘れ物センターでは遊んでばかりだが、この乗車の時間だけは絶対に守る。
自分も星の間中央駅に戻れなくなるのは困るのだ。
バンドウはジャケットを脱ぎ、指定していた席に座った。七瀬――アデリアの席は空席だった。
暑かった。じめじめとした暑さは非常につらい。車内は快適。隣には客もいない。シートを倒し、ネクタイも緩めた。息をつき、目にこびり付いた嫌な光景を消すように瞼を閉じた。肺の中に溜まった、むしむしとした空気を全て吐き出すかのような、深い溜息をつく。
こういう客に当たった時は、決まって酒が飲みたくなる。この特急の中で飲むビールは特に良かった。胸の中に膨れ上がる苛立ちを鎮めてくれるのは、いつも酒だった。
発車後しばらくして、車内サービスがやってくる。
「バンドウさん、お疲れ様です」
客室乗務員に声をかけられ、バンドウは閉じていた目を開けた。
顔なじみの女性の客室乗務員、ハナビだった。特急の名がタナバタだからなのか、きらきらと星が輝いている青色のスカーフを首に巻いていた。長く艶やかな黒髪を肩から零しながら、くりっとした目でバンドウを覗き見ていた。
「ああ、どうも、ハナビさん。お疲れ様です」
「お一人ということは、いつものあれですか?」
ハナビは頼まれる前にワゴンから冷えた缶ビールを取り出す。何故か嬉しそうに、うふふ、と笑っている。
「そうします。あと、後輩のムゲンさんへのお土産も欲しいので、瓶のやつもください」
「分かりました。お土産は中央駅到着前にお持ちしますね。バンドウさんもようやく後輩ができたんですねえ。いいなあ」
バンドウはハナビから缶を受け取って、目を細めて笑った。
「そうなんです。いいでしょう。あまり表情を出さない美人さんなんですけど、可愛い子なんです。とても真面目で、純粋です。ジョーさんにも気に入られてしまいました」
ハナビは羨ましいと唇を尖らせ、ワゴンを押して行った。乗客に飲み物を振る舞う彼女は、見た目はバンドウと同じ三十五くらいだが、特急タナバタに乗り続けて二十年経つらしい。バンドウよりもずっと先輩だった。
帰りの特急はタナバタと決めている。それは、彼女が裏で酒を飲んでいるのを知っているからだ。彼女もバンドウと同じく、隠れてルール違反をする職員の一人だった。
バンドウはシートを少しだけ起こし、缶のプルタブを引いた。ぷしゅっと気持ちのよい音がする。
懐かしい気持ちになる。
自分もかつて――もう記憶がなくて思い出せないが、かつて、特急に乗って、こうやってビールを飲んでいたのだろう。
この特急限定のビールである。星間ちゃんが描かれた缶なので、ジュースと間違えられそうだった。その可愛らしいデザインを裏切る苦味の強いビールは、暑さと怒りで疲れ切った体に沁み渡った。
帰ったら確認したいことがあった。
出てくる時に、ムゲンにゲーム機をジョーに触らせるなと言っておいて良かった。安心すると、酔いが回り、気持ちが落ち着いた。徐々に気持ちよくなっていく。
彼女は今頃、男たちから浴びせられる快楽に溺れているのだろう。
いつもなら、もう少し冷静な対応ができるのだが、今日はやや感情的になってしまった。複数の男に手を出す彼女にあそこまで嫌悪感を抱いたのは何故だろう。
あれが恋愛というものなのだろうか。いや、違う。それだけはすぐに否定できたが、いつそのように考えるようになったかは分からない。
バンドウはちびちびと飲みながら、窓の外の星々をぼんやりと見ていた。
ふと、隣に誰か座っている気がして、席を見るが、アデリアが座るはずだった席は空だった。何故なのだろう。記憶にはない懐かしさが、胸の中で広がった。