おまけ
ユーロウと名付けた。口に出しては呼んではいないが、心の中でそう呼んでいる。
バンドウからもらったクマのぬいぐるみの名である。優一郎の名から取った。バンドウが言うように、これはバンドウの身代わりである。優一郎そのままの名を与えるのは嫌だったので、最初と最後の音をつけた。
星間ちゃんやオラクルのように、意思を持った不思議な存在もそれはそれで愛くるしくて良かったが、ユーロウはずっとこのままでいてほしい。ここに優一郎、バンドウとの思い出以外のものは何も入らないでほしかった。だから口に出して呼んでいない。
バンドウが出張の日、仕事が一段落したら、保管室の椅子に座ってずっと抱きしめていた。今もそうである。静かな保管室で、ユーロウの温かさの中に埋もれていた。
ミライはいつもと変わらず、外に遊びに出ていた。今日は展望台に行って、異世界鉄道会社が所有している特急たちを見るのだそうだ。展望台にいる客に特急の名前を教えることもあるらしい。長時間にわたる研修で特急のほとんどを覚えたようだ。
展望台には屋上に続く階段がある。お忘れ物センターの前職員が飛び降り自殺に向かった階段だった。施錠はされていないらしい。ミライには屋上には行くなと伝えている。
懐かしさは時に、死の衝動を招く。自分は踏切。バンドウはプラットホーム。踏切と遭遇する場面は少ないが、バンドウは出張のたびに死の衝動と向き合うことになる。だから心配するのだが、ユーロウを抱きしめていると落ち着いていられた。
きっと今日も普通に帰ってくる。今まで何度か”儀式”のために帰りが遅くなっていたが、それもなくなった。”儀式”は自分でしてほしいと伝えたからだ。腕時計が指し示すのは、特急タナバタが到着する午後十時ちょうど。ユーロウの頭を撫でて、頬ずりをして、時間を潰す。今日もたくさん”儀式”をして、生きている実感を得て、また仕事に戻るのだ。そう思っていた。
保管室のカーテンが揺れ、バンドウが溜息をつきながら保管室に入ってきた。
ただいま、がない。
こめかみに手を当てていた。頭痛でもあるのだろうか。ムゲンに声をかけず、ジャケットを机に投げ、すぐにベッドに横になってしまった。ネクタイを外し、ボタンを二つほど外し、大きく息をついていた。
ユーロウを椅子に座らせ、バンドウの元に向かった。
「何、どうしたの」
「悪酔いしてしまいました。疲れてるわけではないんですが」
バンドウはいつも帰りにハナビからビールをもらって飲んでいる。ハナビに無理矢理三本くらい押し付けられることもあるようだが、今日は一本だけだったらしい。下車する頃には良くなるはずが、酷くなる一方だったようである。
水を飲んでいないというので、すぐバックヤードの職員休憩室まで水を買いに行った。こういうこともあるんだな、と思い、ストック用の水も多めに買っておく。
バンドウが悪酔いしたままお忘れ物センターに帰ってくるのは初めてだった。一度、酔ったまま下車し、酔いが覚めるまでホームで”儀式”をしていたことがあったが、それきりである。優一郎も酒に強い方だったし、バンドウもそうだと思っていた。
食事も睡眠も本来はいらない体なのに、調子が悪くなることがあるなんて、面倒なものだと思う。心が悲鳴を上げるとどっと疲れるし、万能ではなかった。
疲れているわけではないと言っているが、自覚していなかっただけかもしれない。心配させまいと嘘をついている可能性だってある。バンドウは自分が弱っているところは見せたがらない。だから一人で”儀式”をして帰ってきていた。優一郎の時からそうだった。一人で悩み、誰にも相談しない。悩んでいることすら見せない。気付いた時には手遅れなのだ、いつも。
今の仕事は適当に手を抜いているが、もともとは完璧主義者だったのかもしれない。そう思い始めたのは、つい最近のことである。優一郎は同人の頃から着実にファンを増やし続け、挫折というものを知らなかった。あの時、優一郎はスランプにはまり、落ち込む自分を認めたくなかったのかもしれないし、見せなくなかったのかもしれない。
保管室に戻り、ストックを冷蔵庫にしまい、それからバンドウにペットボトルを差し出した。
「座れるの」
首をわずかに横に振った。受け取ろうともしなかったので、ベッドに腰かけ、額にペットボトルを当ててやった。
「本当は疲れてたんじゃないの」
「今日の捜索は別に普通の内容でした。あ、でも向こうはジメジメした夏の日だったので、気候にやられてしまったのかもしれません。喉乾いていたし、一気に飲んじゃったせいかも」
あはは、と力なく笑うので、溜息が出てしまった。その程度の理由で良かった。嘘をついているわけでもなさそうだったので、ひとまず安心する。安心すると今度は腹が立ったので、ペットボトルの底で頬をぐりぐりと押した。
もう心配などしなくていいのだろうか。最悪を想像してしまうのは、やめてしまおうか。そう思った。
「ね、飲ませてくださいよ」
「どうやって」
「口で」
所謂、口移しというやつだった。漫画やアニメでしか見たことがない。睦には刺激的すぎて見るだけで顔が熱くなっていた覚えがある。
だが、求められると、それに応えたい自分もいた。
キャップを開け、少しだけ口に含んだ。そのままバンドウの口に流し込んだ。少なすぎると言われるので、二回目はもう少し多めにした。
「……もういいですか……んむっ」
離れようとすると、今度は頭を押さえつけられ、そのまま長くて深いキスをした。
そこまでする余裕があるのなら、大丈夫か……少し呆れた気持ちになる。心配して損をした、とは、こういうことを言うのかもしれない。
バンドウの胸を軽く叩き、唇を離した。
「もう、頭が痛いんじゃないんですか。悪酔いしたのなら、早く寝てください。これ以上は駄目です。今日はしません、私が嫌です」
「はいはい、そうします。頭が痛いのは嘘じゃないですからね」
仕事に戻ろうと思って立ち上がろうとすると、引き止められた。寝入るまでいてほしいらしい。腰に抱きつかれる。
「昔もこんなことありましたよね」
「覚えていません」
「じゃあ今から思い出してください。ほら、開発チームの飲み会の」
漫画を描いていただけだから、開発チームとはあまり縁がなかったはずだが。睦の記憶をたどる。一つだけ、思い当たるのがあった。
初めてハピプラの飲み会に参加した。
開発していたゲームが完成したので、その打ち上げが行われることになったのだ。シナリオを担当した優一郎と、漫画での宣伝を担当していた睦も、なぜか誘われることになった。二人が打ち合わせをしていたフロアと、開発チームのフロアが同じだったからかもしれない。その日は、優一郎も睦も出社していて、当たり前のように声をかけられた。
優一郎は当然のように行くと返事をし、その流れで睦も行きますと返事をした。
「こういうの、何度もあるんですか」
「ありますよ。彼らはいくつかあるチームの中でも特に飲みが好きなんです」
そのチームが担当するのはノベルゲーム。ハピプラのメインジャンルだ。優一郎との関係も深い。
指定された会場へは、地下鉄を乗り継いで向かった。打ち合わせが長引いて、開発チームと一緒に行くことができず、優一郎と睦の二人で別で向かった。
会場は焼き鳥がメインの居酒屋だった。座席個室で、入り口近くに優一郎と並んで座った。もう酒を入れていたので、かなり賑やかに迎えられた。優一郎は「おまたせ」と朗らかに返していたが、こういう飲み会にはあまり参加してこなかった睦は、僅かに頭を下げるだけだった。
男性ばかりのチームで、女性は睦一人だけだった。それが原因なのか、やたらと絡まれる。どこの大学に行っていたのかとか、どこらへんに住んでいるのかとか、出身はどこかとか、とにかく質問攻めにあった。詳しく教える気がなかったので、最初は漠然と答えていた。答えながら、そういえば優一郎にも教えていなかったなと思って隣を見る。優一郎も自分の話に耳を傾けていた。付き合ってもいるのに、泊まりのデートもしているのに、何も自分のことを教えていなかった。優一郎が聞いてくれるのならと思って、優一郎に話すつもりであとの質問に対応していた。
酒が入っていたからべらべらと喋ったというわけではない。酒はあまり飲んでいなかった。自分が飲み慣れていないことも、弱いことも分かっていた。だが、途中で飲んでいないことが知られてしまい、勝手にビールを注文されてしまった。
注文されてしまったからには、飲まないといけない。見られている。困りながらグラスを受け取り、一口だけ飲んで、机に置いた。
置いた瞬間に、優一郎が自分のグラスと、睦のグラスを取り替えた。優一郎は半分ほどまで飲みすすめていた。
「飲まなくていいですよ」
耳の近くで囁かれる。
さらに、お冷を渡してくる。そして、チームの会話の中に戻っていった。
タイミングを見計らって、睦のグラスを空にしていく。自分の分と、睦の分を注文し、ゆっくりと二人分飲みすすめていた。
いくら酒に強いとはいえ、二人分を飲んでいたのだ。飲み会が終わる頃になると優一郎は少しぐったりしていた。
二次会も誘われたが、優一郎は断って、睦と一緒にチームと別れた。
「あの、すみません、助けてもらって……」
チームが駅に向かったのを見届けて、優一郎に謝る。
こめかみを押さえて、何かに耐えているような表情をしていた。
「ちょっと……、休憩させてください、横になりたい」
優一郎のアパートも、睦のアパートも、郊外にある。そこまで帰るのは難しいようだった。
居酒屋の多い地区には、ホテルが多くある。駅前のビジネスホテルに空室があったので、そこに入ることにした。睦がチェックインの手続きをしている間、優一郎はロビーのソファに座っていた。
部屋に向かう途中にあった自動販売機で水を買い、優一郎に渡す。部屋に入り、一気に水を半分ほど飲んで、すぐに横になった。
睦も優一郎の隣に入る。
「大丈夫ですか」
「大丈夫。いつもは平気なんですけどね。疲れていたのかもしれません」
抱きつかれると、アルコールのにおいがした。自分はあまり飲んでいないのに、この香りで酔いそうだった。
こちらが申し訳なく思っているのに、優一郎もなぜか謝ってきた。
「睦ちゃんには合わないメンバーだったようです。すみません。これからも付き合いがあるメンバーだったので、たまにはいいかなと思ったのですが」
「必要なら、ちょっとくらい我慢しました」
「しなくていいですよ、そんなの。前から言っていますけどね、嫌だったら、嫌って言ってください。少なくとも、僕には」
優一郎からされて嫌なことなど、今まであっただろうか。考えて、これからのことも想像してみる。
「優一郎さんからされて嫌なことは、ない、と思う、多分」
「そんなことはないでしょう。今だって酒臭くて嫌ですよね」
「嫌じゃない。優しい優一郎さんが好きです。嬉しかった」
キスをして、自分もその吐息で酔った。優一郎は嬉しそうに笑みを浮かべ、睦を抱きしめてすぐに寝入った。
「――そういえばそんなこと、ありましたね」
あの時はとても嬉しかったのに、言われるまで忘れてしまっていた。それが少し寂しい。きっと思い出せば、このような思い出はいくらでも出てくるのだろう。死ぬ間際の強烈な思い出に隠れてしまった、優しい思い出が。
プロポーズされた時のことも、小さな式を二人で挙げたことも、毎日のくだらない会話も。幸せな思い出は、意識して思い出さないと、すぐに忘れてしまう。
忘れたものを見つけるのは難しい。だが、こうやって思い出させてくれる人がいるというのは、とても幸福なことだった。
「あの時ね、すごい嬉しかったんですけど、睦ちゃんってやっぱり優しい僕が好きなんだなって思ったんです。優一郎もお付き合いしていく中で優しくない自分がいるって自覚したから、ずっと隠してました。嫌われたくないし、嫌なこともしたくないですし」
バンドウは自分のことを優しくないと言う。実際、優しくない時はある。
――優一郎と違って、今の僕は優しくないんです。優しくないことをしたくなる。でもムゲンちゃんが嫌なことはしたくありません。嫌なことは嫌って言わないと駄目ですよ。
それは優一郎と変わらない。優しくないと言いながら、実は誰よりもムゲンのことを気遣ってくれている人だ。
「バンドウさんは、ずっと優しいですよ。嫌って言えばすぐやめますし」
「まあ、言えって昔から呪文のように言っていますし」
「私も呪文のように繰り返しますけど、バンドウさんにされて嫌なことは、ない、と思います。恥ずかしいことは山程ありますけど。でも、バンドウさんなら、今のどんな私でも、受け入れてくれるって分かっているので、恥ずかしいけど、嫌じゃないです」
そこまで言って、先程の行為を思うとやっぱり恥ずかしくなって、ペットボトルをバンドウに投げつけた。
「早く寝てくださいっ。もう。二日酔いとか、絶対に嫌ですから」
「口移しのキスは嫌じゃないけど、二日酔いの僕は嫌なんですね」
いたずらっぽく笑われて、またものを投げつけたくなったが、もう投げるものがなかったので、言葉を投げつけておいた。
「ばかっ」
幼稚な照れ隠しだった。バンドウには笑われてしまっている。
保管室から出る時、おやすみなさい、と言われたので、おやすみなさい、と返した。
早くよくなってほしい。調子が悪いバンドウがいると、こちらも調子が狂う。
仕事は全て片付いていて、何もすることがない。無意識のうちにペイントソフトを立ち上げていた。
せっかく思い出したのだ。思い出したことを簡単な絵にして、自分しか知らない隠しフォルダの中に保存した。フォルダの中には、その他にも日記的な絵がいくつかある。
今まで描いてきたものを見返し、やっぱり思う。
本当に嫌だったことなんて、たった一つしかなかった。優一郎が、バンドウが、先にどこかに逝ってしまうこと。それと比べると、その他のことなんて些細なことだった。
もう忘れない。忘れたくない。忘れたくないものほど、忘れてしまうものだ。だからこうやって描きためている。どれもかけがえのない睦の思い出、ムゲンの気持ち。
戻りたいとは思わない。宝物のように描いて、大切にしまっておく。
見返していると、珍しくお忘れ物を取りに客がきた。寝ようとした瞬間に思い出して、慌ててホテルからやってきたのだという。
忘れていたのは、一本の剣だった。あるのが当たり前すぎて、座席に座る時にベルトから外していたのをうっかり忘れていたらしい。乗っていた特急の時間を教えてもらい、それを参考にリストから探すと、その剣は今日の昼にセンターに届いていた。保管室に取りに行くついでにベッドを見る。バンドウは既に眠っていた。
剣を渡し、ムゲンは最後に言った。
「思い出せて良かったです。もう忘れないでくださいね」
バンドウからもらったクマのぬいぐるみの名である。優一郎の名から取った。バンドウが言うように、これはバンドウの身代わりである。優一郎そのままの名を与えるのは嫌だったので、最初と最後の音をつけた。
星間ちゃんやオラクルのように、意思を持った不思議な存在もそれはそれで愛くるしくて良かったが、ユーロウはずっとこのままでいてほしい。ここに優一郎、バンドウとの思い出以外のものは何も入らないでほしかった。だから口に出して呼んでいない。
バンドウが出張の日、仕事が一段落したら、保管室の椅子に座ってずっと抱きしめていた。今もそうである。静かな保管室で、ユーロウの温かさの中に埋もれていた。
ミライはいつもと変わらず、外に遊びに出ていた。今日は展望台に行って、異世界鉄道会社が所有している特急たちを見るのだそうだ。展望台にいる客に特急の名前を教えることもあるらしい。長時間にわたる研修で特急のほとんどを覚えたようだ。
展望台には屋上に続く階段がある。お忘れ物センターの前職員が飛び降り自殺に向かった階段だった。施錠はされていないらしい。ミライには屋上には行くなと伝えている。
懐かしさは時に、死の衝動を招く。自分は踏切。バンドウはプラットホーム。踏切と遭遇する場面は少ないが、バンドウは出張のたびに死の衝動と向き合うことになる。だから心配するのだが、ユーロウを抱きしめていると落ち着いていられた。
きっと今日も普通に帰ってくる。今まで何度か”儀式”のために帰りが遅くなっていたが、それもなくなった。”儀式”は自分でしてほしいと伝えたからだ。腕時計が指し示すのは、特急タナバタが到着する午後十時ちょうど。ユーロウの頭を撫でて、頬ずりをして、時間を潰す。今日もたくさん”儀式”をして、生きている実感を得て、また仕事に戻るのだ。そう思っていた。
保管室のカーテンが揺れ、バンドウが溜息をつきながら保管室に入ってきた。
ただいま、がない。
こめかみに手を当てていた。頭痛でもあるのだろうか。ムゲンに声をかけず、ジャケットを机に投げ、すぐにベッドに横になってしまった。ネクタイを外し、ボタンを二つほど外し、大きく息をついていた。
ユーロウを椅子に座らせ、バンドウの元に向かった。
「何、どうしたの」
「悪酔いしてしまいました。疲れてるわけではないんですが」
バンドウはいつも帰りにハナビからビールをもらって飲んでいる。ハナビに無理矢理三本くらい押し付けられることもあるようだが、今日は一本だけだったらしい。下車する頃には良くなるはずが、酷くなる一方だったようである。
水を飲んでいないというので、すぐバックヤードの職員休憩室まで水を買いに行った。こういうこともあるんだな、と思い、ストック用の水も多めに買っておく。
バンドウが悪酔いしたままお忘れ物センターに帰ってくるのは初めてだった。一度、酔ったまま下車し、酔いが覚めるまでホームで”儀式”をしていたことがあったが、それきりである。優一郎も酒に強い方だったし、バンドウもそうだと思っていた。
食事も睡眠も本来はいらない体なのに、調子が悪くなることがあるなんて、面倒なものだと思う。心が悲鳴を上げるとどっと疲れるし、万能ではなかった。
疲れているわけではないと言っているが、自覚していなかっただけかもしれない。心配させまいと嘘をついている可能性だってある。バンドウは自分が弱っているところは見せたがらない。だから一人で”儀式”をして帰ってきていた。優一郎の時からそうだった。一人で悩み、誰にも相談しない。悩んでいることすら見せない。気付いた時には手遅れなのだ、いつも。
今の仕事は適当に手を抜いているが、もともとは完璧主義者だったのかもしれない。そう思い始めたのは、つい最近のことである。優一郎は同人の頃から着実にファンを増やし続け、挫折というものを知らなかった。あの時、優一郎はスランプにはまり、落ち込む自分を認めたくなかったのかもしれないし、見せなくなかったのかもしれない。
保管室に戻り、ストックを冷蔵庫にしまい、それからバンドウにペットボトルを差し出した。
「座れるの」
首をわずかに横に振った。受け取ろうともしなかったので、ベッドに腰かけ、額にペットボトルを当ててやった。
「本当は疲れてたんじゃないの」
「今日の捜索は別に普通の内容でした。あ、でも向こうはジメジメした夏の日だったので、気候にやられてしまったのかもしれません。喉乾いていたし、一気に飲んじゃったせいかも」
あはは、と力なく笑うので、溜息が出てしまった。その程度の理由で良かった。嘘をついているわけでもなさそうだったので、ひとまず安心する。安心すると今度は腹が立ったので、ペットボトルの底で頬をぐりぐりと押した。
もう心配などしなくていいのだろうか。最悪を想像してしまうのは、やめてしまおうか。そう思った。
「ね、飲ませてくださいよ」
「どうやって」
「口で」
所謂、口移しというやつだった。漫画やアニメでしか見たことがない。睦には刺激的すぎて見るだけで顔が熱くなっていた覚えがある。
だが、求められると、それに応えたい自分もいた。
キャップを開け、少しだけ口に含んだ。そのままバンドウの口に流し込んだ。少なすぎると言われるので、二回目はもう少し多めにした。
「……もういいですか……んむっ」
離れようとすると、今度は頭を押さえつけられ、そのまま長くて深いキスをした。
そこまでする余裕があるのなら、大丈夫か……少し呆れた気持ちになる。心配して損をした、とは、こういうことを言うのかもしれない。
バンドウの胸を軽く叩き、唇を離した。
「もう、頭が痛いんじゃないんですか。悪酔いしたのなら、早く寝てください。これ以上は駄目です。今日はしません、私が嫌です」
「はいはい、そうします。頭が痛いのは嘘じゃないですからね」
仕事に戻ろうと思って立ち上がろうとすると、引き止められた。寝入るまでいてほしいらしい。腰に抱きつかれる。
「昔もこんなことありましたよね」
「覚えていません」
「じゃあ今から思い出してください。ほら、開発チームの飲み会の」
漫画を描いていただけだから、開発チームとはあまり縁がなかったはずだが。睦の記憶をたどる。一つだけ、思い当たるのがあった。
初めてハピプラの飲み会に参加した。
開発していたゲームが完成したので、その打ち上げが行われることになったのだ。シナリオを担当した優一郎と、漫画での宣伝を担当していた睦も、なぜか誘われることになった。二人が打ち合わせをしていたフロアと、開発チームのフロアが同じだったからかもしれない。その日は、優一郎も睦も出社していて、当たり前のように声をかけられた。
優一郎は当然のように行くと返事をし、その流れで睦も行きますと返事をした。
「こういうの、何度もあるんですか」
「ありますよ。彼らはいくつかあるチームの中でも特に飲みが好きなんです」
そのチームが担当するのはノベルゲーム。ハピプラのメインジャンルだ。優一郎との関係も深い。
指定された会場へは、地下鉄を乗り継いで向かった。打ち合わせが長引いて、開発チームと一緒に行くことができず、優一郎と睦の二人で別で向かった。
会場は焼き鳥がメインの居酒屋だった。座席個室で、入り口近くに優一郎と並んで座った。もう酒を入れていたので、かなり賑やかに迎えられた。優一郎は「おまたせ」と朗らかに返していたが、こういう飲み会にはあまり参加してこなかった睦は、僅かに頭を下げるだけだった。
男性ばかりのチームで、女性は睦一人だけだった。それが原因なのか、やたらと絡まれる。どこの大学に行っていたのかとか、どこらへんに住んでいるのかとか、出身はどこかとか、とにかく質問攻めにあった。詳しく教える気がなかったので、最初は漠然と答えていた。答えながら、そういえば優一郎にも教えていなかったなと思って隣を見る。優一郎も自分の話に耳を傾けていた。付き合ってもいるのに、泊まりのデートもしているのに、何も自分のことを教えていなかった。優一郎が聞いてくれるのならと思って、優一郎に話すつもりであとの質問に対応していた。
酒が入っていたからべらべらと喋ったというわけではない。酒はあまり飲んでいなかった。自分が飲み慣れていないことも、弱いことも分かっていた。だが、途中で飲んでいないことが知られてしまい、勝手にビールを注文されてしまった。
注文されてしまったからには、飲まないといけない。見られている。困りながらグラスを受け取り、一口だけ飲んで、机に置いた。
置いた瞬間に、優一郎が自分のグラスと、睦のグラスを取り替えた。優一郎は半分ほどまで飲みすすめていた。
「飲まなくていいですよ」
耳の近くで囁かれる。
さらに、お冷を渡してくる。そして、チームの会話の中に戻っていった。
タイミングを見計らって、睦のグラスを空にしていく。自分の分と、睦の分を注文し、ゆっくりと二人分飲みすすめていた。
いくら酒に強いとはいえ、二人分を飲んでいたのだ。飲み会が終わる頃になると優一郎は少しぐったりしていた。
二次会も誘われたが、優一郎は断って、睦と一緒にチームと別れた。
「あの、すみません、助けてもらって……」
チームが駅に向かったのを見届けて、優一郎に謝る。
こめかみを押さえて、何かに耐えているような表情をしていた。
「ちょっと……、休憩させてください、横になりたい」
優一郎のアパートも、睦のアパートも、郊外にある。そこまで帰るのは難しいようだった。
居酒屋の多い地区には、ホテルが多くある。駅前のビジネスホテルに空室があったので、そこに入ることにした。睦がチェックインの手続きをしている間、優一郎はロビーのソファに座っていた。
部屋に向かう途中にあった自動販売機で水を買い、優一郎に渡す。部屋に入り、一気に水を半分ほど飲んで、すぐに横になった。
睦も優一郎の隣に入る。
「大丈夫ですか」
「大丈夫。いつもは平気なんですけどね。疲れていたのかもしれません」
抱きつかれると、アルコールのにおいがした。自分はあまり飲んでいないのに、この香りで酔いそうだった。
こちらが申し訳なく思っているのに、優一郎もなぜか謝ってきた。
「睦ちゃんには合わないメンバーだったようです。すみません。これからも付き合いがあるメンバーだったので、たまにはいいかなと思ったのですが」
「必要なら、ちょっとくらい我慢しました」
「しなくていいですよ、そんなの。前から言っていますけどね、嫌だったら、嫌って言ってください。少なくとも、僕には」
優一郎からされて嫌なことなど、今まであっただろうか。考えて、これからのことも想像してみる。
「優一郎さんからされて嫌なことは、ない、と思う、多分」
「そんなことはないでしょう。今だって酒臭くて嫌ですよね」
「嫌じゃない。優しい優一郎さんが好きです。嬉しかった」
キスをして、自分もその吐息で酔った。優一郎は嬉しそうに笑みを浮かべ、睦を抱きしめてすぐに寝入った。
「――そういえばそんなこと、ありましたね」
あの時はとても嬉しかったのに、言われるまで忘れてしまっていた。それが少し寂しい。きっと思い出せば、このような思い出はいくらでも出てくるのだろう。死ぬ間際の強烈な思い出に隠れてしまった、優しい思い出が。
プロポーズされた時のことも、小さな式を二人で挙げたことも、毎日のくだらない会話も。幸せな思い出は、意識して思い出さないと、すぐに忘れてしまう。
忘れたものを見つけるのは難しい。だが、こうやって思い出させてくれる人がいるというのは、とても幸福なことだった。
「あの時ね、すごい嬉しかったんですけど、睦ちゃんってやっぱり優しい僕が好きなんだなって思ったんです。優一郎もお付き合いしていく中で優しくない自分がいるって自覚したから、ずっと隠してました。嫌われたくないし、嫌なこともしたくないですし」
バンドウは自分のことを優しくないと言う。実際、優しくない時はある。
――優一郎と違って、今の僕は優しくないんです。優しくないことをしたくなる。でもムゲンちゃんが嫌なことはしたくありません。嫌なことは嫌って言わないと駄目ですよ。
それは優一郎と変わらない。優しくないと言いながら、実は誰よりもムゲンのことを気遣ってくれている人だ。
「バンドウさんは、ずっと優しいですよ。嫌って言えばすぐやめますし」
「まあ、言えって昔から呪文のように言っていますし」
「私も呪文のように繰り返しますけど、バンドウさんにされて嫌なことは、ない、と思います。恥ずかしいことは山程ありますけど。でも、バンドウさんなら、今のどんな私でも、受け入れてくれるって分かっているので、恥ずかしいけど、嫌じゃないです」
そこまで言って、先程の行為を思うとやっぱり恥ずかしくなって、ペットボトルをバンドウに投げつけた。
「早く寝てくださいっ。もう。二日酔いとか、絶対に嫌ですから」
「口移しのキスは嫌じゃないけど、二日酔いの僕は嫌なんですね」
いたずらっぽく笑われて、またものを投げつけたくなったが、もう投げるものがなかったので、言葉を投げつけておいた。
「ばかっ」
幼稚な照れ隠しだった。バンドウには笑われてしまっている。
保管室から出る時、おやすみなさい、と言われたので、おやすみなさい、と返した。
早くよくなってほしい。調子が悪いバンドウがいると、こちらも調子が狂う。
仕事は全て片付いていて、何もすることがない。無意識のうちにペイントソフトを立ち上げていた。
せっかく思い出したのだ。思い出したことを簡単な絵にして、自分しか知らない隠しフォルダの中に保存した。フォルダの中には、その他にも日記的な絵がいくつかある。
今まで描いてきたものを見返し、やっぱり思う。
本当に嫌だったことなんて、たった一つしかなかった。優一郎が、バンドウが、先にどこかに逝ってしまうこと。それと比べると、その他のことなんて些細なことだった。
もう忘れない。忘れたくない。忘れたくないものほど、忘れてしまうものだ。だからこうやって描きためている。どれもかけがえのない睦の思い出、ムゲンの気持ち。
戻りたいとは思わない。宝物のように描いて、大切にしまっておく。
見返していると、珍しくお忘れ物を取りに客がきた。寝ようとした瞬間に思い出して、慌ててホテルからやってきたのだという。
忘れていたのは、一本の剣だった。あるのが当たり前すぎて、座席に座る時にベルトから外していたのをうっかり忘れていたらしい。乗っていた特急の時間を教えてもらい、それを参考にリストから探すと、その剣は今日の昼にセンターに届いていた。保管室に取りに行くついでにベッドを見る。バンドウは既に眠っていた。
剣を渡し、ムゲンは最後に言った。
「思い出せて良かったです。もう忘れないでくださいね」
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